- 583 名前:atheist mailto:sage [2023/02/02(木) 02:05:21.87 ID:uY/o3qIZ.net]
- >>581-582
それはまさに信仰ゆえの拒否反応だと思います ここで言う信仰とは、ほとんど本能的と言っていいような、生の根底の部分で感じるレベルの信仰のことです 否定神学と言われる潮流に属する神学者たちの信仰はこのような心情レベルでは いったいどのようなものであったのか 彼らは神の無限性とことばの有限性というところから出発して 有限なことばによる神の理解を拒絶するあまり、否定を極限化させて 結果的に観念や論理の暴走に至ったのか、 それともことばを超越した無限なる神と心情レベルで合一する方法として否定神学を実践していたのか、 わたしは彼らをよく知らないので、その判断は保留します いずれにしてもオーソドックスなキリスト教は確固たる肯定命題の先に神の神秘を見ますから 否定神学というか、排中律の否定に拒否反応を示すクリスチャンがいるのは むしろ当然のことのように思えます ちなみに否定神学においては、「神の視点」での絶対的是非を認めないとか 神さえも知らない領域があるとか考えるのではなく 人間のことば(排中律などの論理も含む)では神について肯定的に知ることはできないと考えるので ここは違うのではないかと思います あくまでも人間の側が神を認識しようとする際の、ことば(あるいは認識)の有限性の問題であって 神自身の認識能力の話ではないからです(そもそも神は無限という前提ですから 神の認識能力に限界があるとは彼らも思っていないでしょう) このあたりは神に関する存在論と神に関する認識論が混同されているように感じます 否定神学における神の存在論は「神は無限である」ということであり 否定神学における神の認識論は「人間は有限なことばでは神を認識できない」ということだと思います
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