- 866 名前:生粋の名無しさん mailto:sage [2018/10/13(土) 20:16:58.72 ID:lTtyH5h7.net]
- >>825
https://call-of-history.com/archives/4445 > ここで、交渉を焦る対馬藩は国書偽造に手を染める。 まず対馬島内の罪人二名孫作(三七歳)、叉八(二七歳)を犯人にでっち上げて送致、あわせて家康の偽の国書を作成して送付した。 偽書は日本国王家康の名義で日本国王印が押されていたという。 この「日本国王印」は慶長元年(一五九六)、宗義智と小西行長の斡旋で停戦交渉のため明国の使者が秀吉の元を訪れた際に秀吉に与えられたものだが、 秀吉は明国への従属を意味する日本国王の称号を拒否、さらなる戦争継続を望んだ。 その際に宙に浮いた形の「日本国王印」が豊臣政権崩壊のどさくさで宗氏の元に渡っていた。 予想外の進展に李朝は驚き国書の真偽なども話題に上ったが、最終的に主張が通ったことから講和を進めようという機運が高まり、 慶長十二年(一六〇七)、国書に対する返礼として四六〇名余りの使節団「回答兼刷還使」が派遣、将軍秀忠、大御所家康に謁見することになった。 ここで対馬藩は再び国書偽造を行う。 なにせ朝鮮側からの国書は「日本国王家康からの国書の返事」という体裁だったから、それを初の国書という内容にすり替えなければならない。 改竄した朝鮮側国書をすり替えるタイミングがなかなか訪れず、すり替えが成功したのは秀忠謁見の日、江戸城登城の途中であったという。
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