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司馬遼太郎 Part13



1 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/17(土) 17:27:04.65 .net]
司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。
現在「翔ぶが如く」が進行中です。

前スレ
司馬遼太郎 Part12
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516287702/

101 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/22(木) 00:11:41.79 .net]
▽文久2年
西郷は大久保に手紙を書いて、長州系の浪士と付き合いのある中村半次郎(桐野)に長州の動向を探索させようと言っている。
文久2年当時、西郷は徳之島さらに沖永良部島への遠島処分を受けていたはずだが、司馬さんは、西郷が遠島中も中央の動静に気を配り、様々な差配をしていたことにしたいようである。実際には、何もできないと思うが、ご苦労なことである。
なお、西郷が遠島を解かれ鹿児島に帰ったのは、元治元年(1864年)2月28日である。

102 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/22(木) 00:15:47.03 .net]
時系列で書かれた小説やドラマであれば、遠島中の西郷を中央政治の動向にからませるのは理解できなくはない。
遠島中の西郷だけを描いても、読者・視聴者には退屈であろうからな。
しかし、司馬さんのように時間・空間を自由に選んで書くスタイルで、西郷を中央政治にからませる必要はないと思う。

103 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 17:50:43.94 .net]
▽西郷の桐野観
西郷が征韓軍の大将に桐野を推していたのは、桐野へのお世辞のような気がする。
篠原国幹が近衛兵の統括者であったのに対して、桐野は陸軍裁判所の長官という閑職にあった。
桐野自身は篠原に嫉妬してはいなかっただろうが、この点について西郷は桐野に気を遣っていたと思う。

104 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 17:55:52.81 .net]
西郷は遣韓大使として韓都で死ぬつもりであった。
現実に征韓をすれば日本がまずいことになるという認識では、反征韓派と同じであったかもしれない。
しかし、特権を奪われた士族の不満という国内問題について、これを鎮静化するのも日本政府の重要課題であった。
その不平士族が征韓派であった。「噴火山上で昼寝をしているようなものだ」という西郷の苦悩は、この間の機微を物がったっている。

105 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 17:58:52.21 .net]
西郷は桐野ひとりに対して、征韓論が敗れれば一緒に郷里に帰ろうと言ったという。
東京は篠原冬一郎に任せておけばよいとも。
征韓論の巨頭であった桐野を郷里へ連れ帰ることで、征韓論を鎮静化させようとしていたとさえいえるのではないか。

106 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 18:04:57.02 .net]
出世欲や野心の強い人物の考えていたことは、後世の我々に理解しやすい。
思考が直線的なのだ。おそらく現実社会でそういう人物に接してみると、嫌な奴に違いない。
西郷はどちらかというと普通の人物だ。普通の人物だからこそ、逆方向からの二つの圧力の板ばさみになったときは悩む。
後世は悩みの断片を拾い集めて、先人の考えたことを再構成しなくてはならないから、普通の人物の考えたことは理解しにくくなる。

107 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 18:05:54.05 .net]
まあな。悩みは人間の内部にあるもので、文章や言葉にして表に出すときは、悩みの部分は伏せられるからな。

108 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 18:13:04.29 .net]
西郷が桐野を高く評価していたというのも、実は表に出た部分。
心の中では、桐野への評価はそれほどでもなかったかもしれない。
とくに熊本鎮台長官から陸軍裁判所長官への左遷は重要。
秀吉の征韓軍の二人の大将は、ともに肥後の大名だった。後方の補給基地は、肥前の名護屋であった。
桐野を熊本に置いておくのはまずいと考えたのは、誰なんだろうな。

109 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 18:18:23.46 .net]
▽藤田東湖
世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其長所を取り之を小職に用ひ、其材藝を壺さしむる也。小人程才藝有りて用便なれば、用ひざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ重職を授くれば、必ず邦家を覆すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ。



110 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 20:31:12.19 .net]
▽面晤
面会すること。会って話すこと。面談。
「晤」には、互いに向かいあう、面と向かって話しあう、悟る、ぴんと思い当たる、等の意味がある。

111 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 20:37:01.55 .net]
桐野と西郷の思想の共通点は、次の西郷の言葉に代表される。
「正道を踏み、国を以って斃るるの精神無くば、外国交際は全かるべからず。たとひ国をもって斃るるとも、正道を践み、義を尽すは政府の本務也。政府の本務を堕しなば、商法支配所と申すものにて、さらに政府にはあらざる也」

112 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 20:41:38.10 .net]
▽服膺
心にとどめて忘れないこと。
「膺」は胸。「服」には、身につける、帯びる、の意味があり、「服膺」で胸(心)にとどめるの意味になる。

113 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 20:50:17.29 .net]
▽仮題「征韓論の顛末」
「桐陰仙譚」のこと。
明治7年の台湾出兵ののち、石川県士族石川九郎・中村俊次郎が桐野を訪ね、明治六年政変および台湾出兵の内情について質問したときの応答「桐陰仙譚」が、新聞『日本』及び『西南記伝』上巻に残っている。
日本の当時の政情の説明においてすら事実誤認が多く、各国の情勢判断もひどく粗大で、桐野はとうてい一国の運命を委ねることのできる男ではなかった。

114 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 20:52:07.03 .net]
倒幕維新の達成には、桐野のような男の力も必要であったが、新政権を成立させるためには、桐野は無益なばかりか有害ですらあった。

115 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 20:56:26.40 .net]
新政府の要人を手形の記載事項の分類にたとえると、
必要的記載事項……大久保利通
有益的記載事項……木戸孝允
無益的記載事項……西郷隆盛
有害的記載事項……桐野利秋

116 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:02:29.58 .net]
桐野はチャンバラ活劇の人であって、政論の人じゃないからな。
戊辰戦争で死んでいれば、土方歳三クラスのヒーローになれたかもしれないのに、10年長生きしたばっかりに嫌われ者になった。

117 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:08:35.37 .net]
バカは思いっきりバカじゃないと人気者になれない。
中途半端なバカは嫌われる。バカに陸軍少将という高い身分が加わると、なおさら。

118 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:21:44.53 .net]
>>117
おまい、半次郎に芋を盗まれたからって、それは言い過ぎ。

119 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:30:48.48 .net]
実像とはほど遠い誤ったイメージを持たれた敗者は多い。桐野利秋などは、その典型だろう。
今日に至るまで、桐野が誤解されている第一の原因は、「人斬り半次郎」という異名を世間から賜ったことにほかならない。これにより、志士や軍人というよりも殺し屋という印象が強くなり、さらに出自が低く、さして学問も修めていなかったことから、野蛮な男と目された。
その極め付きとして、「西郷隆盛を西南戦争に駆り立て、死に追い込んだ男」という評価が定着したわけである。



120 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:34:08.41 .net]
▼同時代人による桐野評
◇高島鞆之助〔>>71
「竹を割ったような正直で剥き出しな性質」「男らしく潔白で豪放」「さっぱりした快濶な男」
◇佐土原藩の富田通信(みちのぶ)
「功に奢らず謙遜なる人」「至って勇猛にして敵ならば鬼を挫く勢いでありながら、また至って愛情深き人」

121 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:36:10.01 .net]
◇肝付兼行
「実に磊落な淡泊な性質の人で、何人に対しても障壁を設けることをしなかった。上下貴賤の差別なしに誰が来ても同じ部屋に通し、遠慮なしに話をするのが常だった」
◇西郷隆盛
「彼をして学問の造詣あらしめば、到底吾々の及ぶ所にあらず」

122 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:43:13.63 .net]
>>116
土方歳三がヒーローになったのは、司馬の『燃えよ剣』からだよ。
それ以前の映画、あるいは、それ以後もだが、ヒーローは近藤勇で、土方は冷血漢の扱いだった。
近藤をヒーローにするために、新撰組の都合の悪いところは、すべて土方が裏でこそこそやっていたことにされていた。

123 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:53:13.16 .net]
西郷の無瑕性を強調するために、桐野は土方歳三と同じように、泥をかぶっているわけだな。

124 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:54:39.46 .net]
無瑕性という言葉を見ると、刑訴の違法収集証拠排除法則を思い出すな。

125 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 21:55:09.81 .net]
法学ネタ うざい 巣に戻れ

126 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:06:23.27 .net]
征韓論争も西南の役も、「西欧近代国家を見てしまった新帰朝組と、それを見たことのないドメスティックな人々の争い」の一行で片付くんだけどな。こんな長い小説を書かなくても。

127 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:12:53.10 .net]
★別府晋介

▽陸軍少佐
part11〔655-657〕に書いた。この小説は登場人物が多数なため、一度登場しても、次に出てくるまで長いお休みがある。
重複は避けたいが、ポイントだけは、再登場のたびに記しておく。
弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で別府十郎の第二子として生まれる。母方の従兄の桐野利秋とは実の兄弟以上に仲が良かった。

128 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:15:56.93 .net]
明治2年、鹿児島常備隊がつくられたとき、大隊の小隊長となった。明治4年、西郷隆盛が廃藩置県に備えて兵を率いて上京したとき、小隊を率いて従い、御親兵に編入され、次いで近衛陸軍大尉に任ぜられた。
明治5年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村長兵衛・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、韓服を着て韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。
※晋介は左。右は桐野。
https://kagoshimayokamon.com/wp-content/uploads/2017/01/ghfdjj-e1485531500815.jpg

129 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:18:47.92 .net]
※『田原坂』では石橋正次。
https://stat.ameba.jp/user_images/20150130/00/mikadukitousagi/e7/07/j/t02200293_0768102413203173523.jpg



130 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:37:30.88 .net]
晋介は天性無欲なうえに平等思想をもち、たとえば部下に対し、俸給さえ平等にした。かれは部下の士官や下士官の俸給を自分の俸給とコミにして平等に分配するのである。

131 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:41:14.17 .net]
晋介は西南戦争のときに官軍が民家を銃撃するのをみて、
「これが官である。虐政を事としている。われらは国家のために百政を改革して人民を水火のなかより救うがために戦うのだ」
と、自分の部下に演説した。

132 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:44:52.70 .net]
西郷党の性格は、外部からの印象としては、「かれらは封建制を復活しようとしている」というものであった。
しかし西郷の思想のなかには本質の部分に民権思想が濃厚であり、単なる不平家にすぎない者の多かったのちの自由民権運動者よりも確かなものがあった。

133 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:49:41.35 .net]
▽大塩平八郎
寛政5年(1793年)- 天保8年(1837年)。江戸時代後期の儒学者。
大塩家は代々、大坂東町奉行組与力であり、平八郎は初代の大塩六兵衛成一から数えて8代目にあたる。大坂天満の生まれ。
学問は陽明学をほぼ独学で学び、知行合一、致良知、万物一体の仁を信じて隠居後は学業に専念し、与力在任時に自宅に開いていた私塾・洗心洞で子弟を指導した。

134 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:51:42.04 .net]
天保の大飢饉は、全国的には天保4年(1833年)秋から同5年夏にかけてと天保7年(1836年)秋から同8年夏にかけてが特にひどかった。
蜂起の前年の天保7年(1836年)秋、米価高などの影響で同年8月に甲斐国で発生した「天保騒動(郡内騒動)」、三河国挙母藩の「加茂一揆」などの大騒動が各地で発生し、奥羽地方で10万人の死者が出る中、大塩は9月にはすでに、飢饉に伴って生じるであろう打ちこわしの鎮圧のためと称して、与力同心の門人に砲術を中心とする軍事訓練を開始していた。

135 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:52:48.12 .net]
跡部良弼に対する献策が却下された後、天保8年(1837年)2月に入って、蔵書を処分するなどして私財をなげうった救済活動を行うが、もはや武装蜂起によって奉行らを討ち、豪商を焼き討ちして灸をすえる以外に根本的解決は望めないと考えた。
天保8年2月19日(1837年)に大塩は門人、民衆と共に蜂起する(大塩平八郎の乱)。しかし、同心の門人数人の密告によって事前に大坂町奉行所の知るところとなったこともあって、蜂起当日に鎮圧された。
r-ijin.com/wp-content/uploads/2016/09/oosio.jpg

136 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 22:55:06.34 .net]
大塩平八郎は、西郷隆盛が尊敬する人物として、その名が挙がっている。
大塩のように自らを犠牲にして人民の側に立った人物は、明治・大正の民権家や社会主義者にもいない。

137 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 23:15:32.39 .net]
★竹橋兵営

▽近衛兵司令部
明治6年当時は近衛歩兵連隊であり、近衛師団と改称されたのは明治24年である。なお、明治24年には鎮台も師団と改称されている。
地下鉄「九段下駅」「竹橋駅」から徒歩10分、北の丸公園内にある東京国立近代美術館工芸館は、もともと近衛師団の司令部庁舎として使われていた建物である。
ただし完成したのは、明治43年(1910)。関東大震災や第二次大戦をくぐりぬけ、ほぼ完全な姿をとどめている。
blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/5d/c88adf972c42e40735b1ecf39e3902c8.jpg

138 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 23:22:12.00 .net]
明治11年当時の近衛司令部の写真があった。
https://jaa2100.org/up/entry/m11_thumb.jpg
しかし明治7年当時の錦絵の建物とは違う。
別府晋介が歩いた司令部は、この錦絵の方かもしれない。
https://jaa2100.org/up/entry/img_56767eae3e3329_thumb.jpg

139 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 23:43:22.50 .net]
大坂の陣の大坂方の牢人には親近感が持てるのだが、同じく敗軍の将で非業の最期を遂げた西南の役の桐野や別府には親しみが湧かないんだわな。
理由の一つは、後者は時代が近すぎてリアルな人間として立ち現れるからだと思う。真田や後藤は大昔の人なので浪漫をたっぷり注入できるのに対して、写真まで残っている明治の人には浪漫注入量が制限されてくる。



140 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 23:51:05.45 .net]
もうひとつの理由は、大坂の陣の牢人は幼児期に知った。筆者は立川文庫の時代の人間ではないが、筆者が幼少期に読んだ漫画や小説の作者が子供の頃に立川文庫の愛読者たちであった(司馬遼太郎もそのうちのひとり)。
幼少期に知ったヒーローには、幼馴染に再会するようななつかしさがあって、大人になっても応援したくなる気持ちに変化はない。
これに対して、桐野や別府の名は20歳前後に『翔ぶが如く』を読んで知った。大人になって短い間知人であった人々と違いがないんだわ。生きていようが死んでいようが、別にどっちでもいい。

141 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 23:53:13.52 .net]
>>139
>写真まで残っている明治の人には浪漫注入量が制限されてくる。

同感。写真を見なければ、桐野や別府を好きになっていたかもしれない。
この二人、人相が悪い。

142 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/23(金) 23:57:02.96 .net]
>>140
幼馴染はくだらない大人になっていることもあるが、幼少期に知ったヒーローは、いつでもヒーローだもんな。

143 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:21:02.80 .net]
>>139
征韓論争の参議たちは、高校日本史で散々覚えさせられた馴染みのある名前というのもあるな。
彼らが一挙に退場して、薩軍のなじみのない将校たちの名前が大量に出てくると、各将校の個性の差別化ができなくて、つまらなくなってくるというのもある。

144 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:27:58.33 .net]
>>86
追及じゃなくて追求な。

145 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:41:38.72 .net]
▽三南地方
朝鮮の南部地域である慶尚道・全羅道・忠清道の三道のことを指した言葉である。 古くから朝鮮半島を代表する穀倉地帯として知られている。別府晋介は明治5年、北村長兵衛中佐とともに、朝鮮の実情を主として三南地方を中心に実地調査した。
imagec.navi.com/images/templates/SEOUL/5023397/92e314320adf829c_S.jpg

146 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:44:54.75 .net]
▽文治主義
李朝国家の政治システムは、中国歴代の制度に由来するもので、頂点に絶対権力者としての王をいただき、その下に文官・武官の両官僚群が合議で政務をとり行う高麗朝の儒教的な官僚体制を踏襲したものだった。ただ、文治主義と中央集権制が極度に徹底されていた点に大きな特徴があった。
官僚には文官(文班)と武官(武班)があり、合わせて両班(ヤンバン)と呼ばれた。しかし李朝は極端な文治主義をとっており、武官は文官に対してはるかに劣位な状態におかれていた。全軍の指揮権を司る責任機関の長にも、地域方面軍の指揮将官たちにも高級文官が就任し、その他の高位の武官職もことごとく高級文官によって兼任されていた。

147 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:47:01.10 .net]
李朝国家では軍事を司る要職のほとんどが文官によって占められており、武官には事実上政府要人への道が閉ざされていた。そして儒教的な文治主義の立場から、外国との間に生じる諸問題の解決は、可能な限り政治的な外交によって処理することがよしとされ、国土の防衛は宗主国である中国に頼る方向で考える傾向を強めた。
そのため、軍人の間の不満は慢性化していたが、軍事クーデターに対しては徹底した予防措置がとられた。わずかでも不穏な動きがあれば、そのたびに軍人を弾圧し、未然の鎮圧が周到に行われた。

148 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:48:14.93 .net]
こうした極端な文官独裁の文治主義政治によって軍事が軽視され続けた結果、無残なばかりの軍部弱体化を招来させてしまったのである。
兵役は常民階級に課せられていたが、賄賂による兵役のがれが広がり、また兵農分離がうまく進行しなかった。しかも財政難のために志願兵を集めることもままならず、兵員確保にこと欠く状態が長らく続き、兵力は急速に下降線をたどっていった。
そして19世紀に入った頃には、もはや外国の脅威に対して有効な抵抗をする力をまるでもたず、宗主国の中国に頼るしかない国家となっていたのである。

149 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:52:49.46 .net]
Part11〔657〕に書いたように、晋介は帰朝の後、桐野利秋邸を訪れるや、門外より「鶏林八道を蹂躙するは、我二三箇中隊にして足れり」と叫んだと云われる。この後、少佐に昇進した。
先に『翔ぶが如く』では、桐野の言葉のように書かれていたが、実は別府晋介の言葉であった。このことも、以前どこかで述べた。



150 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:58:08.73 .net]
★湯島切通坂

▽幸吉
桐野の邸が湯島切通坂にある旧榊原家であることは、既述した〔>>95〕。
幸吉は桐野の下僕で、薩摩国吉野村の百姓の次男坊である。
幸吉は西南戦争で桐野と死を倶にする。

151 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 00:59:06.79 .net]
▽清吉
桐野の居間にいた桐野の下僕。京都生まれ。

152 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 01:08:52.47 .net]
「俺も帰りもす」
晋介がいうと、桐野は軽く、しかも無言でうなずいた。かれらはこれだけでその運命を決めた。
自己の生死に関するような重大な運命の決定はごく軽い調子で決めるのが、薩摩人の伝統的なダンディズムというものであった。
「晋介どん、黙々力を蓄えて天の時を待つ。こいしかなかど。天の時が来ねば俺は百姓で朽ちる」

153 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 01:13:11.52 .net]
親に食わせてもらっている学生なら、この薩摩人のダンディズムをかっこいいと思うかもしれないな。
妻子を養っている大人なら、何の共感ももてないだろう。
「かっこつけんな、阿呆」になると思うね。

154 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 14:52:50.46 .net]
桐野は第二維新を10年後にやる、というか世間が第二維新を渇望し西郷に期待を寄せると言っている。

155 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:06:31.29 .net]
★おきよ

▽清子
奥並継は実在の人物だから、その妻清子も実在したと思うが、調べてみると奥の妻の名は千賀子である。
創作でもかまわないと思うのだが、他人の妻を元愛人と書くからには、相当な根拠はあるのではなかろうか。
それ以上のことは、調べてみたが分からなかった。

156 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:08:52.68 .net]
伊藤痴遊の文章に「妾の居付かぬ桐野利秋」がある。ここでの桐野の妾は、お秋になっている。

157 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:09:45.93 .net]
半次郎が桐野利秋になり、身分も陸軍少将となって、湯島にあった旗本の家を買い取って住んでいたが、来客が非常に多いため、妾を抱えて酒食の世話をさせていた。
ところが、この妾が長く居付かない。早いので一晩、三晩はもっても四晩とはもたないと云う。あるとき、お秋と云う妾が来たが、このお秋だけは逃げ出すことなく、桐野と仲むつまじく暮らしている。

158 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:11:13.00 .net]
桐野が戦死した後、お秋が桐野の秘密を語ったので、妾が長居しなかった理由が明らかになった。
文久から慶応にかけての京阪時代に桐野は数え切れないくらいの人殺しをやった。そして、桐野が殺した男たちが毎夜、桐野の枕元に座っており、それに桐野がうなされるのを見て、妾たちが震え上がって出て行くのだ。
ただ、このお秋だけは気性の勝った女性だったらしく、出て行くことはしなかった。

159 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:17:52.62 .net]
▽奥並継〈なみつぐ〉
文政7年(1824年) - 明治27年(1894年)
明治維新のとき44歳であるが、司馬さんは書生としている。ずいぶん老けた書生ですことw
豊前国宇佐村(現大分県宇佐市)の藤波氏に生まれ、宇佐神宮詞官漆島姓の奥氏の養嗣子なる。
文久3年(1863年)、飄然して京都に出遊して憂国の志士と交わり、国事疾走の生活が始まる。ちょうど三条実美卿らの七卿落ちとなり、勤王攘夷党の蹉跌をみるや憤慨し、直ちに宇佐に帰り、豊前国・豊後国の志士らと語らい勤王倒幕の先鞭をつけんとしてならず、弟・時枝重明と共に日田の獄舎に投じられ、3年を経て即位の大赦により出獄した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/thumb/9/9a/Oku_namitugu.JPG/1200px-Oku_namitugu.JPG



160 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:23:05.67 .net]
明治3年、神祇少史に任られ、神祇権大史に遷り、陸軍省(佐賀の乱、台湾出兵に従軍)、東京府、開拓使官吏(屯田兵の長として西南戦争に参加、開拓使廃止まで開拓事業推進に従事)、大蔵省(開拓会計残務整理委員)、修史局四等編修官(北海道史及びアイヌ研究の著書をまとめる)を歴任し、正七位に叙せられ、明治19年に官吏を勇退する。
この奥並継が桐野が払い下げた清子を妻としたと司馬さんは述べられる。奥並継の年齢からすると、ウソくさい話である。
また、奥の妻が千賀子であることは〔>>155〕で述べた。

161 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:24:40.85 .net]
司馬さんは、「おきよ」あるいは「おちよ」と書いているよ。
「おちよ」だったら千賀子と音が似ている。

162 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:35:54.83 .net]
末弘厳太郎の妹・松枝が小学1年の頃に、奥清子という美しいお婆さんを見たと司馬さんは書かれているが、これもあやしい。
奥並継と千賀子の長女は、大審院判事・末弘厳石に嫁ぎ、法学者・末弘厳太郎と那賀(池田克夫人)の母となる。
つまり、末弘厳太郎の妹は、松枝ではなく那賀である。厳太郎と那賀にとって千賀子(清子)は母方の祖母である。

163 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:41:56.21 .net]
▽末弘厳太郎〈いずたろう〉
明治21年 - 昭和26年:東京大学名誉教授。正三位勲一等瑞宝章。研究対象は、民法、労働法、法社会学。
末弘は、ドイツ民法学全盛の時代の日本の民法学説を概念法学であるとして徹底的に批判し、民法学の転回をもたらした革命児である。
しかし、司馬遼太郎の文章によると、桐野利秋に弄ばれ奥並継に払い下げられた妾の孫ということになる。
https://pbs.twimg.com/profile_images/344513261574283296/6d24795b5be3122aa0e4f2d96e7d6e62_400x400.jpeg

164 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:46:07.03 .net]
なお、末弘厳太郎の妻・冬子は、菊池大麓の三女で、鳩山秀夫(鳩山一郎の弟、我妻栄の恩師)の妻・千代子の姉である。

165 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:47:29.89 .net]
話をややこしくして申し訳ないがが、鳩山秀夫の妻が「おちよ」なんだな〔>>161〕。

166 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:48:25.29 .net]
偶然です(#゚Д゚)ドルァ!!

167 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 15:58:28.11 .net]
何の関係もありませんが、鰐淵晴子。
https://lastfm-img2.akamaized.net/i/u/300x300/6628ce823a1d492fb03a13b565dbdac1.png
https://blog-imgs-102.fc2.com/n/a/g/nagaokatsukurukai/C4YGZrVUMAEbMgk.jpg
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0e/0b/d16159bc1c323d5523b73185aa1592d5.jpg

168 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 16:11:59.89 .net]
▽野分〈のわき〉
台風の古称。二百十日の頃、野の草を吹き分ける強い風。 秋から初冬にかけて吹き荒ぶ台風。秋の季語。
「二百十日」も「野分」も、夏目漱石の小説の題名になっている。

169 名前:翔ぶが如く mailto:sage [2018/03/24(土) 17:17:08.05 .net]
第19章 退去

〔五〕篠原国幹
――桐野はあれで人心を得ている。
と、かつて西郷は弟の従道にそういったが、しかし陸軍部内で人心を得ているという点では桐野以上の存在がいた。
陸軍少将篠原国幹である。
桐野と篠原とは、ひょっとすると比較しがたいかもしれないが、表面的にはいかにも対照的であった。
篠原国幹は藩校造士館でぬきんでた秀才であった。さらに、桐野が郷士身分の出身であるのにひきかえ、篠原は父が記録奉行をつとめたほどの門地の出身であることである。挙措、品がよく、かれが座敷にすわれば一座が自然にしずまるといわれた。



170 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 17:24:31.63 .net]
▽篠原国幹
前スレ〔363-364〕で述べた。天保7年(1837年)- 明治10年。
少年時代に藩校・造士館に入って和漢学を修め、ついで藩校の句読師となり、長じてからも和漢の典籍を読むことを好んだ。
剣術ははじめ薬丸兼義に薬丸自顕流を、次いで和田源太兵衛に常陸流を学ぶ。江戸に出て練兵館で神道無念流を学んだ。また馬術・鎗術・弓術も極め、文武両道を兼ねていた。

171 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 17:27:11.25 .net]
※顔の印象が一定していない篠原国幹
img.umscd.jp/bkm/img/3156.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/86/Kunimoto_Shinohara.jpg/200px-Kunimoto_Shinohara.jpg
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/51/d9/a55d7f13a4361a771f457fa5399cfc7f.jpg

172 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 17:34:33.03 .net]
          || ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
          ||  天皇陛下      ∧_∧  みんなで一緒に読んで。
          ||          \ (゚Д゚,,)
          ||________⊂⊂ |
  ∧ ∧    ∧ ∧    ∧ ∧    | ̄ ̄ ̄ ̄|
  (  ∧ ∧ (   ∧ ∧ (  ∧ ∧ |      |
〜(_(  ∧ ∧ __(  ∧ ∧__(   ∧ ∧ ̄ ̄ ̄
  〜(_(  ∧ ∧_(  ∧ ∧_(   ∧ ∧  は〜い、先生。「天皇かいか」
    〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)〜(_(   ,,)
      〜(___ノ  〜(___ノ   〜(___ノ

173 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 17:38:11.21 .net]
      人
     (__)
    (__)  
    (`・ω・´)   ∬  階も陛も草書にすれば似たようなものではないか
   .ノ^ y ´~ フ━● 
   ヽ,,ノ==l ̄     
    /  l |     
"""~""""""~"""~"""~"

174 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 17:46:39.34 .net]
▽造士館
薩摩藩第八代藩主・島津重豪は安永2年(1773年)、鹿児島城二ノ丸御門前に約3,400坪の敷地を確保し、儒教の聖堂である「宣成殿」、講堂・学寮・文庫などを建設した。これが「造士館」の始まりである。
初代館長には重豪気に入りの学者であった山本正誼が任命された。モデルになったのは江戸幕府の湯島聖堂(昌平坂学問所)である。隣接する4,139坪の敷地には弓道場・剣道や柔術などの道場が設けられ、こちらは初め「稽古所」、翌年「演武館」と命名された。
※旧制第七高等学校造士館
www.korezo.jp/cms/wp-content/uploads/2014/05/72PP-0017-72.jpg

175 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 17:59:15.32 .net]
▽黒門口の戦い
慶応4年(1868年)5月15日、篠原国幹は上野の彰義隊との戦いでは黒門口を担当した。西郷隆盛は撤退命令を下したが、これを全く聞かずに攻め陥とし武勇を轟かせた。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/8d/UenoSenso.jpg/1200px-UenoSenso.jpg

176 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 18:03:17.36 .net]
篠原は極端に無口で、征韓論についてもどのような考えを持っているのか、誰も知らなかった。
桐野が篠原に質すと、反対はしなかった。
しかし篠原自ら征韓論をぶつことがなかったため、大久保利通でさえ篠原は反征韓派だと思っていた。

177 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 18:03:46.99 .net]
篠原は37歳。桐野より2歳上。

178 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 19:28:06.44 .net]
▽種田政明
天保8年(1837年)- 明治9年。Part11〔423-424〕で述べた。「ダンナワイケナイ ワタシハテキズ」の人。
明治6年11月、陸軍少将となった。東京鎮台司令長官を経て、明治9年9月、熊本鎮台司令長官に就任した。
陸軍薩摩閥の中では大将の西郷隆盛に次ぎ、同じく少将の桐野利秋、篠原国幹と並ぶ人物であった。桐野等と異なり官僚としての力量もあり、明治六年政変で西郷等が下野した後は必然的に陸軍薩摩閥を束ねる地位にあった。

179 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 19:29:44.41 .net]
反征韓派の種田政明は、「桐野など、むしろ去ったほうがよい。篠原さえいれば兵隊は鎮静する」と楽観していた。



180 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 19:42:57.39 .net]
▽飮馬麹]果何日  馬を 麹]に飮(みづかふ)は 果はたして何れの日ぞ
  一朝事去壯圖差  一朝 事 去りて 壯圖(さうと)差(たが)ふ
  此闥N解英雄恨  此の閨iかん)誰か解せん 英雄の恨
  袖手春風詠落花  手を袖にして 春風 落花を詠ず

181 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 19:43:17.20 .net]
故郷に帰った篠原国幹は、失意と日本の将来を憂え、日々悶々としていたが、この詩はその頃に詠んだものである。

182 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 19:45:44.21 .net]
篠原は大久保が自分を説得することを考えると、それを受けることが煩わしく、(このさい、姿を隠すよりない)と、意を決した。

183 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 19:56:08.67 .net]
★竹橋兵営

▽10月25日
西郷と桐野の辞職を知ったある若い大尉の行動は、ドラマ『田原坂』で使われていた。
桐野も別府も篠原も全員竹橋兵営に集合して、近衛の帽子を投げ捨てていたようだった。

184 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 20:34:47.48 .net]
▽黒田清隆
黒田は大久保に命ぜられて、篠原を慰留するよう説得に赴いた。
「了介どん、うぜらしか」
「政府革命之時節、到来歟」

185 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 20:59:46.04 .net]
★赤坂仮御所

▽10月25日夕刻
既述したところであるが、明治6年5月5日の宮城火災から、明治21年の明治宮殿完成までの15年間、赤坂の元紀州藩屋敷跡に明治天皇の仮御所が置かれていた。
大久保はこの赤坂仮御所に大量辞職が続いていた近衛将校団を召集し、天皇の権威を利用して辞職を思いとどめさせようとした。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/43/cc/92ccc0c738a90ec282b8d0ef02eb1b53.jpg

186 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 21:04:09.83 .net]
▽徳大寺実則〈さねつね〉
天保10年(1840年)- 大正8年
尊皇攘夷派の公卿として活躍し、1862年(文久2年)国事御用掛、翌年議奏となったが、1863年(文久3年)に起こった八月十八日の政変に関与し謹慎となった。
1871年宮内省に入り、侍従長・宮内卿と兼任に至った。1891年内大臣兼侍従長となり、明治天皇の側近として天皇が崩御するまで補佐した。明治天皇の政治関与には強く反対し、元田永孚らが侍補制度を定めて天皇親政運動を行った折にはその阻止に動いた。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201508/29/92/a0287992_15191683.jpg

187 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 21:06:17.20 .net]
肝心の篠原は網にかかっていなかった。

188 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 21:08:25.77 .net]
▽軍人勅諭
明治15年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。正式には『陸海軍軍人に賜はりたる敕諭』という。西周が起草、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正されたとされる。
下賜当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草されたものされ、明治11年10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。

189 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 21:15:49.30 .net]
▽10月29日
ふたたび天皇が近衛の佐官以上を召した。参列した者は、140人ばかりいた。
しかし肝心の近衛司令長官篠原国幹の姿は見えなかった。
篠原ら近衛士官たちが、再三にわたって天皇みずからが慰撫したにもかかわらずそれを無視し官爵を蹴って東京を去ったというのは、黒田のいうように政論の対立というだけで、不忠の誹りを受けることはなく、天皇の権威はまだこれに介入できなかった。



190 名前:翔ぶが如く mailto:sage [2018/03/24(土) 22:02:54.13 .net]
第20章 陸軍卿

〔一〕山県有朋
「予は征韓論が起こったとき、東京にいなかった」
と、三十六歳の陸軍卿山県有朋はいう。
山県は保身については狡猾なほどに鋭敏な感覚があるが、かれがもし東京にいれば深刻な苦痛を味わったに違いない。
かれは幕末以来、長州人ながらも西郷を敬愛する気持ちが厚く、さらに山城屋事件という彼にとって致命的な汚職容疑で官外に追放されるところを、西郷によってからくも救われた。山県は、西郷から私恩を受けた。

191 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 22:08:11.29 .net]
西郷のあとを追って辞めてゆく薩摩系の近衛将校たちは、山城屋事件のときに山県を罵り、
「貪官汚吏の山県を殺す」
とまで息まき、ようやく西郷になだめられた。近衛将校たちは東京を去るについて、行きがけの駄賃で山県を斬るという危険も十分に予測できた。

192 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 22:15:36.87 .net]
▽徴兵制
板垣退助……義勇兵制で足りる。陸地が国境の西欧では互いに大軍を養って相警戒しあう必要があるが、四囲が海である日本で大軍を養う必要はない。
西郷隆盛……士族兵
長州……奇兵隊の精強という体験があるため、国民皆兵制以外の制度を考えていなかった。

193 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 22:18:36.30 .net]
しかし、山県の構想した鎮台制も、外征目的の軍備ではなかった。
「内は以て草賊を鎮圧し、外は以て対峙の勢を張る」

194 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 22:32:36.35 .net]
★熊本

▽チンダイ
この言葉は兵隊の同義語であったが、痛烈な蔑称でもあった。

             / ̄ ̄^ヽ
             l      l        ____
       _   ,--、l       ノ .     /_ノ  ヽ、_\
   ,--、_ノ:: `ー'::   、ミー---‐,,l     o゚((●)) ((●))゚o    プギャアアアアアアアアアアアアアア チンダイ
  ,/   :::         i ̄ ̄  | .  /::::::⌒(__人__)⌒::::: \
/           l:::    l:::   ll   |     |r┬-|     |    (⌒)
l   l .   l     !::    |:::   l   |     | |  |     |    ノ ~.レ-r┐、
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|   l .   }    l:::::,r-----   l.  \      `ー'´     ./ 〈 ̄   `-Lλ_レレ
ヽ  :l::::   ト:;;;;;;;;;/-/__...........  /                   ̄`ー‐---‐‐´

195 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 22:35:12.26 .net]
「長州奇兵隊をみよ」
「奇兵隊と申せば、百姓・町人が主力とはいえ、義勇兵制度だったではありませんか」

196 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 22:37:07.67 .net]
「戊辰のとき、東北諸藩の武士は奇兵隊と戦うのを嫌がったそうですな」
「百姓に首を授けるのは恥辱だ」

197 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 23:17:04.35 .net]
★名古屋

▽瘧〈おこり〉
間欠的に発熱し、悪感や震えを発する病気。主にマラリアの一種、三日熱をさした。
隔日また周期的に「起こる」が語源である。
※マラリアはハマダラ蚊によって感染する。
https://www.malaysia-borneo.com/assets/images/sick/malaria2.jpg

198 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 23:23:32.90 .net]
★箱根

▽10月25日
東京の変報を携えた陸軍大輔西郷従道の使者とは、静岡ですれちがった。
使者は早駕籠で山県を追いかけた。山県とは箱根の山中で会った。
手紙の日付は、10月19日であった。天皇が三条実美を見舞う前日である。

199 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 23:29:47.62 .net]
★麹町富士見町

▽山県邸
前スレ〔258〕に書いた。
現在は三番町共用会議所になっている旧山縣有朋邸は、明治18年に建築された。
www.maff.go.jp/j/use/attach/img/kaigisyo_koukai29-5.jpg



200 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/24(土) 23:38:47.77 .net]
▽「長の陸軍」
西郷南洲の征韓論にやぶれて、廟堂と陸軍大将の冠を挫けて故山に隠棲した際、薩州出身の武人ほとんどが西郷と進退を共にした。
薩摩が陸軍において勢を失ふべき運命はこの時にきまった。然れども大山巌、野津道貫、高島鞆之助、黒田清隆、川上操六等ありて漸く長に桔抗し、明治18年内閣制度実施より日清戦争後に至るまで陸軍大臣の椅子は薩人によって独占せられ山県といえどもこれを如何ともできなかった。






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