- 45 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/08/30(火) 20:11:06.04 ID:ec+RNKRo.net]
- 高橋右近大夫種統(元種か)はもともと豊前国に所領を持っていたが、日向の懸にも土地を有していた。
大友家が滅亡した後、天正16年7月、豊前より日向に移り、松尾城に居住し、その後慶長8年、再び 懸城を築いて松尾城から移った。 元種は初めのうちは行状も正しく、領民たちも皆その政に懐いていたが、中頃より行状大いに乱れ、 酒宴にひたり女色に溺れ、無道の挙動多かった。 その頃、板坂出羽守(直盛)という大名の甥に、水間勘兵衛(宇喜多左門か)というあぶれ者が有った。 彼が故あって、直盛の厩預かりの侍を討ち果たして出奔した。直盛は大いに怒って将軍家に訴えたため、 将軍家はあまねく天下の諸侯にその捜索を命じた。 この水間勘兵衛は伊予国、飛田信濃守(富田信高)内室の従兄弟であったので、一旦は富田家を頼って 匿われていたが、富田信高も匿いきれないと考え、官兵衛に扶持を与えて、肥後の加藤家を頼って 遣わした。しかし加藤家でも匿いきれず、高橋家を頼り、高千穂の山奥に匿うことと成った。 ところがこの水間勘兵衛は、元来悪逆無道の者であったので、高千穂において召し使っていた人夫の一人を 手打ちにした。この時、元種の家老である花田備前守は元種に向かって 「あの水間勘兵衛を加藤家に返されるべきです!」 と諌めたが、元種はそれを承知しなかった。 しかし、勘兵衛に殺された人夫の父は、我が子が非命に死んだことを無念に思い、関東まで密かに上り、 板崎家に訴え出た。 こうして水間勘兵衛の匿われた場所が露見し、高橋元種も隠しきることは出来ず、勘兵衛を搦め捕えて 関東に差し出した。 時に慶長18年夏、駿府において富田、加藤、高橋の三家が召され裁判が行われた。 富田家は勘兵衛に不知を与えた罪により改易を仰せ付けられた。 加藤家は申し訳が立って無罪。 高橋家は匿い置いた罪によって、元種ならびにその嫡男に、出羽山形への配流を命ぜられた。 (日向纂記) 高橋元種が、富田信高と坂崎直盛の対立に巻き込まれて改易と成ったお話。
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