- 468 名前:武田 [2018/01/21(日) 20:38:38.20 ID:3SNShg4W.net]
- 南無妙法蓮華経というのは、一句一偈です。
しかしながら、同じ一句のなかでも肝心の一句です。 南無妙法蓮華経と唱えるだけで仏になることができるのかとお尋ねですが、この疑問は最も大切なことです。 法華経一部の肝要であり、八軸の骨髄であります。 人の身は五尺・六尺であっても、魂はの一尺の顔に現われ、一尺の顔に現われている魂も一寸の眼の中に収まっています。 また、日本という二つの文字に、六十六箇国の人畜・田畠・上下・貴賎・七珍万宝が一つも欠けることなく収まっています。 そのように南無妙法蓮華経の題目の中には、一部八巻・二十八品・六万九千三百八十四の文字が一字ももれず、欠けずに収まっています。 それゆえ「経には題目が大事であり、仏には眼が大事である」と白楽天も述べられています。 妙楽大師も法華文句記巻八に「略して経題を挙ぐるに玄に一部を収む」と釈されています。 その意味は、略して経の名だけを挙げても、そのなかに法華経の全体を収めているという文です。 一切のことにつけても、所詮・肝要ということがあります。 法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目です。 したがって、朝夕唱目を唱えるならば、正しく法華経一部を真読されていることになるのです。 二遍唱えることは二部、百遍は百部、千遍は千部読むことになり、このように、怠りなく唱えるならば、怠りなく法華経を読む人であります。 天台の六十巻という文には、この旨を説かれているのです。 (日蓮大聖人の著作『妙法尼御前御返事』の現代語訳より抜粋)
|
|