- 1 名前:天江衣 ◆mpcWaY0QicdY [2023/01/23(月) 14:22:29.02 ID:UKOl6dl3.net]
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天にまします我らの父よ。 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。 御国(みくに)を来たらせたまえ。 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を 今日も与えたまえ。 我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。 我らを試(こころ)みにあわせず、 悪より救いいだしたまえ。 国と力と栄えとは、 限りなく汝(なんじ)のものなればなり。 アーメン。 -------------------------------------------
- 615 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2023/02/02(木) 23:34:15.26 ID:GgarZafQ.net]
- >>583
前レスにも言いましたが、自身の本質に関わる思考は忘れてしまうので正確になぜそう思ったかは今となっては忘れました だけど多分言いたかったことは、否定神学がやがては排中律なども否定せざるを得なくなるなら、2値で何でも余すことなく分けられると考える排中律と同様に、 反証可能性のない絶対的基準(2値論的是非だって)なんてものがあるという考えだって否定しなければならなくと思います だって排中律も絶対的基準の是正だって「本当は可能」という世界を認める実在論の枠内にあるはずだからです 排中律も理由律だって後付けの形式じゃなくて、アプリオリに神の側にあるとするから絶対性を持てるという話に帰結しても論理が飛躍しているとは思いません なんだか否定神学が何を指しているのかわからなってきました 否定神学とはキリスト教神学の一つという前提ではないのでしょうか 否定神学が指し示す「神」がキリスト教の枠内を出ているのならば、言い方が合っているのかは分からないけれど、ようは固有名詞の聖書の神のことではなくて普通名詞的な神のことという意味の無限者を主語にしていて、 否定神学が「無限者」と表現する段階ですでに指示対象が違うのではないかと思います
- 616 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2023/02/02(木) 23:34:58.99 ID:GgarZafQ.net]
- つづき
いつも簡単完結にまとめられなくて長文になってしまいすいません 純粋に否定神学の手法だけを問題にするならば、ぼくはもうその立場は信仰的な問題に接触するので立てません 多分、エイシストさんはぼくの立ち位置からもう一個外に離れて語っているので存在論と認識論で分けられるのではないでしょうか 宗教学としての宗教学的否定神学を語っているように思います それなら「神の存在論は神は無限であるということであり、神の認識論は人間は有限なことばでは神を認識できないということである」と分けて考えることも可能だと思いますが、 キリスト教信仰を前提として神について語る学問が神学であって否定神学もその中にあると定義するならば、否定神学の語る神の存在についての定義の仕方だって、結局は認識の問題で、認識論の枠内から出られないように個人的にには思います 話をすり替えた感じが抜けないけど、一応こんな感じでレスとさせてくださいw あといつもの余談ですが、思うに、否定神学ってグノーシス主義と相性がよさそうです、 「存在しない神」が存在する(言葉はカッコいいけど) 例えば、否定神学にのっかて言うと、欲望しない神が世界つくろうと思った、もうこれだけで矛盾に導けるような気がしますがどーすか
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