- 503 名前:換金作物の大規模栽培】は、
白人の資本投下によるプランティションで行われたが、 それは無料に近い土地で低廉な労働力を使い、莫大な収益をあげるものがほとんどであった そして、マレーのゴム、インドの綿花というように、特定の一次商品を宗主国に輸出し、 完成消費財を輸入するという経済構造に変質したため、 【従来の自給型農業が決定的な変化】を被った。 その結果、水田の減少や失業者の増加により、飢饉に際して多くの犠牲者を出す地域が現れた。 ジャワでは人口33万の町が12万に減少し、 【インドではイギリスの支配ののち飢饉が増加】し、1877年の【南インドの飢饉では5百万人が死亡】し、 1943年での犠牲者は【ベンガル地方だけで340万にも達した】 「弾圧と虐殺」 列強は植民地支配への反乱については、きびしい弾圧と虐殺でのぞんだ。 イギリスは、1857年に起こったセポイの反乱に徹底的な弾圧を加えた。 当時のイギリスの『タイムズ』紙は 「キリスト教会の破壊1に対し100のヒンドゥー寺院をたたきこわせ。 白人殺害1に対し、老若男女を問わず1000人の暴徒を死刑にせよ』 と報復を訴えた。 事実、イギリスは、みせしめのため捕虜の集団銃撃や焼き殺しなど、珂責ない弾圧と虐殺を行った。 【フランスのベトナム支配は、監獄をつくることから始まる】といわれた。 1940年のメコン河流域の住民蜂起では、6000人のベトナム人が逮捕され、 サイゴンの監獄は満員となり多くの囚人が死亡した。 1945年、ホーチミン国家主席が読み上げた独立宣言にその怒りが込められている。 「…彼らは学校より多くの監獄を建て、容赦なく愛国者を殺害し、蜂起を血の川に溺れさせた。…」 米西戦争に勝ったアメリカは、フィリピンに戦争を仕掛けて8万人の陸軍部隊を送り込み、全域を制圧した。 また、1906年、アメリカ式の土地制度などに反発したイスラム系住民の 反乱の時は、米軍は彼らの砦を包囲し、 戦闘員から女子供を含めて6百人全員を皆殺しにしてしまった [] - [ここ壊れてます]
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