- 26 名前:基本。 ◆XE./kJ00CA [2007/03/21(水) 05:18:49 ID:PfXHAa3z]
- 神と人の問題が信心なのですが、病をたすけて欲しいという人間の願望は、程度を超えると、幾らでも出すからたすけて欲しいと、なります。
親神様は、お金で助かるとは言われていない。 「やまいの元はお金から」とは、言われていない。 ところが、お金を出せば悪因縁から逃れられるというような諭し方をする「愛町・関根系」のような、諭しをしますと、諭された側は、幾らでも出してたすかりたいと、願望を持つ。 これが、宗教による集金です。 そう言う事は、各地域の教会の、説く教理に紛れ込む。 重度の障害者さんが、症状悪化で激痛が来て救急車で運び込まれて、その病人さんの親友という人から、私に連絡があった。 病人さんは天理教の信仰している人なのだが、天理教の行っている教会に連絡したら、必ず何万とお金を出さなきゃならなくなるから、基本さん、なんとかしろ・と言う電話だった。 すぐに、病院に行って、病人さんと会った。 障害者でありながら、毎月三万円を、お供えしているとの事だった。 基本は、「そのお供えは多すぎる、欲だから止める事」と諭した。 その心定めで、一発で激痛は、とまった。 以後数年たって本人に会ったとき、ただの一度も痛みは無くなったと、感謝の言葉を聞いた。 私は本人に聞いた。 その重度の障害、治るようお願いするのか、今のままで良いから痛みが無いようにお願いするのか、どちらですかと。 本人は、「治らなくてよい」との事だった。 人はそれぞれに、願いの内容は違う。 そして、代価として「毎月三万円」は障害者に求めるものではない。 お諭しというのは、本人対神様の問題である。 それを、取り次ぐに過ぎない。 愛町関根系をまねしていけば、かっての多くの割合の大教会初代のように、全て失う。 史実は、そう証明している。
|
|