- 1 名前:天江衣 ◆mpcWaY0QicdY [2023/01/23(月) 14:22:29.02 ID:UKOl6dl3.net]
- -------------------------------------------
天にまします我らの父よ。 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。 御国(みくに)を来たらせたまえ。 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を 今日も与えたまえ。 我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。 我らを試(こころ)みにあわせず、 悪より救いいだしたまえ。 国と力と栄えとは、 限りなく汝(なんじ)のものなればなり。 アーメン。 -------------------------------------------
- 581 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2023/02/01(水) 23:47:47.50 ID:vWKCzRj/.net]
- >>546
>>547 言われるまで気がつかなかったけど、反射的な拒否反応がこの話の私側の本質だったのをいま自覚しました 本質はどういうわけか経験上いつも意識から忘れてしまうようです この思考そのものも忘れて消えてなくなりそうなので書き留めておきます 寝起きには夢の内容を覚えているのに覚醒とともに忘れて行くようなあの感じです 超個人的な心情ですが、観察対象の一例として何かの理解につながればと思っています なぜ矛盾律や排中律の否定に帰結した理由は共感しました 無限性を持つと考えられている無限者について語るのに有限的な言語で表現できず、その方法が否定で語ることで可能性を試みようとしたみたいですね そうすれば、やがては排中律否定にならざるをえなくなります 一方で、これらの否定は原理的な実在論的世界の実在性の否定だと思っています ようするに是非の答えの他に第3の答えが付随するようです 「神の視点」での絶対的是非(2値論)は認めないということと同義になるしかないと感じます それが意味するのは、2値論で分けられるという判定の担保がないということは、およそ予測可能か不可能かどうかは関係なしに、世界には神さえも知らない領域がある、ということ認める立場でもあることを意味しているように聞こえます これが反射的な拒否反応の頭かもしれません 確固たる肯定命題の組み合わせで教理ができたというのは、聖書に基けば、神とは肯定的な存在者です そういう神が造ったのだから同様に造られた世界もまたそうでなければならなくて、そして必然的にそうなるしなかったと断定すらできると思います(ぼくは断定は嫌いなんですが) 理由が根拠であり根拠が理由に相互に与っているのかもしれません
- 582 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2023/02/01(水) 23:48:09.98 ID:vWKCzRj/.net]
- つづき
ここにきて改めて言うのも何ですが、ぼくは原理的に客観的論理的思考はできていないようです 私にとって、思考を正当化するためには、信念などの心的な構造に沿った形でなされなばならず、 心的葛藤を感じる場合は、論理的思考の正当化の問題から階層を移し、内在する実存の信念問題になってしまうみたいです 改めてそう思い、気がつきました この自分でもいつもは感じないし見ないけれど、自分と共にあるけど、自分とは別の存在があって、それがふとした瞬間にある違和感みたいなものとして、隠された考えを持っていると言う自覚を認識したとき、 私が私の内なる神がいる、ということ見出せると言っても過言だとは思いません そんな感じの自覚が神的なものであり神秘ではないかと時々思いましたし、今もそう考えています なので思うのは、神秘とは肯定命題の先にあって、矛盾律や非理由律や非排中律とか非無矛盾律(非を使ったけどそんな単語があるのかは不明です)とかの否定の先あるのではなく、 そしてそれは「神秘」ではなくてただの「秘密」であって、不可知の秘匿性を神秘という領域に無理矢理すり替えただけではないかという疑問を抱いてしまうわけです と、心から消えないうちに心情を書き留めてみたわけですが、ぼくも私事につきあってもらったということで相殺して下さいw あと「すうがく」で記号がでるのを知ったことは今年最大の発見でした まだ1ヶ月ですけどw
|
|