- 53 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/09/02(金) 12:44:19.68 ID:lZSj8fMP.net]
- 大阪御城明ずの間の事
大阪の御城内、御城代の居所の中に開かずの間というところがある。 この所は大きな廊下の側にある。ここは五月落城のときより閉じたままで、今まで一度も開いたことがないという。 よって代々のことなので、もし戸に損じがあれば版をもってこれを補い、開かざることとなし置くという。 ここは落城のとき宮中婦女の生害された所という。 この故か、後になおその幽魂が残ってここに入る者があれば必ず変禍をなす事がある。 またその前にある廊下で臥す者は怪異に遇うともいう。 観世新九郎の弟宗三郎、かの家伎のことによって、稲場丹州が御城代であったときに彼に付き従った。 ある日丹州の宴席に随って酒を飲み、覚えずかの廊下に酔い臥せった。 翌日丹州に 「昨夜、怪しいことはなかったか」 と問われたが宗三郎は覚えがないと答えた。 「さらばよし。ここはもし臥す者があれば異変が出る。お前は元来このことを知らなかった。 なので冥霊も許したのだろう。」 と言われると、宗三郎は聞いて初めて怖れて、戦慄居る所を知らなかった。 また宗三郎の物語に ある天気が快晴のとき、かの室を戸の隙間から窺がい見るとその奥に蚊帳と思しきものが 半ば外し、半ば鈎にかかっているものがほのかに見えた。 また半挿のようなもの、その他の器物が複数取り散らかしている体に見えた。 しかし数年久しく陰閉の所なので、ただその状態を察するのみであったという。 いかにも身の毛が立つ話である。 また御城代の某侯、その権威でここを開いたことがあったが、たちまち狂を発せられて止めたという話も聞く。誰であったのだろうか。 このことを林述斎に話せば大笑いして 「今の大坂城は豊臣氏の旧に非ず。偃武の後に築き改められた。まして家屋の類は勿論皆後の物である。 総じて世に流れる造説には実らしいこと多いものである。 その城代である人も旧事詮索しただけであろう、徒に斉東野人の語を信じて伝えるのは、気の毒千万である。」 という。 林氏の説もまた勿論である。しかし世には意外の実跡もある。 また暗記の言は的証ともなしがたいものだ。 ゆえにここに両端を叩いて後、定めを待つ。 (甲子夜話)
|
|