- 139 名前:人間七七四年 mailto:sage [2009/06/01(月) 23:09:29 ID:xukYqKUv]
- 宣伝をすることは可能でも情報を遮断することは不可能だと思う。
1573年正月頃だと、公家の日記、フロイスの日本史、細川書状、などにより、 包囲網側の情報が流れているので、情報の遮断などは実現出来ていない、 そのため織田が敗戦を隠すというのはまず不可能。 また朝倉の大利だが、 初見が1572年11月の山県書状にある、熱田で聞いたと主張する噂、 朝倉自身の発言では無い、 朝倉が織田に勝ったと主張するのは土岐氏への3月での書状が初見でこれしかない。 肝心の1572年11月においては浅井朝倉ともにこの戦いがあったことを窺わせる感状宛行状を残していない。 またこの時期浅井朝倉は別個に各地の大名諸勢力と頻繁に連絡を取っているが、 この時期に織田に勝ったことを窺わせる書状は無い、普通なら盛大に各勢力に宣伝しているはず。 またある人が熱田は織田兵の故郷だから兵士から聞いたはずというが、 浅井朝倉織田の書状・各軍記よりこの時点では既に大半の織田兵は帰国した後なので、 秀吉の所領がどこかという問題も残るが、それもややおかしい。 そして11月27日山県昌景書状は内容が奥平の離反を防ぐためか東三河への宣伝工作のためか、 書状が真実を語っているかにはいくつかの疑問点がつく。 11月の信長の上杉宛書状で虎御前山に兵を入れたとあるので、 これを朝倉との戦いの結果とこの時期に兵を増やしたと考えることも可能かもしれないが、 武田と敵対後初めての上杉宛の書状であるため、単なる状況説明か。 総合的に考えて朝倉の『大利』というのはよくて小競り合い、 悪ければ風説の類ではないかと思う。
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