- 30 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2008/02/17(日) 23:32:05 ID:cs+OF2AK]
- 神の存在証明
例えばカントの「道徳証明」を、西田哲学では、これを批判しています。 我々がこの世で倫理と正義を認めるならば、霊の不死と神の存在は、我々の倫理から必然的に要請される。 あの世を認めないと言われるならば、死=無の等式しか成り立たない。 死して無になる存在が人間であるならば、我々は全て自己の利益と快楽を目的に人生を歩んでいくことになる。 エゴイストと非難されても、非難しているその者も死して無になるのであるからその非難は無効である。 死がイコール無であるならば、人間は全て自己の利益と快楽を目的に全人生を送ることになる。 エゴイズムと倫理、エゴイズムと正義はこの世で両立しない。 カントはこれゆえに、正義と善の存在を我々の目的としてこの世で認めるのであるならば、 霊の不死と神の存在は我々の倫理観から必然的に要請されるという「道徳的証明」を説きました。 これは方便です。 西田哲学の探求と批判は厳しいわけですが、西田博士は次のように言っています。 「全知全能の神なる者があって我々の道徳を維持するとすれば、我々の道徳に偉大なる力を与えるには相違ないが、 我々の実行上かく考えた方が有益であるからといって、かかる者(神)がなければならぬという証明にはならぬ。 この如き考は単に方便と見ることもできる」『善の研究』
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