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戦国ちょっと悪い話44



1 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/10(水) 07:53:50.85 ID:N3newNEx.net]
戦国のちょっと悪いエピソードを挙げていこう

戦国ちょっといい話・悪い話まとめブログ
iiwarui.blog90.fc2.com/
書き込む際にネタがかぶっていないかなどの、参考にしてください

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このスレの武将などに対する愛称等の、用語解説はこちら
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63 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/08(木) 08:59:52.56 ID:Zv8WSUbD.net]
須賀川の城落つる事


二階堂盛義の正室大乗院(一般には阿南姫と呼ばれる)は夫の盛義と次男の行親が相次いで
没したため、天正10年(1582年)から須賀川城主となっていた。
阿南姫は伊達晴宗の長女で政宗から見れば伯母にあたる人物だが
蘆名盛隆(実は蘆名氏に養子に入った阿南姫の長男)とその子が没したときに
伊達側が政宗の弟小次郎を養子に送り込もうと画策し失敗したことが
禍根となり伊達家とは絶縁状態であった。

天正17(1589)年、伊達政宗が摺上原の戦いで蘆名氏を滅ぼした後
親蘆名だった二階堂家の須賀川城にも数日中に攻め寄せる風聞が立った。

評定の席で家臣たちが阿南に
「伯母なのだからきっと悪いようにはしない(命は助けてくれる)でしょう」
と降伏をすすめると阿南は
「いや、そうではない。はかない女の身ながら一途に思い入れていることがある。
我が身が盛義と離れてから九年になるが、思うようにならず暮らしていたところを
田村清顕が浅ましくも小倉・松ヶ鳥屋に押し寄せてきて河東の郷を奪い取ろうとし
防戦したとは言え関河内まで難なく清顕が入ってきたとき、嬉しいことに
佐竹義重が大軍を後詰めに出してくれたため清顕を追い返すことが出来たのだ。
松ヶ鳥屋のあたりを今まで無事に領しているのはひとえに義重のおかげである」
「我が身を安々と政宗が手中に収めてしまえば、仙道筋の諸将であの者に逆らおうと
する者はいなくなるだろう。そうなれば横柄な政宗は上見ぬ鷲の挙動してすぐにも
義重に仇をなすだろう。我が身だけはせめて一日でも歯向かい義重の恩に報いたいのだ」
と訴えた後、重恩の郎党共を召し寄せて
「風聞通りなら間もなく政宗が大軍で押し寄せてくるだろう。そうなれば多勢に無勢の習いで
安々とこの城は落ち甲斐なく討たれることは必定だろう。また命を惜しみいずこへ落ち延びたところで
草葉を分けて探しだされ妻や子どもにさらに憂き目を見せるだけになるのではないか。
ここはそれぞれ思うように降り政宗に奉公してほしい。少しも恨むことはない」
「我が身は女ながらも思うことがあるので、一人でもこの城でこらえて政宗が寄せてくるのを
待って自害する。冥途まで一緒にと思う者は伴をせよ。そうでない者は暇を得させよう」
と目を涙でいっぱいにして訴えたので、そこにいた家臣たちも袂を顔に押し当ててしばらく
涙に咽んでいたが、少しあってから
「そこまで思い定めなさっているのに、誰が恩を忘れ見捨てることがあるでしょうか。
たとえどのようなことになってもまず私達が討死してからの御身のことだと思って下さい」
と頼もしげに言ったので、阿南もとても嬉しそうにしていた。

64 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/08(木) 09:00:44.01 ID:Zv8WSUbD.net]
しかし政宗が侵攻してくるという沙汰が頻繁になってくるといつしか家臣同士も不和となり
早くも降る人間も出始め、重臣の守屋筑後守も伊達側と裏切りの密約を交わした。
侵攻してきた政宗は、敵側の死狂いに味方が駆り立てられ死傷者が増えるので攻めあぐねていたが
そこで守屋が自分の指物を抜いて部下に合図し長祿寺という禅寺の便所に火を付けさせたところ
西風が激しく吹き城中の役所に燃え移り四方に焔を吹いて軒を連ねた舘共々、炎上した。

阿南はこの成り行きを見て守屋の謀反を悟り、城中にいた守屋の妻を呼んで
「守屋め、譜代重恩の身を忘れこのようなことをするとは情けない」
と言ってさめざめと泣いたので、守屋の妻は応えて
「まことお恨みの程、愚かな我が身にもこれ以上はないと思います。この上は
御胸を晴らす為に某をどのようにでもしてください、露ほども恨みはしません」
と涙ながらに言ったので、腹をすえかねた阿南が襟を掴み刺し殺そうとすると
流石に女の儚さでそばにいた女房が袂に取り付いて妨げたので、阿南は小刀で
自害しようとし、大勢でとどめることになった。

その後政宗の元から迎えの人間が十四、五人来たので女房八人侍九人が阿南に付き添って
炎の中から泣く泣く出てきたことは、哀れといえるだろう。

――『会津四家合考』

その後阿南は政宗によって保護されたが伊達側が用意した食事には手を付けず、政宗のことを嫌って
甥の岩城常隆を頼ったが常隆が亡くなると、さらに甥の佐竹義宣の下に身を寄せた。
慶長7(1602)年佐竹家の転封に伴い出羽国に赴く途中、須賀川付近で病を得て亡くなったという。






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