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司馬遼太郎 Part13



1 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/17(土) 17:27:04.65 .net]
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。
現在「翔ぶが如く」が進行中です。

前スレ
司馬遼太郎 Part12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516287702/

776 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 19:54:26.28 .net]
【先発旅団】
第一旅団:野津鎮雄少将……東京歩兵第1連隊、大阪歩兵第8連隊 
第二旅団:三好重臣少将……参謀長野津道貫大佐、近衛連隊(士族兵)
両旅団とも2,000の兵力。その後、大幅に増員。
2月22日に博多上陸。23日に博多を進発。

777 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 20:00:11.47 .net]
☆ 二日市
福岡県筑紫郡にあった町。現在の筑紫野市の中心部にあたる。「博多の奥座敷」と称される二日市温泉がある。
昭和30年:御笠村・筑紫村・山口村・山家村と合併して筑紫野町が発足。
昭和47年:市制施行により筑紫野市となる。
https://mapio.net/images-p/46247137.jpg

778 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 20:10:08.25 .net]
☆ 石貫村川床
乃木の第14連隊は高瀬を経て6q北の石貫村の字川床に辿りついた。
石貫村は現在玉名市石貫。
大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の妻・春野スヤは石貫村の出身。乳がでかい。
https://d39t9tn4y25mgl.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/7f4ff5ec671420ab3bcfb320dc671c1f.jpg
字川床は、玉名市三ツ川になっている。

779 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 20:22:53.44 .net]
☆ 彦坂為一大尉
第一旅団の東京鎮台歩兵第1連隊第3大隊第1中隊の中隊長。
24日午前、乃木の連絡将校である渡辺中尉と久留米近辺で出会う。
3月9日には戦死する。

780 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 03:28:41.43 .net]
渡辺中尉から戦況報告を聞いた野津鎮雄少将は、高瀬を奪うことを決意した。
高瀬の会戦は、このようにして初動しはじめた。
なお、野津鎮雄は、明治13年、明治天皇の随行を命ぜられるが、出発前に病に倒れ死去。享年44。

781 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 03:32:12.99 .net]
野津は彦坂為一大尉の中隊に、人力車で高瀬への急行軍を命じた。
https://assets.media-platform.com/lifehacker/dist/images/2017/12/18/asics_top2-w960.jpg

782 名前:日本@名無史さん [2019/03/26(火) 05:20:45.86 .net]
>>619
ジャパネット高田か?

783 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:32:17.96 .net]
「西郷を擁し、遠く東京へ乗り込む」などと、地理感覚としても壮大であった彼らの構想は、
熊本城攻めのわずか第一日目の難戦だけでもって、ほとんど忘れられたようになった。
当面の現実――つまり敵という存在――が、彼らの思考を小さくした。
薩軍の思考は、目の前の熊本城にこだわらざるをえず、たとえば熊本城を突き放して遠く小倉方面へゆくという思考もできなくなった。

784 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:39:42.36 .net]
さらには、政府軍の南下接近という敵状が、かれらの意識を拘束した。
二十二日夜、本営の議論が分裂したために西郷が裁定して決定したのは、一部をもって熊本城を抑え、一部をもって近郊に迫る政府軍を迎撃するということであった。
その地理的感覚は熊本近郊を出ず、思考の狭小化は、救いがたいほどのものになっている。



785 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:48:51.30 .net]
当初、鹿児島を出るときの私学校の政略は西郷軍が東京に迫ることによって満天下の不平士族だけでなく各地の鎮台までが風をのぞみ、
あらそって軍旅に投じ、ゆくにつれて軍勢は雪だるまのように大きくなり、ついには東京を圧倒するに至るというものであった。
ただ、政略は存在したが、それを実現せしめる戦略を持たなかった。
政略はいわば気体のようなものであり、それを固体化するのが戦略であったが、
桐野・篠原らの感覚では、西郷その人こそそのまま戦略であるとしたむきが強かった。
西郷さえ持ち出せば、その圧倒的人気によって、戦略の機能を十分果たしうると思っていた。

786 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:59:34.31 .net]
要するに、桐野・篠原らは西郷という世間的価値に、世間以前にまず自分たちがまばゆく眩んでしまったということであろう。
このために常識的な意味での政略も戦略も考えなかった。
そのため、眼前の戦術的対象にすぎない熊本城に捉われてしまったとき、政略も戦略も霧のように消えた。
せっかく木葉を占領しながら、さらに兵を進ませることなく慌てて植木まで撤退させたのも
薩軍がたんなる戦術部隊に堕ちてしまっている証拠であり、
さらには菊池川を渡って高瀬を占領しておくこともせず、結局は政府軍が高瀬を占領してからやっと兵を繰り出すという形になった。

787 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:01:41.06 .net]
引用がなげーよ、カス。

788 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:35:24.74 .net]
西南戦争を調べていると、薩軍の熊本城への拘泥の理由は、おれたちの頭でも何となくは理解できる。
しかしそれを文章化しようと思うと、プロの物書きにはかなわないなあ。

789 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:47:10.25 .net]
【山鹿の戦い】
山鹿口における24日間の攻防
西南の役の主な戦場としては田原坂が有名であるが、その田原坂の戦闘と並行して山鹿でも2月26日から3月21日までの24日間、薩軍・官軍の激しい攻防が繰り広げられていた。
南下してきた官軍が田原坂に次ぐ第二のルートとして山鹿から熊本に抜ける豊前街道(小説では山鹿街道)を選んだことは当然であり、そこで行なわれた戦闘が激しかったことは容易に想像できる。

790 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:53:47.76 .net]
☆ 山鹿
12世紀中頃、山鹿温泉の発見により、温泉町として発展を始める。
中世には菊池氏が地域一帯を支配するが、菊池氏の没落後、めまぐるしく変動する。
江戸時代には参勤交代の道となる「豊前街道」が整備され、熊本藩・人吉藩・薩摩藩がこの道を往来した。
市制施行は昭和29年。「ゴジラ」封切りの年である。
www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1475735115972/simple/161014101100_0.jpg
matinami.o.oo7.jp/kyusyu-okinawa/yamagasitop.JPG

791 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:01:24.46 .net]
☆ 豊前街道
肥後熊本を起点として北上し、植木・山鹿から南関を経て豊前小倉に至る道を熊本では「豊前街道」と呼んでいます。
近世になってこの街道は参勤交代の道として栄え、大名行列の宿場町として土地固有の産業や文化が育ってきました。
昔から湯のまちであった山鹿は宿場町として栄え、重厚な貫禄が町並みに残っています。
https://lh3.googleusercontent.com/-ZY3zwLAcljY/WQ1igSfOD-I/AAAAAAABJcI/QBy7LhqoOTAwjokm0h7AQhMme-dWfiq7gCE0/s1024/IMG_20170506_143543.jpg

792 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:10:09.05 .net]
兵力が分散していた乃木の第14連隊のうちの二個中隊の兵力は、木葉で乃木が戦っていた2月23日午後1時に山鹿に到着した。
率いていたのは第14連隊第1大隊の大隊長津下弘少佐。

793 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:13:36.84 .net]
☆ 出町
熊本市西区出町。熊本城の真北。

794 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:19:07.78 .net]
薩軍は山鹿の第14連隊二個中隊に対応するため、四番大隊から五個小隊(兵力1,000)を、
三番小隊長の野村忍介を臨時の指揮官にして山鹿に進発させた。
道案内は、平川惟一(>>629)の熊本協同隊。
戦場に女を連れ込んだ変態宮崎八郎も同行したようである。



795 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:20:26.08 .net]
「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」
爆笑!!!

796 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:27:49.71 .net]
野村忍介の四番大隊が熊本を出発したのは、23日夜8時。
敗走した乃木が石貫村川床にたどりつこうとしていた頃である(>>778)。

797 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:30:56.16 .net]
23日の夜は豪雨のため植木で一泊した。
24日行軍を再開し、山鹿に到着する。
そのとき津下弘少佐の部隊は、乃木のいる石貫まで退却していた。

798 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:41:41.05 .net]
2月26日の戦闘は、山鹿口の戦いのうちの「第一次鍋田の戦い」と呼ばれる。
すでに南関を占拠した三好重臣の第二旅団が、第14連隊の津下弘少佐に三個中隊と砲兵を与えて、山鹿に進発させた。
結果は薩軍の圧勝。
政府軍の死者41名。薩軍の死者3名。

799 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 13:11:46.28 .net]
鍋田の戦いの解説で、政府軍の指揮官を三浦梧楼少将とするものがやけに目に付く。
三浦梧楼は第三旅団長だろう。まだ九州に到着していないんじゃないの?

800 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 13:44:37.22 .net]
【高瀬の会戦】
両軍主力が初の激突。
高瀬は菊池川西岸の街で菊池川を渡る高瀬大橋があり、南関から南下する政府軍にとって、高瀬経由で熊本へ進むルートは、山鹿経由に比べ起伏が緩やかで物資を運ぶには容易であり、高瀬大橋を確保することは必要不可欠であった。
この地を巡って両軍主力は初めて激突することになる。
高瀬の会戦は、2月25日、26日、27日の三日間にわたって行われた。
西南の役の事実上の天王山である。

801 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 13:57:00.16 .net]
薩軍主力先鋒は熊本北部へ移動を開始。
24日、4番大隊3番小隊長・野村忍助は5個小隊を率いて山鹿制圧に進軍。
6番大隊長・越山休蔵は3個小隊を率いて植木経由で高瀬東の山部田へ進軍して植木への進路を封鎖。
さらに3番大隊7番小隊長・岩切喜次郎は3個小隊を率いて有明海沿いから小天経由で高瀬へ、
佐々友房ら熊本隊3小隊も吉次峠を越え伊倉へ進み高瀬へ進軍した。

802 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:10:18.70 .net]
小説の上では退嬰的な薩軍とは対照的に、高瀬の占拠については熊本隊が積極的だったように書かれている。

803 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:17:48.52 .net]
熊本隊の一番小隊長佐々友房(>>554)が高瀬の対岸の伊倉村に本営を設けたのは、2月24日朝である。
☆ 伊倉村
昭和29年に近隣町村と合併して玉名市となる。

804 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:22:31.67 .net]
☆ 岩切喜次郎
薩軍3番大隊7番小隊長。
25日午後4時、伊倉にいた薩軍・岩切喜次郎隊が高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まる。これが第一次高瀬会戦である。



805 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:26:58.80 .net]
☆ 小天(おあま)
小天温泉は、熊本県玉名市天水町小天に位置する温泉である。
夏目漱石の小説『草枕』の舞台「那古井温泉」のモデルとして知られる。
明治29年から熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師として勤めていた漱石は、
翌年暮れ、当時熊本市街から最も近い温泉であったこの地で正月にかけて数日間保養した。
薩軍岩切喜次郎隊が、小天に進出していた。
https://suumo.jp/front/gazo/bukken/090/N010000/img/193/90478193/90478193_0001.jpg

806 名前:高瀬の会戦 mailto:sage [2019/03/26(火) 16:43:18.04 .net]
【熊本隊】
学校党。藩校時習館出身者。石取りの上士。
明快な反革命党。士農工商の世に戻せという思想。
2月22日、熊本県権令富岡敬明(よしあき)〔>>566〕に池辺吉十郎(>>551)が出した決起宣言書にその思想が濃厚に表れている。

807 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 16:53:21.94 .net]
☆ 高橋長秋
安政5年(1858)生まれ。もと肥後熊本藩士。西南戦争では熊本隊にくわわり政府軍とたたかう。
明治12年同心学舎(現済々黌高)の創立に参加。
その後実業界にはいり、大阪百三十銀行副頭取、肥後銀行頭取などをへて熊本電気を創立した。
昭和4年7月3日死去。72歳。

808 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:15:36.83 .net]
☆ 時習館
熊本藩第8代藩主細川重賢が宝暦5年(1755)に設立した藩校。
続いて宝暦6年(1756) 重賢は藩の医学校再春館も建てた。
両校とも明治3年に廃校になった。
熊本藩士族の文武両道、質実剛健の気風を育てたとされる。幕末期には横井小楠が時習館に学び塾頭も勤めたが、実学党に鞍替えした。
https://kumamoto.tabimook.com/images/tourism_images/651eca1444c75fb447d5dacf65ee6a80.jpeg

809 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:20:06.71 .net]
☆ 同心学舎
佐々友房のところで述べた(>>554)。
現在の熊本県立済々黌高等学校である。
cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/s-zukan/20110813/20110813225220.jpg

810 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:24:31.22 .net]
☆ 第一高等中学校
明治19年に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として創設された。
それ以前は大学予備門と呼ばれた。
明治27年以降、第一高等学校に改称された。
現在の東京大学教養学部の前身である。
https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_567515e181f3e8-thumb-autox808-35535.jpg

811 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:34:22.15 .net]
日本の旧制高校の校風や寮制は、明治19年に第一高等中学校が創設されたとき、
校長の古荘嘉門(ふるしょう かもん)、幹事の高橋長秋(>>807)、舎監の守田愿が、
いずれも熊本時習館の出身だったために、時習館の伝統が強く移植されたことによる。

812 名前:日本@名無史さん [2019/03/26(火) 17:37:28.18 .net]
司馬さんが脱線しているところまで詳述しなくていいんじゃないの?
はやく戦をやれよ。

813 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:08:49.50 .net]
☆ 松崎迪(すすむ) / 高島義恭(よしたか)〔>>635
2月22日の初戦の後、熊本隊から二名の代表者を西郷の元へ挨拶に送った。
松崎迪(すすむ)は副大隊長。高島義恭(よしたか)は軍監である。

814 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:11:24.48 .net]
それがしは、
 西郷吉之助でございまする

  / ̄ ̄ ̄ ̄~\
 <       Y三ヽ
 /\___  / |へミ|
(へ___ ヽ/  ノ〜zノ
/ /|   | <_
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_ノミ)
         ̄



815 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:18:43.47 .net]
             ___
            / ノ '' ⌒\   今夜、敬神党が抜刀して城内に突入します
          / ( ● ) (● )\
        / :::::⌒ 、_ ゝ⌒:::::\    (⌒)
        |       -      |   ノ ~.レ-r┐、
        \            /  ノ__ .| | | |
.     , ⌒ ´ \      ̄  ´ !  〈 ̄  `-Lλ_レレ
    /  __    ヽ       |    ̄`ー‐---‐‐´
.    〃 ,. --ミ    ヽ     i   |/ハ /
   ji/    ̄`     ヽ    |
.   {{      '

816 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:22:00.60 .net]
                /  ̄ ̄ \
               /ノ  ヽ__   \  まぁ、なんとなく予想はついてたお。
             /(―)  (― )   \  敬神党だと勘違いされてたんだお。
             |.  (_人_)   u |
                  \   `⌒ ´     ,/
              /         ヽ
             ./ l   ,/  /   i
             (_)   (__ ノ     l
             /  /   ___ ,ノ
             !、___!、_____つ
              池辺吉十郎

817 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 03:18:48.67 .net]
>>802
薩人のことを書くと意気込んで執筆を始めたものの、西南の役の薩人には西郷を筆頭に魅力的な人物がいない。
新たなヒーローを求めて肥後人について書こうと思ったが、チンポ八郎にはがっかりしてしまう。
そこで目を付けたのが、佐々友房なんだろうな。

818 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 04:16:04.93 .net]
むしろ政府軍の側にヒーローが多い。
歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐(>>563)、
歩兵第14連隊第3大隊大隊長吉松秀枝少佐(>>736)等々。

819 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 12:54:30.65 .net]
>>817
「はじめに」で描かれた桐野利秋は颯爽としていたのにな。
しかし調べていくうちにバカだとわかったので、西南戦争が始まる頃には野村忍介を中心に書こうかという模索の跡が伺える。

820 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 14:51:30.84 .net]
【第一次高瀬会戦】(2/25)
午後4時、小天にいた薩軍・岩切喜次郎隊が(>>805)高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まった。
岩切隊は、迫間の乃木隊を圧倒して展開。熊本隊も伊倉(野部田山)から進んで菊池川を渡り、繁根木の乃木隊を攻めた。
乃木隊は後退したが、長谷川好道中佐の4個中隊が駆けつけて対抗。
増援の出現に熊本隊は迂回してこれを攻めようとしたが、察知され撃退されている。
戦闘は日没となって二時間あまりで終了。薩軍はは熊本隊は寺田山、岩切隊は伊倉へ撤退した。
seinan1877.zouri.jp/takase/takase1.JPG

821 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:00:21.44 .net]
☆ 野部田山
玉名市天水町野部田平
佐々友房の熊本隊は、この日は伊倉村ではなく野部田山まで後退していた。
https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bc-40/obabatorain/folder/1599163/10/65994510/img_0_m?1520717081
薩軍・岩切喜次郎隊のいた小天に近い。

822 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:08:11.26 .net]
☆ 岩切喜次郎
ネットよりも「翔ぶが如く」の方が詳細なので、小説から引用する。
はじめ近衛陸軍少尉であったが、ほどなく警視庁に転籍した。
明治6年の政変で警視庁を辞職し、鹿児島に帰って区長になった。37歳。
岩切四兄弟:喜之進→善次郎→勇之進→吉蔵

823 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:18:36.83 .net]
〈政府軍〉1,200
東京鎮台の歩兵第1連隊第3大隊 中隊長彦坂為一大尉(>>779>>781
木葉で大敗した小倉の歩兵第14連隊の敗残兵
〈肥薩軍〉
岩切隊600
佐々隊300

824 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:25:19.59 .net]
☆ 高瀬大橋
岩切隊が渡った高瀬大橋。画像はもちろん当時の橋ではない。
https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1960/1960080048.jpg



825 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:33:36.61 .net]
☆ 千田の渡し
佐々隊が菊池川の渡河に使った千田の渡し。
画像は昭和41年のものであるから、昭和41年はまだ現役だった。
この手の渡し船は、昭和40年代にはほぼ消滅した。
わたしが戻りたいのは渡し船があった昭和40年代であって、肥溜めのあった昭和40年代ではない。
https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1966/1966090004.jpg

826 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:39:21.24 .net]
敗残の乃木連隊は、迫間と繁根木にいたようだ。
☆ 迫間
玉名市両迫間……高瀬大橋を渡り右にある →岩切隊に撃破される
☆ 繁根木(はねぎ)
玉名市繁根木……高瀬大橋を渡り左にある →佐々隊に撃破される

827 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:50:27.94 .net]
>>823
乃木隊の渡辺中尉との邂逅場面では中隊長彦坂為一大尉しか登場しなかったが。
高瀬の会戦には、直属上官である大隊長長谷川好道中佐も来ているようだな。
☆ 長谷川好道
長州藩の支藩岩国藩の藩士の子。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などで善戦した。
明治37年に陸軍大将、同45年に参謀総長、大正5年に朝鮮総督に就任。
三・一独立運動を武力鎮圧した。
bunka.pref.yamaguchi.lg.jp/ishin/img/item_img/C02400342901J.jpg

828 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:33:18.35 .net]
政府軍は退却戦術をとった。自軍の長所である射撃戦に徹するためである。
☆ 立願寺村 玉名市立願寺
☆ 岩崎原(ばる)玉名市岩崎

829 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:38:03.94 .net]
戦いたけなわの頃、大阪第8連隊の二個中隊400が南関から高瀬に到着した。
葛原山から射撃を始めた。

830 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:42:34.63 .net]
佐々友房隊が八幡山を奪取しようと動いたときに、大阪の歩兵第8連隊に阻止され、肥薩軍は退却した。

831 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:45:15.12 .net]
     ____  
   /      \
  /  ─    ─\ 
/    (●)  (●) \ 敗けてないじゃん、八連隊
|       (__人__)    |  
/     ∩ノ ⊃  /
(  \ / _ノ |  |
.\ “  /__|  |  
  \ /___ /  

832 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 20:11:58.74 .net]
八連隊に敗けるようでは、佐々友房にもヒーローの資質はない。

833 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:37:55.11 .net]
>>827
小説では、翌日の第二次高瀬会戦のところで初めて名前が出てくる。
25日はいまだ南関にいるかのような書き方なんだが。

834 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:49:07.99 .net]
>>833
第二次高瀬会戦は、前日の面子で戦われている。
桐野・篠原や長谷川好道が登場する大会戦は、2月27日の第三次高瀬会戦。



835 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:51:09.26 .net]
25日・26日の戦いは前哨戦。
27日の戦闘が兵数・戦死者数からいって高瀬の会戦と呼ぶにふさわしい本戦。

836 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:57:43.02 .net]
ということで小説の流れとは離れてしまいますが、先に26日の第二次高瀬前哨戦について書きます。
小説の流れは、27日の第三次高瀬会戦の作戦計画について先に書いて、その途中に26日の第二戦を挟むという流れになっています。

837 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:10:47.48 .net]
【第二次高瀬会戦】(2/26)
26日早朝から政府軍の第2旅団は旅団本営を南関から高瀬の北の石貫まで移動し乃木隊を統合した。
さらに薩軍の展開が手薄とみて攻撃を決定し、約1,600の兵で菊池川を渡河する。
薩軍は川部田の越山休蔵隊(>>521>>801の山部田・ここの川部田はともに玉名市にある地名)、
寺田山の佐々友房隊、伊倉の岩切喜次郎隊が迎え撃った。
seinan1877.zouri.jp/takase/takase2.JPG

838 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:14:50.09 .net]
迫間から菊池川を渡った乃木隊約500名は、薩軍・越山休蔵隊へ攻め込んだ。
越山隊は乃木隊のほかに知識中隊(近衛歩兵第1連隊第2大隊第2中隊の知識兼治大尉)の攻撃も受けて防ぎきれず、昼頃には木葉へ敗走する。

839 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:21:01.21 .net]
さらに第2旅団本隊から約1,000の兵が菊池川を渡河する。二手に別れ熊本隊(佐々隊)・岩切隊各隊を攻撃した。
両軍は初め拮抗した戦いを繰り広げたが、越山休蔵隊を駆逐した知識兼治中隊が、熊本隊側面を攻撃しはじめた頃から薩軍は戦線を維持できなくなり、植木・伊倉方面へ撤退した。
本文に書かれている池辺吉十郎の熊本隊主力1,000が吉次越をこえて白木村に達したときの戦況は、以上のようなものである。

840 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:27:05.39 .net]
乃木隊は越山休蔵隊を追撃して木葉を抜け田原坂まで攻めた。 
乃木は田原坂は戦略上重要と考えて、田原坂確保のための増援を第2旅団本営へ要請したが、
司令長官三好重臣少将は撤退命令を発し、乃木隊はやむなく撤退し、他の部隊とさらなる敵の来襲に備えて高瀬の守りを固めた。

841 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:27:53.53 .net]
三好少将は薩軍主力が後方に控える中で、高瀬〜田原坂までの広い地域に兵を分散させるにはまだ体勢不足と判断したものであろう。
しかし、三好少将のこの判断ミスが、田原坂で壮絶な激戦を呼ぶことになり、征討軍に苦戦を強いることになった。

842 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:30:46.19 .net]
        ___
      /      \
   /          \   乃木希典は、やればできる子
  /   ⌒   ⌒   \
  |  /// (__人__) ///  | 
. (⌒)              (⌒)
./ i\            /i ヽ

843 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:33:48.15 .net]
>>841
判断ミスは言い過ぎ。
政府軍が少ない兵力で田原坂を占拠していたら、乃木は翌日戦死していたはず。

844 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:43:36.15 .net]
☆ 白木村
熊本県玉名郡玉東町白木
白木村は田原坂の西、木葉の南に位置する。
https://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/00000000000003226193/003226193-1/003226193-1_im.jpg
池辺吉十郎の熊本隊主力1,000は吉次越をこえたが、政府軍はすでに菊池川以東に進出しており、白木村より西には進軍できなかった。



845 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:54:50.14 .net]
☆ 寺田山
玉名市に寺田という小字はあるが、寺田山は地図に載っていない。
地図をみると小さな丘陵らしきものはある。
画像に写っている山ではない。寺田のバス停の写真を貼りたかっただけだ。
pic4.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/2/0/4/2700000000000085402/0000003137/2700000000000085402_0000003137_8_s.jpg
寺田山は26日の戦闘前は、熊本佐々友房隊が陣地にしていたが、その日の午後には政府軍に奪われた。

846 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:57:46.34 .net]
>>826
佐々友房隊が政府軍と戦った繁根木(はねぎ)の堤防の画像があった。
seinan1877.zouri.jp/takase/takasekawa.JPG

847 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:59:05.41 .net]
おまえは玉名市民でも知らないようなローカルな小字の話をしているのがわかってんのか?

848 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 11:07:35.61 .net]
☆ 児玉強之助(>>521
昨日の岩切喜次郎小隊長に代わって指揮を執る。
郷士隊である独立第二大隊の大隊長。
なお独立第一大隊の大隊長は越山休蔵(>>837)。

849 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 11:20:36.82 .net]
>>847
大字は知っていて当たり前です。
調べる快感があるのは、小字です。

850 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 11:31:00.75 .net]
覚える気持ちがまったくないのは、平成時代に合併してできた市町村です。

851 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:25:23.25 .net]
【第三次高瀬会戦】(2/27)
☆ 南関(>>656
第一旅団(野津鎮雄少将)・第二旅団(三好重臣少将)の本拠がある(>>776)。
朽ちた穂株しかない無愛想な冬田の風景(画像は南関の冬田ではない)
1.bp.blogspot.com/-vOALVNS-Uw0/Tw9m7V9OyKI/AAAAAAAAAyA/jj2SDhORIqM/s1600/P1130009.jpg

852 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:32:10.25 .net]
☆ 小岱山
標高501m。小岱山を西に越えれば宮崎八郎の故郷荒尾。
www.mt-club.net/mtlist/kumamoto/_src/sc20833/top.jpg
api.e-map.ne.jp/jsapi/searchmap.v12/img/43.gif

853 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:38:56.14 .net]
☆ 正勝寺
南関にある真宗寺。
25日夜、野津鎮雄少将と三好重臣少将とが会同して作戦会議を開いた場所。
作戦方針は、高瀬・木葉を抜いて植木を占領すること。
img-cdn.jg.jugem.jp/16a/3266683/20150607_221586.jpg
https://www.jalan.net/jalan/img/1/spot/0011/KL/43367ag2130011575_1.jpg

854 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:43:45.30 .net]
部隊編成は第二旅団を中心に行われた。
司令官:三好重臣少将
第一軍:高瀬→木葉→植木へ進出する主力軍
第二軍:玉名村で右折→川部田→木葉→植木
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e4/Miyoshi_Shigeomi.jpg



855 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:57:03.38 .net]
〈第一軍〉
前駆:乃木希典少佐……第14連隊のうちの4個中隊
中軍:迫田鉄五郎大尉(第3大隊大隊長心得)……東京第一連隊のうちの2個中隊
後軍:大迫大尉・知識兼治大尉……近衛第一連隊のうちの4個中隊

856 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:00:16.78 .net]
近衛第一連隊の名簿からは大迫大尉の名前を見つけ出せなかった。
熊本城籠城軍のなかに同階級の大迫尚敏(なおはる)大尉がいるが、負傷しているので別人(>>565)。

857 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:03:11.47 .net]
〈第二軍〉
指揮官:長谷川好道中佐(>>827
近衛第一連隊の2個中隊
大阪第八連隊の2個中隊

858 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:08:37.42 .net]
〈山鹿方面守備隊〉
第14連隊の津下弘少佐は、2月26日に「第一次鍋田の戦い」で薩軍の野村忍介隊(5個小隊)に敗れている(>>794>>798)。

859 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:11:40.10 .net]
乃木希典の第一軍前駆は、石貫で宿営していた。
2月26日午前4時に高瀬に進出し、第二次高瀬会戦を起きる(>>837)。

860 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 14:01:41.01 .net]
>>827
長谷川好道中佐は、南関にいたはずだ。
第一連隊第三大隊は、彦坂為一大尉が率いていた。

861 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 14:11:35.68 .net]
>>789
「山鹿の戦い」を高瀬の会戦より前に、しかも独立した戦闘と受け取られるような書き方をしたのは失敗だったな。
高瀬の会戦の一環として生起した戦いだからな。

862 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 14:14:20.65 .net]
初読のとき電車で地図なしで読んでいたから、山鹿と高瀬はものすごく離れた場所にあると勘違いしていた。
司馬さんの書き方だと、双方の戦いは無関係に起きたような誤解を与えるね。

863 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:24:22.49 .net]
先に薩軍の勝利をまとめて描いて、後で薩軍の敗北をまとめて描いたんだよ。
勝利の相手はいずれも乃木の第14連隊。
高瀬の第三戦の大敗北の相手は、近衛第1連隊が核になった政府軍の大軍だった。

864 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:32:26.91 .net]
【三面合撃】
26日夕刻、薩軍幹部が率いる3部隊が熊本を進発した。
中央隊篠原国幹、右翼隊桐野利秋、左翼隊村田新八の率いる選りすぐった精鋭総勢2,800。
3隊長は高瀬の政府軍を三面から攻撃することを打ち合わせ、桐野隊は山鹿経由で高瀬北側より攻め、篠原が植木経由で高瀬の西から、吉次峠から伊倉へ抜ける村田隊は高瀬の南より攻める手はずであった。
高瀬の第2旅団は南関から後続の部隊も到着し、近衛第1連隊や大阪第8連隊を中核として総勢約4,000。
船島(高瀬の北)に旅団本営を進め、薩軍の攻撃に備えていた。
seinan1877.zouri.jp/takase/takase3.JPG



865 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:38:38.50 .net]
☆ 大窪
26日午後6時に熊本城下の出町を出発した薩軍3隊は、一時間後の大窪村で大休止した。
上記の作戦は、そこで立てられたものである。
現在は熊本市北区大窪。
https://www.daikyo-anabuki.co.jp/image/o/buy/photo/OAE13197.jpg

866 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:45:02.07 .net]
【山縣有朋】
☆ スナイドル銃
イギリスのエンフィールド造兵廠(RSAF)が、前装式ライフル銃であるエンフィールド銃を改造した後装式小銃である。
日本では蘭語読みで「スナイドル」と呼ばれるが、英語読みでは「スナイダー」で、これは機関部を考案したジェイコブ・スナイダー (Jacob Snider) の名に由来する。
日本陸軍が草創期から三十年式歩兵銃を制式とするまで使用し続けた小銃としても有名である。
img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170210_970252.jpg
img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170209_969998.jpg

867 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:49:41.21 .net]
☆ ミニエー銃
薩軍が主として用いた銃。
雷管式の前装式ライフル銃である。1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。
従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。
スナイドル銃と比較すると15年ほど昔の銃と思えばよい。
https://pbs.twimg.com/media/DlhkzRaUYAAqL8e.jpg

868 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:54:40.38 .net]
☆ 鳥尾小弥太中将
西南戦争では大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。
yugetuan.net/wp-content/uploads/2016/12/20140316_643017-192x300.png

869 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:02:10.53 .net]
明治10年における日本陸軍の常備兵力……32,000。
そこで士族を徴募して巡査にし、彼らを戦場へ送り込んだ。
その結果、西南戦争を通じての政府軍の総動員数……51,800。
ちなみに西南戦争を通じて政府軍が消費した小銃弾総数……34,893,500発。

870 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:08:59.65 .net]
〔西南戦争の参軍〕
陸軍卿 山縣有朋
https://pds.exblog.jp/pds/1/201303/16/92/a0287992_1615695.jpg
海軍大輔 川村純義
https://pds.exblog.jp/pds/1/201509/06/92/a0287992_1035477.jpg
ちなみに明治10年当時の海軍の戦力は、
軍艦11隻、運送船14隻、士卒2,200。

871 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:13:24.79 .net]
山縣が陸軍の総指揮をするために博多に上陸したのは、2月25日である。
同日、三浦梧楼少将率いる第三旅団も博多に上陸している。
upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/Goro_Miura.JPG

872 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:20:26.09 .net]
☆ 旅団
師団と連隊の中間にある部隊の単位。旧日本陸軍では、二個あるいは四個の連隊で組織され、歩兵旅団、騎兵旅団、野砲兵旅団、重砲兵旅団などがあった。
戦術単位としては最大の部隊。
西南戦争の時期に作られた新語であるが、所定の地域に駐屯していれば「鎮台」、それが移動中であれば「旅団」という感覚で、厳密に兵数が決まっていたわけではない。

873 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 13:13:35.72 .net]
【2月27日】
☆ 近衛師団
明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。
そのため明治4年、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。
この御親兵は、明治5年に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城の守護」という任務が課せられた。
https://pbs.twimg.com/media/CSA4rPVUwAEuqnn.jpg

874 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 13:32:11.71 .net]
>>722
三好重臣は、玉名村から偵察隊を出して、木葉山に登らせた(>>722)。
国見山、金毘羅山(>>733)、木葉山の位置関係。上が北です。
         ▲
 ▲     金比羅山   味取
国見山            五両

 ▲
木葉山  境木  田原坂   

 木葉            植木



875 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:10:16.41 .net]
三好重臣少将は、菊池川に架かる高瀬大橋を破壊し、堤防に沿って、
東京第一連隊の二個中隊
大阪第八連隊の一個中隊
小倉第14連隊の一部
近衛第一連隊の四個中隊を配置した(>>855)。

876 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:17:16.72 .net]
☆ 向津留(むこうづる)
熊本県玉名市向津留
高瀬と向き合うようにして菊池川の東岸にある村。
篠原国幹隊の先鋒加世田弥八郎小隊がもっとも早く菊池川畔に到着した。
https://www.ekimae-r-e.co.jp/imgs/normal/55450188/.jpg
https://www.ekimae-r-e.co.jp/imgs/normal/55450186/.jpg






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