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戦国ちょっと悪い話44



415 名前:人間七七四年 [2016/12/15(木) 07:13:08.77 ID:pzCQt+x1.net]
加藤清正と人柱2

加藤清正公は肥後に入国した翌年から菊池川河口に広がる遠浅と島に目をつけ干拓事業に取りかかりました。
この干拓で最も困難だったのが「石塘」の築堤工事であった。
横島−久島山間(400m)は底が深く潮の流れが速くこの瀬戸に渦巻き、遠い昔から「丹倍ヶ淵」の名で舟人等を恐れさせた場所でした。

この築堤には大勢の人員と多くの石材、木竹、土むしろ、更に墓石に至るまで大量の資材を用いましたがことごとく流されました。
もはや堤の完成の為には人力だけでは覚束ない、古例にならって人柱を立てたらとの提案があり人選をして人柱を立てる事になりました。
その人柱になる人物の条件として、

「横布を当てて袴をつくろっている者」

が選ばれる事となり、その条件を満たす者がただ一人だけ見つかり、慶長十年(一六〇五)十一月二十五日、いよいよ潮止めを迎えると、その人は村人たちの見守る中、水中に立ちました。
横島山の頂上では大勢の僧侶たちがその冥福と工事の成功を祈って法華経を読経し、その人は土石の下に姿を消しました。
これにより難工事も見事に成功し石塘が完成しました。この石塘築堤工事により古来海上の一孤島であった横島が玉名の陸地と接続詞広大な新地が完成し、
最初の鍬入れの天正十七年一月から石塘築堤17年の歳月をかけ小田牟田新地干拓が終わりました。
 横島の伝説によると人柱に立ったのは大園村の庄屋伝作であったとされており、別に「藤公遺業記」によると中富手永(郷)千田村(鹿本郡)の者人柱に沈むとなっています。
また、鹿本郡植木町のとあるお宅には先祖が横島で人柱に立ったと言い伝えられています。
いずれが事実かはハッキリしないものの、人柱の歴史は事実であり石塘の人柱が立ったところには
「鎮魂慰霊」と刻んだ小さい祠が建てられ、現在では「人柱之碑」が建てられています。

これらの事から当地には昔から「横布を使うと人柱に立たされる」という言い伝えがあるそうです。
また、一番大掛かりだった石塘の築堤工事に基づき読経した経本を埋めたところを経塚と言い、この築堤工事に当たり多くの犠牲者と人柱に立った人の霊を祀ったのが大園にある本田大明神であり、
深夜にこの場所の近くを通ると、小石が転がってきたり・・カチカチと音が鳴ったりするなどの、怪奇現象の報告例が後をたたないという。






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