- 317 名前:人間七七四年 mailto:sage [2016/11/18(金) 19:46:27.75 ID:7E1FHg/r.net]
- 宇喜多殿というのは、元来備前の武士であった、当時は浦上という者が備前美作領国の主人であり、
宇喜多直家は浦上の家臣であった。しかしこの直家は悪性の人物で、国郡を持つ人と縁者などに成り、 後に殺して奪い取ることを度々した。浦上も殺して、遂には備前美作の主となった。 八郎殿(秀家)はこの宇喜多直家の子である。太閤秀吉と親密な関係に成ったのは、秀吉が備中高松の 城を攻めていた時、明智反逆の事が知らされたが、引き取りたいと思っても自由にならない状況であった。 この時、八郎殿が秀吉に一味して力を合わせた事で、秀吉は高松の城主に腹を斬らせ、その上で 巻き返して上京出来たのである。 この忠功により両者の関係は良く、秀吉は彼を聟に取った。しかし秀吉に娘はなかったので、 前田筑前守(利家)の息女を養子にして、八郎殿を聟に取った。 但しこの時分、八郎殿はまだ10歳ばかりであった。直家も当時まだ生きていたと言うが、瘡毒のため 人前に出ることも出来ず、八郎殿を国主分としていた。 そしてその下には、五万石、三万石といった大きな所領を有する家老たちがあり、彼らが談合して 高松の時も秀吉に味方する方針を決定したのだという。 八郎殿は太閤秀吉の聟と成り、また官位も上がり、宇喜多中納言殿と呼ばれた。 しかし治部少輔乱(関ヶ原の役)に至り、彼は治部方であったため、東照宮(家康)の勝利にて この乱が終結すると、八丈島へと流された。そして今もまだ生きていると聞いている。 これは老人(江村専斎)が癸卯の年(1663)、九十九歳の時に語られた話である。 (老人雑話) 宇喜多秀家は1655年に亡くなっているので、その部分は正確ではないのですが、 当時の江戸でも「宇喜多中納言ってまだ生きてるらしいよ」「すげー」みたいな話題のネタに なっていたのでしょうね。
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