- 113 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 [2011/10/09(日) 14:05:39.80 ID:eaYwFqfI0]
- Q:恥ずかしながら全然知りませんでした。
何歳の時に詠んだ歌なのですか? A:9歳の時だと言われている。 Q:9歳って言ったら、小学校3年生か4年生ですよ! A:親鸞上人は幼いうちに両親を亡くし、9歳で仏門に入ったと歴史を紐解けば書かれている。 しかし、両親が亡くなって生活が困窮したから仏門に入った訳ではないと言われているんだ。 Q:どういうことですか?孤児みたいなものでしょ? A:親鸞上人の家庭は当時ではかなり恵まれていたから、両親が亡くなっても親族や一門の人間が健在であれば 生活に困るようなことは無い。 「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」は、9歳で厳しい仏門の世界に入ろうとする親鸞少年を 一門の人達が「坊ちゃま、仏門に入るにはまだお早いです。お考え直しくださいませ。」と宥めた時に詠んだとも言われているんだ。 Q:なんという9歳の少年なんでしょうか!!自分が恥ずかしくなります!!目頭が熱くなります!! A:9歳だった親鸞上人が残した歌を後世の我々が詠んでどう思うかはその人次第だ・・・。 特に歌の最後の「吹かぬものかは」は含蓄がある。 Q:意味が分かりません・・・。 A:この句は「今日行ける花見を愚図愚図して、結局明日にでもするかと行動を遅らせているうちに、 夜に大風が吹いてあくる日には桜の花が散ってしまって花見が出来なくなってしまうこともありますよ。」という意味だ。 意訳だけどね。 最後の「吹かぬものかは」は「(大風が)吹いてしまうこともある→桜の花が台無しになってしまうこともあるという婉曲的な表現だが、 本当は「こともある」じゃなくて、「台無しになってしまうものなのですよ!」という意味ではなかろうか? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ つまり、親鸞少年は、自分の出家を思いとどまらせようとする一門の人達向けて、 「仏門に入ることを決めた私の志を、台無しにしてしまうものなのですよ。」と諭したと思うんだ。 もし、一門の人達の言葉に従って、「やっぱり考え直そうかな〜」なんて思う人間は、得道することなどは到底叶わないと 9歳の親鸞少年は分かっていたんだ。 Q:つまり、今、自分が出来ることをすぐ実行に移さないといけないということですね。 いつまでも安穏とした暮らしが保障されている訳ではないんですね。特に浦安市は・・・。 A:その通りだよ。気付いたら各種の税金が大幅に上がったにもかかわらず、市の特養ホームの入居待ちは10年なんていうことも 十分考えられるんだ。
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