- 398 名前:イギリス・フランス・オランダ・アメリカは、彼らの艦隊だけの軍事力では、とても日本に上陸して制服など出来ないことを知った
・いずれも、日本は植民地化をまぬがれた。当時の日本の軍事力。それが、アメリカ大陸の原住民との違いなのです (参考) https://www.zakzak.co.jp/article/20230406-3SX7EQSAFRLBXHEC7VTKZ5Y7JM/ 本当に強かった日本 スペインに日本征服を断念させた武力と知性(下)高い技術水準、世界トップの鉄砲保有国 イエズス会は高価な硝石交易で大名に接近 2023.4/6 zakzak ■内藤克彦(ないとう・かつひこ) 歴史探求家。1953年、東京都生まれ。東京大学大学院工学部物理工学専門課程修了。 戦国日本の武力は、欧州諸国と比べて、どうだったのか。 『鉄砲を捨てた日本人』(中公文庫)という著書がある米ダートマス大学のノエル・ペリン教授によると、1589年に英国がフランスに軍を派遣するに際して、英国全土から集めた銃の数は1100挺足らずであった。 だが、その14年前の1575年の長篠の戦いで、すでに織田・徳川は3000挺、武田は500挺の鉄砲を動員していた。鉄砲伝来(1543年)からわずかの期間で、わが国で鉄砲は大量生産され、性能も改善され、全国的に普及し、当時の「世界トップの鉄砲保有国」になっていたのである。 コエリョは秀吉に明出兵計画を提案する。「今に見ておれ、太閤を海外遠征に引き込んで、さんざんな目に遭わせてやる」というコエリョの策謀を見抜き、秀吉がコエリョに叩き付けた五箇条の中に、「なにゆえにお前たちはお前の国民が日本人を購入し、奴隷としてインドに輸出するのを容認するのか」とある。 織田信長や秀吉らと会見し、戦国研究の貴重な資料となる『日本史』を記したイエズス会宣教師、ルイス・フロイスによると、『伴天連追放令』に際し、秀吉は「伴天連らは、…大身、貴族、名士を獲得しようとして活動している。…このいとも狡猾な手段こそは、日本の諸国を占領し、全国を征服せんとするものであることは微塵だに疑問の余地を残さぬ」と述べている。 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89 薩英戦争(文久3年7月2日 – 4日〈新暦: 1863年8月15日 – 17日〉)は、薩摩藩と大英帝国 (イギリス[注釈 3])の間で起こった戦闘である。文久2年8月21日(1862年9月14日)に武蔵国橘樹郡生麦村で発生した生麦事件の解決と補償を艦隊の力を背景に迫るイギリスと、主権統治権のもとに兵制の近代化で培った実力でこの要求を拒否し防衛しようとする薩摩藩兵が、鹿児島湾で激突した。 薩摩方は鹿児島城下の約1割を焼失したほか砲台や弾薬庫に損害を受けたが、 イギリス軍も旗艦「ユーライアラス」の艦長や副長の戦死や軍艦の大破・中破など大きな損害を被った。 この戦闘を通じて薩摩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、これが以後両者が一転して接近していく契機となった。 つづく [] - [ここ壊れてます]
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