- 223 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2020/09/28(月) 23:03:00.33 ID:K7LIMjJe.net]
- >>220
色々なサイトを漁ってみたらこちらにテーラワーダとチベット仏教の色界と無色界禅定についての捉え方について端的に書いてありました。 (最後の方はアートマンとかアストラルとかヨガ/スピリチュアルな話までされているサイトですが) https://w-jp.net/2019/1658/ またこちらのサイト horakuji.com/dhyana/sikan/dhyana.htm によると説一切有部でも >さて、『婆沙論』によれば、すなわち一切有部によれば、静慮とはあくまで四禅についてのみ言い得る言葉です。 >仏教では一般に、色界と無色界の定を併せて四禅八定、あるいはこれに滅尽定(金剛喩定)を加えて九次第定などと言われます。 >ここで、それがたとえ色界の三摩地よりも高い瞑想の境地と位置づけられていたとしても、無色界定あるいは滅尽定などに「禅」という言葉が用いられていないのは、このような理由によるものであることが知られるでしょう。 >四無色界における定は、四禅よりもいわばより澄んだ心の状態であったとしても、心に(優れた)心所すなわち働きが起こっていないことにより、優れたものであると見做されません。 >有部において静慮いわゆる禅とは、止と観とが拮抗した心の状態、『倶舎論』における玄奘三蔵の訳語をもって言えば、止観均行なる勝れた心の状態を示すものです。 とやはり四禅は止観均衡で優れているとされていたようです。 >閑話休題。 >また、特に第四禅は、冒頭触れたように釈尊が成道される際にあられた定であり、また般涅槃される直前にも入られていた定であり、これは伝持する部派が異なってもそれらの経典が一致して説いている事です。 >このことは、僧伽が分裂する以前の最初期に、仏滅後結集を行なった諸大徳らも、第四禅という境地が特に重要なものであるとみなしていたことを示唆しているように思われる点です。 >いずれにせよ、禅なる境地は、止観均行・止観平等なる、悟りを得るについてもっとも良い条件整った境地である、と言うのが有部の見解です。
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