- 617 名前:>>15 [2007/02/22(木) 14:10:14 ID:8y1hrKKV0]
- >>612
県の西部の沖に于山、武陵という2つの島がある。 これらの島々(と)の距離はさほど遠くなく、晴天で風のある日にはよく見える。 新羅の時代には、于山國あるいは鬱陵島と呼ばれた。面積は100里である。 大変険しい土地で、征服するのが難しいと思われたが、 智證王十二年 (512 A.D.)に、異斯夫という者が何瑟羅州軍の長となり、こう言った。 「于山人は無知で野蛮なので、武力で征服するのは困難である。 そこで、知略を施さなければならない。」 彼は恐ろしく獰猛そうな猛獣を木で作り、複数の軍の船に分載して島へ行き、住民へこう告げた。 「もし服従しなければ、猛獣達を島へ放してお前達を食わせてしまうぞ。」 島の住民は、恐れおののいて出てきて、服従した。 高麗太祖十三年(930 A.D.)に、その島の住民は白吉と土豆を使いにして貢納した。 毅宗十三年には、審察使の金柔立たちが(島から)帰還しこう述べた。 「島の中央に大きな山がある。 頂から海岸までの距離は、東へ1万歩、西へ1万3千歩、南へ1万5千歩、北へ8千歩である。 島には7つの村の跡がある。 石仏像、鉄鐘、石塔もある。 柴胡、蒿本、石南草が沢山自生している。 我が太祖の時代(1392 ~1398 A.D.)に、多くの人が島へ逃げ込んだ、と伝えられる。 三陟の住民である金麟雨が再び按撫使に任命されて島へ向かい、島の住民を強制的に退去させ、空島とした。 金麟雨はこう報告している。 「島の土地はとても肥沃で、竹は柱の如く太く、鼠は猫の如く大きい。桃の種は升のように大きい。その島の産物は、皆そんな具合である。」”
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