- 767 名前:蓋国在鉅燕南倭北(蓋国は鉅燕の南、倭の北に在り)→倭(伽耶地方)…秦前漢時代。
漢書地理志=楽浪海中有倭人(楽浪海中に倭人有り)→倭人の居住地(北部九州)…後漢初頭。 魏略=倭在帯方東南大海中(倭は帯方東南大海の中に在り)→倭(北部九州)…魏末晋初。 魏志韓伝=韓在帯方之南、東西以海為限、南與倭接(韓は帯方の南に在り、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す)→倭(伽耶地方)…晋代。 魏志倭人伝=倭人在帯方東南大海中…従郡至倭…到其北岸狗邪韓国(倭人は帯方東南大海の中に在り…郡より倭に至るは…倭の北岸狗邪韓国に到る)→倭人の居住地(北部九州)とし、その地を倭と呼んでいて、倭の北岸が狗邪韓国だとしている…晋代。 これを見ると、前漢の頃には伽耶地方は倭と呼ばれていたことが分かる(山海経)。 そして、奴国が後漢に朝貢した頃から中国では北部九州を倭と呼び(金印の倭)、そこに倭人が住んでいるとの認識ができたことが分かる(漢書)。 そのあと、魏末晋初に成立した魏略は北部九州を倭と呼んでおり、そこにある国を倭国としている。 魏略のあと晋代に成立した魏志の倭人伝では北部九州などを倭人の居住地とし、その地を倭と呼んでいて、その倭の北岸を狗邪韓国としている。 ここで、魏志韓伝では韓の南部域が倭と接していると書いていることが注目されるわけであるが、 上の流れをみると、その南部域の「倭」はまだ倭人が前漢に朝貢していない秦・前漢期に成立した山海経の「蓋国在鉅燕南倭北」の記述を踏襲したものであることが分かる。 半島のことを書いているのが魏志韓伝なので、半島のことを書いた山海経のその記述をそのまま踏襲したということになる。 したがって、この魏志韓伝の韓地の地理観は秦・前漢期のものであることが理解され、後漢期からは倭人の朝貢によって地理観が改まり、「倭」は北部九州へと移ることになる。 そして、魏志倭人伝においては、その韓伝の「倭」に当たる地方は狗奴韓国と記述されることとなり、韓の南部にあるとされた「倭」は姿を消すことになるもの。 こうしたことからみると、半島南岸域に倭人が主に住んでおり、そのことから「倭」と呼ばれた地名があったとするのは、誤りではないか。 これらをみると、 [] - [ここ壊れてます]
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