- 588 名前:天之御名無主 mailto:sage [2012/12/13(木) 13:46:52.28 .net]
- >>587
>君の認識している世界はあくまで君だけの世界で、他にイコールなものなんぞ無い。 ちょっと意味がわからなかったが、「この世界は君の認識とイコール」を「俺の世界と君の世界がイコール」と読んだ? 徹頭徹尾、「君」の主観に視点を置いたつもりだったんだg. というか、一段落目は皮肉なのだから、そこにだけ反論されても、反論になってないぞ。 >科学と言うのは、その限界を弁えた上での信仰でしかないと言う所に立脚してる。 「切っていて涙がでるのはジャガイモじゃなくて、玉ねぎだよね。なぜ?」という問に対し、 「人間は自分の認識の範囲でしか世界を認識できないから、玉ねぎで涙がでるんだ」とか言っても意味が無い。 そりゃ玉ねぎで涙がでるってのも、「人間の認識の範囲内」の話だが、玉ねぎの話をしてる時に、そんな話をしても何の意味もない。 情報の保存則もそれと同じ。経験科学の蓄積の中で確立された理論の話に対してドヤ顔で 「痕跡のあるものしか認識できない」が故に、「情報の保存則」は必然とか言っても全く意味は無い。 >三原色で視覚情報を認識しているほとんどの我々にとって、四原色の瞳を持つ人間の視覚世界を認識出来ないのと一緒だよ。 クオリア=現象的質については、わからないように思われる(実際には、この考え方は哲学では批判もあるので、そう単純ではないが) ただ、主観的な現象の「質」の差異は、意味(志向的や命題的な性質)を担っていないことも重要。 「私の赤」と「あなたの赤」が同じじゃなかったとしても、別の「赤」を意味してはいないし 「私の赤」と「あなたの青」が同じだったとしても、それは同じものを指している事にはならない そういう意味においては、主観的現象世界は、その認識世界の差異を意味しない。 さらに言えば、”三原色と四原色の認識の違い”自体が経験的知識に基づいてはじめて提出できる種類の思考だ。 >認識不可能=非存在ではない。 「認識不可能=非存在」とも「認識不可能=非存在ではない」とも原理的には言えないよ
|
|