- 1 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2018/03/17(土) 17:27:04.65 .net]
- 司馬遼太郎全集を重箱の隅をつつきながら読み進めてまいります。
現在「翔ぶが如く」が進行中です。 前スレ 司馬遼太郎 Part12 https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1516287702/
- 677 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 05:46:14.51 .net]
- 黒岩重吾の奈良時代を描いた小説で、川の上に小屋をつくって、そこでうんこをしている描写があった。
厠の語源は、この川の小屋=川屋なのかどうかが知りたい。
- 678 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 05:50:47.78 .net]
- 篠原国幹の統率術というのは、薩摩隼人のウィーク・ポイントである「死を恐れるのか?」を連呼するだけなんだな。
- 679 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 05:55:50.15 .net]
- ちなみに「植木の戦い」は、実戦経験のない乃木さんの初陣です。
- 680 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 05:58:34.88 .net]
- 小学校の国語の教科書が、武将・軍人の話で埋め尽くされる日が待ち遠しいです。
乃木さんの植木の戦いなんて、むかしの日本人なら誰でも知っていた。
- 681 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 06:01:34.45 .net]
- 偏頗するのはよくないけどな。
楠木正成は美化されすぎたために面白くない人物になってしまった。 実物はもっと面白い人物だと思う。
- 682 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 08:42:11.92 .net]
- ☆ 村田三介
弘化2年(1845)生まれ。明治6年陸軍少佐を辞し、西南戦争では小隊長として西郷軍にくわわる。 熊本県北部の植木で政府軍をやぶり、乃木希典ひきいる第十四連隊の軍旗をうばう。 鍋田で明治10年3月11日戦死。33歳。 篠原国幹に「死を恐れるのか?」に言われるほどの頭脳派。 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0f/13/1a83a9565e00762238acfbf24a659423.jpg
- 683 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 08:47:34.66 .net]
- 村田三介のイメージは冷静沈着な頭脳派だよな。
日テレ「田原坂」では村田三介の妻・佐和子役は石井富子さんだったが、イメージに合わない。 俺はずっと汾陽光輝(かわみなみ)役の鈴木ヤスシの妻か姉だと思っていた。 livedoor.blogimg.jp/donzun-actors/imgs/3/5/350bf83f.jpg
- 684 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 08:50:08.76 .net]
- なお村田三介が属する四番大隊の大隊長池上四郎の姓は「いけのうえ」と読む。
「いけがみ」と読んでいる人が多いと思うが。
- 685 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 08:54:30.00 .net]
- >>677
トイレ(toilet)のことを厠(かわや)と言いますが、その呼び名には、手水(ちょうず)、手水場(ちょうずば)、便所(べんじょ)、雪隠(せっちん)などがあり、川の流れに落とす川屋(かわや)からカワヤの名が出たとの説も広く知られています。 この他にも、昔から、はばかり、ご不浄(ごふじょう)、遠方(えんぽう)、東司(とうす)、後架(こうか)、高野山(こうやさん)、閑所(かんじょ)、装者所(よそものどころ)など、多くのトイレの呼び名があります。
- 686 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 08:55:03.62 .net]
- 便所=仏教からきた言葉で、便利な所という意味です。
- 687 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 09:04:37.21 .net]
- 古代人の便所は水洗式だったことの証左となる歌が、「万葉集」巻十六に出ている。
香塗(こうぬ)れる 塔になよりそ川くまの くそふな喰(は)める 痛き女(め)やっこ あの人は人糞を食っているフナを食べている汚ならしい女だという相手の女をののしった歌です。 これは、川の上に便所を作っていた証拠と言えます。 世界の便所は、流すか、捨てるか、埋めるの三通りですが、川に流すのは南方系文化、便器を置くのは北方系文化と言われています。 溜桶をいけて便を貯めておくのは、農業用の肥料に使うところからきた日本独自の知恵。 konjaku-photo.com/m/pic/600/3215.jpg file.qingdao.blog.shinobi.jp/koedame.jpg
- 688 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 09:07:17.36 .net]
- 万葉集サイコー。ユーモアをも交えた自然主義文学だな。
古今、新古今ごときと並べて語ってはならない古代の最重要な文化遺産。
- 689 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 09:09:10.22 .net]
- >>684
そうだったんですか。ずっと「いけがみ」だと思っていました。
- 690 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 09:12:58.08 .net]
- >>687
わたくしは昭和40年代までの日本をこよなく愛する日本人ですが、 子供の頃遊んでいて肥溜めに嵌った屈辱の思い出があります。 肥溜めのことを考えると、あの時代に戻りたいとは思いません。
- 691 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:04:52.28 .net]
- >>669
加治木常樹の「薩南血涙史」によると、永山休二の小隊が植木に着いたのは、戦いが終わった後の2月23日ですよ。 加治木自身が永山小隊の押五(のちの伍長か)だったので間違いはない。
- 692 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:20:29.19 .net]
- 覚えてしまおう。熊本県北部の市町村。
https://www.kyusanko.co.jp/sankobus/sagasu/kennai/kenhoku/img/map_sg16.gif
- 693 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:30:19.31 .net]
- >>659
明治後は吉松秀枝(ほつえ)少佐。 小説も、そのようになっている。
- 694 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:33:20.96 .net]
- 知っているよ。
- 695 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:35:57.79 .net]
- 頭の悪い人って、そんなことも知らないバカじゃありませんよアピールがウザいよね。
「知っていますよ」アピールをした瞬間に、相手にバカだと見透かされているのにね。
- 696 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:36:43.04 .net]
- まあまあ、みなさん仲良くやりましょうや。
- 697 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:45:51.60 .net]
- 乃木希典少佐が60余名の兵とともに植木に到着したのは、熊本城攻撃が終わった2月22日の夕刻。
たたちに第三大隊長吉松秀枝少佐に命じて、植木宿の西南の端に散兵を配置した。 その後、遅れてきた兵を含め200〜300の兵力にはなったようである。
- 698 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 13:54:18.02 .net]
- ☆ 木葉
玉名郡玉東町木葉(旧木葉村)。 乃木は8q後方の木葉に炊事所を設けていたが、植木の兵の夕食は準備していなかった。 長行軍の上に飯抜き。戦えませんな。 matinami.o.oo7.jp/kyusyu-okinawa/gyokutou-konohatop.jpg matinami.o.oo7.jp/kyusyu-okinawa/gyokutou-konoha5.jpg
- 699 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 14:03:32.01 .net]
- 村田三介の小隊は、午後7時、乃木連隊吉松大隊に攻撃を開始する。
村田隊の弾薬が尽きた頃、伊東直二の4番大隊9番小隊が植木に到着した。 薩軍総勢400。 ここで村田小隊は白兵突撃に切り替える。
- 700 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 14:17:09.74 .net]
- 官軍はまだ一兵も失われていないのに、乃木は「余は勢の持久すべからざるを知り」退却を決意する。
退却先は後方の千本桜。現在の地名は、熊本市北区植木町舞尾。 www.geocities.jp/seinan_eki/jpg/ueki/nogitaishoukinenhi.jpg
- 701 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 14:28:23.40 .net]
- 第14連隊の連隊旗を薩軍に奪われた問題に関しては、発見者である高田露(あきら)、河原林雄太少尉に軍旗の扱いを命じた乃木少佐、河原林少尉を切り殺した薩軍の岩切正九郎押五の三者の証言が食い違っている。
司馬は、高田露の証言が正しいとしている。 乃木は命令を下したのみで、河原林少尉の命令後の行動は知らない。 しかし、おそらく嘘をついている。この嘘が乃木の心痛の種であり、乃木を殉死に追い込んだ動機のひとつであろうかと思われる。 岩切正九郎の証言は、収監中に政府が圧力をかけて偽証させたものであろう。
- 702 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 14:51:27.02 .net]
- ☆ 河原林雄太少尉
河原林少尉の出身藩である豊前小倉藩(小笠原氏・十五万石)は慶応二年(1866)六月、第二次長州征伐の荒波に飲みこまれます。 その後の講和の結果小倉城を中心とする企救郡を長州藩に奪われ、明治になっても廃藩置県まで国の直轄地になってしまいます。 小笠原家は藩庁を豊津(現在の行橋市)に移し豊津藩と称しますが、藩祖忠真公以来の小倉の地を去った藩士達は佐幕藩の苦労を嫌というほど味わうのです。 河原林少尉は嘉永元年(1848)の生まれですから、第二次長州征伐の時点で数えの19歳、おそらくは若い藩士として苦労を味わったでしょう。 https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/276/38/N000/000/033/148809498358717368178_DSC04617.jpg
- 703 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 14:57:08.46 .net]
- >>701
河原林少尉に連隊旗を背負ったままで、しかもわずか10名の兵で、400忍の薩軍相手に殿軍をやれという乃木の命令には、明らかに矛盾がああるな。 こんなこと長反橋の張飛にしかできない。
- 704 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 14:58:46.44 .net]
- 司馬も、乃木と河原林少尉の最後の別れは、高田露が見たという本営の民家ではないかと言っているな。
- 705 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:00:54.13 .net]
- 植木の戦いは、2時間余りで終了する。
乃木が退却したのとほぼ同時刻に薩軍も退却している。 薩軍もまた長い行軍で疲労していた。
- 706 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:02:03.33 .net]
- ドラマや映画では、植木の戦いは昼間に撮影されているが、日没後の戦いである。
- 707 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:07:07.54 .net]
- ☆ 鹿子木
熊本市北区鹿子木町。 薩軍の村田小隊・伊東小隊の退却場所。植木から3q南。 https://arbeit.nifty.com/arbeit_images/baitalk/2899/phpzpe62G.jpg ※スシロー熊本鹿子木店のバイト・アルバイト募集情報に貼られたアルバイト役のおねえさん
- 708 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:10:42.61 .net]
- 乃木少佐は午後9時40分に植木から千本桜に退却。
前線の吉松秀枝少佐以下も全員無事に退却している。 取り残されたのは、河原林少尉以下の10人である。
- 709 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:16:44.30 .net]
- 以下は筆者の推測であるが、高田露は乃木が本営としていた民家は「狼藉の跡は見苦しかった」と証言している。
おそらく岩切正九郎ら数名の薩兵は、乃木が本営としていた民家に斬り込んで闘争に及んだはずである。 河原林少尉は乃木を無事に退却させるために、自ら殿を引き受けたと思われる。 その後河原林も民家から脱出するが、追尾してきた岩切正五郎に斬殺された。享年32.
- 710 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:25:48.43 .net]
- ☆ 投刀塚(なたづか)
熊本市北区植木町投刀塚。 河原林雄太少尉の戦死地。 pic4.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/1/3/4/2700000000000084431/0000003137/2700000000000084431_0000003137_1.jpg kakutaxi.com/wp-content/uploads/IMG_1400.jpg
- 711 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:42:45.07 .net]
- 乃木は千本桜で吉松少佐らと落ちあい、田原坂を越えて木葉まで退却した。
https://murakumo1868.web.fc2.com/img-02modern/0217.jpg
- 712 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:53:38.93 .net]
- 鹿子木村まで退却した村田小隊・伊東小隊に、熊本から三小隊の援軍が来着する。
四番大隊六番小隊 小隊長:松下助四郎 四番大隊七番小隊 小隊長:石原市郎右衛門 四番大隊十番小隊 小隊長:橋口成一
- 713 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 15:56:29.08 .net]
- >>701
河原林少尉の遺体の背腰に巻かれた軍旗が差されていたというところが、岩切正九郎の偽証だな。
- 714 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 16:04:56.13 .net]
- 村田三介戦死後、兵站の責任者桂久武が、第14連隊の連隊旗は村田一代の武勇のしるしとして遺族に送った。
ここで村田の妻・佐和子(>>456・>>457・>>458)が登場する。 戦後、連隊旗の行方を捜索していた警察に、佐和子は連隊旗を渡してしまった。 捜索当時に乳児をかかえていた佐和子は、拘留されれば哺乳できないと考えたためである。 https://www.bvd.jp/WordPress/wp-content/uploads/2017/12/pickup08_01.png
- 715 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 16:07:01.08 .net]
- _ ∩
( ゚∀゚)彡 おっぱい!おっぱい! ( ⊂彡 | | し ⌒J
- 716 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 16:10:55.57 .net]
- >>712
戦力の増強は、植木方面と、さらに北方の山鹿方面だな。
- 717 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 16:16:20.69 .net]
- >>691
河原林少尉の遺体の発見者は加治木常樹自身。 その加治木は市ヶ谷監獄に収監されるが、偶然にも岩切正九郎と同牢する。 加治木は岩切の話を聞いて、はじめて自分の発見した遺体が河原林少尉の遺体であることを知った。 数奇な話ですなあ。
- 718 名前:二十三日の木葉 mailto:sage [2019/03/23(土) 18:23:18.02 .net]
- 【木葉の戦い】(2月23日)
22日夜半、薩軍本営で作戦会議が開かれた(>>643)。熊本城攻撃をこのまま継続するかどうかを話しあい、 当初は篠原の強行策継続が決定したが、遅れてきた野村忍助が反対し、西郷小兵衛や池上四郎らも同調し、会議は紛糾してしまう。 桐野は西郷に決を求め、西郷は強行中止を決断。熊本城を包囲する一方、残りは北上して小倉を強襲することが決定する(>>643の折衷案を訂正)。
- 719 名前:二十三日の木葉 mailto:sage [2019/03/23(土) 18:23:53.27 .net]
- 23日に6個小隊が小倉へ向けて出発した。総勢1800名は二手に分かれて植木方面に進出するが、対する乃木の歩兵第14連隊は未だ兵力は完全に集結しておらず、手元には700名ほどしかなかった。
木葉で展開する歩兵第14連隊は8時30分頃より優勢な薩軍と交戦を開始し午後1時頃までは互角に戦っていたが、薩軍右翼の1隊が遠く南回りに回り込んで第14連隊の右翼を脅かした事で連隊は劣勢となる。 それでも夕刻まで持ちこたえた第14連隊は夜陰に乗じての撤退を開始するが、木葉山を大きく迂回してきた薩軍が側面を襲ったことで部隊は総崩れとなり、第14連隊は木葉川を越えて寺田山へと退却する。 この戦いで乃木は第三大隊長であった吉松秀枝少佐など多くの部下を失っている。 seinan1877.zouri.jp/ueki/koba.jpg
- 720 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 19:07:00.32 .net]
- 司馬さんは、西郷の折衷案を華麗にスルーして、野村忍介の小倉占拠論があたかも22日夜の軍議で決まった内容だというように書かれている。
ちょっと呆れたぞ。
- 721 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 19:08:04.12 .net]
- もともと西郷の折衷案なるものは史実にないのではないか?
- 722 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 20:35:47.11 .net]
- ☆ 国見山〜木葉山
木葉山の南に水田地帯が開けている。 w.speedia.jp/mutu48/yama-konohayama00.jpg
- 723 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 20:39:55.54 .net]
- ☆ 津森秀実大尉
乃木の第14連隊第3大隊第3中隊長 植木へ将校斥候
- 724 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 20:42:33.22 .net]
- ☆ 功力栄植大尉
木葉から高瀬への街道に置かれた中隊の中隊長
- 725 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 21:26:05.59 .net]
- ☆ 七本(ななもと)
熊本市北区植木町轟七本 将校斥候と囮を兼ねた津本大尉の20余名は、七本という集落で、薩軍の松下助四郎小隊・石原市郎右衛門小隊・橋口成一小隊と遭遇する。 津本は木葉まで引き返した。木葉の戦闘は、このようにして始まった。 kumanago.jp/shugaku/files/ProgramImage/0/ProgramImage_626_image.jpg ※七本官軍墓地ー木葉の戦いで戦死した官軍兵士のみが埋葬されているわけではない。
- 726 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 21:38:07.27 .net]
- >>725
昨夜のうちに植木に着いた三小隊のうちの石原市郎右衛門小隊は、木葉の戦いには参加していないようである。
- 727 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 21:46:21.38 .net]
- 上木葉に散兵していた吉松秀枝少佐が射撃を命じたときに最前線にいた薩軍は、いったん境木にまで後退した。
>>725で松下助四郎小隊・橋口成一小隊と書いているのは、司馬さんがそのように書いているからなのだが、 翌々日の連載では、その二小隊は華麗にスルーされて、園田武一小隊長・平野正介小隊長・国分寿助小隊長に替えられている。 境木に後退したときに、松下助四郎小隊・橋口成一小隊が植木から駆けて追いついたことに変えられている。 驚いた。
- 728 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 21:52:01.12 .net]
- ☆ 境木
熊本県玉名郡玉東町大字上木葉字境木 https://pds.exblog.jp/pds/1/201411/24/53/d0158053_22311633.jpg pic3.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/8/6/6/2700000000000086668/0000002097/2700000000000086668_0000002097_1_s.jpg
- 729 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 22:40:36.31 .net]
- >>726
参加しとるわ、あほ。 もう一度、>>719の配置図にしたがって整理してみる。 植木から山鹿にむかった3小隊が、神宮司助左衛門小隊・嶺崎半左衛門小隊・石原市郎右衛門小隊。 植木から木葉にむかった3小隊が、園田武一小隊・平野正介小隊・国分寿助小隊。 左翼の植木迂回隊というのが、松下助四郎小隊・橋口成一小隊の2隊。 総勢1,600。
- 730 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 22:57:30.44 .net]
- つづいて、山鹿3小隊の木葉への進行経路であるが、眠くなったので、また明日以降に。
- 731 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/23(土) 23:41:06.71 .net]
- >>728
境木は田原坂を下ったところにある。 seinan1877.zouri.jp/tabaru1/tabarutizu1.JPG
- 732 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 18:59:14.74 .net]
- ☆ 五両
熊本市北区植木町山本五両 植木から山鹿街道を北へ2q 山鹿へ向かった薩軍の三小隊が木葉の戦闘に気づいた地点 https://iwiz-loco.c.yimg.jp/im_siggqyasDduMSlD0nA2vxDqFAg---x302-y226-cwc302-chc200-bd0-n0-ifmpng-prix-q100/p/olp/j_gu2KlxwzB_TnuUGX647qD.1f8rOSQb5ZUvHM0QIJEQTUdWx1eeEbraJhCgizw_oD8DQw-- ※味千ラーメン植木五両店のラーメン
- 733 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 19:01:12.18 .net]
- ☆ 金比羅山
umihikoyamahiko.net/kumamoto/kumamoto/yama.img/konpirasan0.jpg
- 734 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 19:06:10.18 .net]
- ☆ 大平
熊本市北区植木町平原大平 田原坂の北
- 735 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 19:35:21.92 .net]
- 山鹿三小隊が木葉村の背面に出現したのは、午後1時であった。
そのうちの石原小隊・嶺崎小隊は、大城寺の上の高地に回った。 そこから眼下に展開している官軍に銃弾の雨を注いだ。
- 736 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 23:28:08.48 .net]
- ☆ 吉松秀枝少佐の戦死
「援兵の余裕などない。たとえあっても君に分かつべき兵はない。 君がもしここを守らないというなら、私が君に代わって守ろうじゃないか」 「私はただ君のほうに余力があるなら増援してもらいたいと思っただけだ。ここは私が守る。 ……しかし言っておくが、足下はその職が連隊長である。宜しく大局を督すべし。久しく此処に留まるべからず」 享年33。
- 737 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 23:31:40.76 .net]
- 連隊長が自ら最前線に伝令に走るなど、もはや軍人とはいえないな。
ド素人。
- 738 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 23:32:44.00 .net]
- 乃木さんの下で戦うということは、死ぬということだ。
- 739 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 23:40:04.09 .net]
- 長州閥がなければ、乃木の立身出世など有りえなかった。
軍人ではなく文官になってもらいたかった人だな。
- 740 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 23:45:54.70 .net]
- 援兵の催促に感情的に反応して、最前線に自ら赴く。
器量が小さすぎる。
- 741 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/24(日) 23:52:07.05 .net]
- ブサヨwwwwww 必死だな wwwwww
糞してwwwwww 寝ろやwwwwwwwwwwwwwww
- 742 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 00:22:21.41 .net]
- 軍神(´‘c_,‘` )プッ
- 743 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:03:29.03 .net]
- ☆ 石貫
熊本県玉名市石貫 乃木は木葉から石貫への退却を決意した。 臆病なので高瀬を素通りして石貫まで退却。 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/bb/a458f467b639f37eafcdb116c3e61fde.jpg
- 744 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:06:49.72 .net]
- ☆ 稲佐
熊本県玉名郡玉東町稲佐 木葉の前線から1q後方。第14連隊の輜重隊が屯していた場所。 https://i.ytimg.com/vi/RgBYZzMEsZ8/maxresdefault.jpg
- 745 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:13:38.27 .net]
- 乃木はわずか40数人の輜重班(軍人ではなく人夫)に大宮勝武中尉をつけて、全軍の殿軍とした。
- 746 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:14:11.80 .net]
- こいつバカだろ。
- 747 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:26:01.13 .net]
- ☆ 逃げ遅れた乃木連隊長を庇って戦死した人々
大橋伍長 摺沢静夫少尉試補
- 748 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:27:14.29 .net]
- こいつバカだわ。
- 749 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:31:04.11 .net]
- 連隊長みずから人夫40人に殿軍を命じるために前線から1q後方に来たバカ。
しかも前線指揮官の吉松少佐は、乃木が稲佐村に来た時点には既に戦死していた。 おまえは吉松に自分が代わって指揮を執ると大口を叩いていなかったか?
- 750 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 02:40:37.12 .net]
- 阿呆な連隊長の下、木葉で戦った第14連隊の犠牲者
死者26名 負傷者50名 薩軍の死者 4名
- 751 名前:浅き春 mailto:sage [2019/03/25(月) 10:42:58.45 .net]
- 【熊本協同隊】
☆ 出町学校 2月23日、熊本民権党は熊本城下の出町学校において隊名と隊長を決めた。 熊本市西区出町。
- 752 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 10:48:36.27 .net]
- 隊長は平川惟一(のぶかず)
29歳で宮崎八郎より2歳年長であるし、100石取りの上士の家であるから、郷士出身の八郎が隊長になるわけがない。 詳しくは>>629に書いた。
- 753 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 10:49:36.13 .net]
- 戦場に女を出入りさせていた八郎が隊長になれるわけがない。
- 754 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 10:53:01.00 .net]
- 民権家の女癖が悪いのは、現代だけではなかったんですね(´・∀・`)ヘー
- 755 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 10:58:26.29 .net]
- ☆ お浪
陣営に潜んでくる若い婦人というのは、宮崎八郎が熊本に出てくると常宿としていた高瀬屋という宿屋の娘お浪だったそうです。 「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」という美化されたキャッチ・フレーズは勘弁してほしいです。 ただの押しかけ従軍慰安婦です。軍の統制が紊乱するだけです。 「田原坂」では戸川京子。 nagomi-web.com/fuhou/fuhou_select/image_fuhou/78togawa_1.bmp
- 756 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:00:17.93 .net]
- 宮崎八郎のチンポがよほど良かったんだろうな。
- 757 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:01:21.96 .net]
- 民権家は他に褒めるところがないんだけれど、チンコだけはすごいらしいね。
- 758 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:07:19.20 .net]
- >>755
「田原坂」のナレーションも確か「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」みたいな感じだった。 セックスの際の体液の臭さを、花の香で中和しようとするんだろうな。
- 759 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:24:13.02 .net]
- ☆ 江上アサ
熊本県出身で日本の元祖料理研究家と言われる江上トミを知っていますか? 昔のNHK「今日の料理」や日本テレビ「キユーピー3分クッキング」でお馴染みだった人です。 江上トミの母親アサは熊本県南関の惣庄屋江上安太の娘でした。 荒尾村の宮崎八郎の許婚者でありました。
- 760 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:26:23.49 .net]
- 許婚者がいるにもかかわらず、専用従軍慰安婦(´・∀・`)ヘー
しかも許婚者は家格が上の隣村の惣庄屋の娘(´・∀・`)ヘー
- 761 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:28:52.32 .net]
- 高田露(あきら)は、マジでお浪を斬ろうと思っていたらしいな。
- 762 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:36:20.25 .net]
- ☆ 種子島彦之丞
西郷のいる本営の護衛隊長。 津本陽の「抜き、即、斬」の主人公。短篇集『人斬り剣奥儀』 (PHP文芸文庫) 所収。 鹿児島では明治になっても決闘がさかんにおこなわれた。 「抜き、即、斬」は、わずか11歳の稚児種子島彦之丞が仲間の稚児をいじめて殺した20歳の二才相良源左衛門に決闘を挑んだ話。 小さいとはいえ、彦之丞は自顕流の抜きの稽古をつんでいた。いじめっ子に敢然とたち向かう彦之丞の勇気がすばらしい。
- 763 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:42:46.70 .net]
- ☆ 蒲生彦四郎
西郷本営の狙撃隊長。 薩摩琵琶が得意だった。
- 764 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 11:45:14.29 .net]
- ☆ 森友諒
種子島士族で、西南戦争のときは西郷の護衛兵。 従軍記『戦塵録』を残す。
- 765 名前:日本@名無史さん [2019/03/25(月) 12:08:50.88 .net]
- 八郎は一気に書き上げた挙兵趣意書を中根正胤(>>628)に読み聞かせた。
- 766 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 14:13:11.40 .net]
- 【熊本攻城戦】
☆ 河東祐五郎 種子島西之表士族。西南戦争に17歳で従軍した。 田原坂の戦いの様子を詳細に記録した「丁丑弾雨日記」を著す。 2月27日に伊倉に退いた西郷軍側の河東祐五郎は、寺院に休泊した。 寝るときは、下に麦わらを敷き上に畳をのせてもぐり込んだが、「堅氷指を墜さんばかりの厳冬なれば苦寒肌に?して通宵眠り得ること能はさりき」。
- 767 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 14:21:49.30 .net]
- 2月22日:12門の四斤山砲は攻城戦に未着
2月23日:永山弥一郎が占拠した花岡山(>>631)から砲撃したが射程距離が足りなかった。 img01.militaryblog.jp/usr/sat/020GTG.JPG その後、20ポンド臼砲4門を鹿児島から運び安己橋に据えて砲撃した。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/8/88/Gribeauval_12_inches_mortar_April_1789.jpg/200px-Gribeauval_12_inches_mortar_April_1789.jpg
- 768 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 14:25:03.59 .net]
- ☆ 讃良清蔵
西南の役最後の戦いである城山において、薩摩軍の讃良清蔵という砲隊半隊長が「西郷先生だけでも何とか生き残って欲しい」と熱望しました。
- 769 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 14:28:57.09 .net]
- ☆ 岩元平八郎恒成
弘化4年(1847)生まれ。もと近衛砲兵大尉で西南戦争のとき薩摩軍の砲隊長をつとめる。 西郷隆盛にしたがい、城山で明治10年9月24日戦死。31歳。 www5d.biglobe.ne.jp/~iamarock/iwamoto/familyhistory/album/hei1.jpg
- 770 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 15:10:39.05 .net]
- ☆ 田代清丈
砲兵小隊長。堀新次郎、村田三介と墓が並んである。 https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-3f-31/satsuma10box02/folder/463117/38/7834138/img_3?1353115899
- 771 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 15:14:00.64 .net]
- 【植木への退却】
23日の木葉の戦いに大勝した後、薩軍は乃木連隊を追撃することなく、驚くべきことだが植木に退却してしまう。 野村の小倉占拠論は、どうなってしまったのだろうか? 薩軍は戦略を立てる参謀なしで戦っている。
- 772 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 15:17:39.37 .net]
- 戊辰戦争では進撃する先々で味方が増えた。
この体験が薩軍の戦略を甘いものにしてしまったのだろうな。 明治10年においても士族・農民ともに政府に不満をいだいている。 行く先々で味方が増えると思っていたかもしれない。 そもそも熊本鎮台が西郷に刃を向けるなど、薩軍幹部の誰もが予想していなったわけだし。
- 773 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 15:22:33.76 .net]
- お祭りの鬼が、子供を追っかけまわしているようなものだよ。
子供を追っ払えば、元の位置に戻ってしまう。 薩兵の強さを過信していたのだろうな。 たしかに強いが、戦略はない。戦略不要なまでに薩兵は強いと過信していた。
- 774 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 18:12:27.31 .net]
- 戦う気がないのだから、戦略も何もないよ。
戦うことになるかもしれないと予想して、参謀に戦略案を練らせておかなかったのは落度だけどな。
- 775 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 18:13:14.18 .net]
- そんなことをしていたら、篠原に「死を恐れるか?」と睨まれる。
- 776 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 19:54:26.28 .net]
- 【先発旅団】
第一旅団:野津鎮雄少将……東京歩兵第1連隊、大阪歩兵第8連隊 第二旅団:三好重臣少将……参謀長野津道貫大佐、近衛連隊(士族兵) 両旅団とも2,000の兵力。その後、大幅に増員。 2月22日に博多上陸。23日に博多を進発。
- 777 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 20:00:11.47 .net]
- ☆ 二日市
福岡県筑紫郡にあった町。現在の筑紫野市の中心部にあたる。「博多の奥座敷」と称される二日市温泉がある。 昭和30年:御笠村・筑紫村・山口村・山家村と合併して筑紫野町が発足。 昭和47年:市制施行により筑紫野市となる。 https://mapio.net/images-p/46247137.jpg
- 778 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 20:10:08.25 .net]
- ☆ 石貫村川床
乃木の第14連隊は高瀬を経て6q北の石貫村の字川床に辿りついた。 石貫村は現在玉名市石貫。 大河ドラマ「いだてん」の金栗四三の妻・春野スヤは石貫村の出身。乳がでかい。 https://d39t9tn4y25mgl.cloudfront.net/wp-content/uploads/2019/01/7f4ff5ec671420ab3bcfb320dc671c1f.jpg 字川床は、玉名市三ツ川になっている。
- 779 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/25(月) 20:22:53.44 .net]
- ☆ 彦坂為一大尉
第一旅団の東京鎮台歩兵第1連隊第3大隊第1中隊の中隊長。 24日午前、乃木の連絡将校である渡辺中尉と久留米近辺で出会う。 3月9日には戦死する。
- 780 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 03:28:41.43 .net]
- 渡辺中尉から戦況報告を聞いた野津鎮雄少将は、高瀬を奪うことを決意した。
高瀬の会戦は、このようにして初動しはじめた。 なお、野津鎮雄は、明治13年、明治天皇の随行を命ぜられるが、出発前に病に倒れ死去。享年44。
- 781 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 03:32:12.99 .net]
- 野津は彦坂為一大尉の中隊に、人力車で高瀬への急行軍を命じた。
https://assets.media-platform.com/lifehacker/dist/images/2017/12/18/asics_top2-w960.jpg
- 782 名前:日本@名無史さん [2019/03/26(火) 05:20:45.86 .net]
- >>619
ジャパネット高田か?
- 783 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:32:17.96 .net]
- 「西郷を擁し、遠く東京へ乗り込む」などと、地理感覚としても壮大であった彼らの構想は、
熊本城攻めのわずか第一日目の難戦だけでもって、ほとんど忘れられたようになった。 当面の現実――つまり敵という存在――が、彼らの思考を小さくした。 薩軍の思考は、目の前の熊本城にこだわらざるをえず、たとえば熊本城を突き放して遠く小倉方面へゆくという思考もできなくなった。
- 784 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:39:42.36 .net]
- さらには、政府軍の南下接近という敵状が、かれらの意識を拘束した。
二十二日夜、本営の議論が分裂したために西郷が裁定して決定したのは、一部をもって熊本城を抑え、一部をもって近郊に迫る政府軍を迎撃するということであった。 その地理的感覚は熊本近郊を出ず、思考の狭小化は、救いがたいほどのものになっている。
- 785 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:48:51.30 .net]
- 当初、鹿児島を出るときの私学校の政略は西郷軍が東京に迫ることによって満天下の不平士族だけでなく各地の鎮台までが風をのぞみ、
あらそって軍旅に投じ、ゆくにつれて軍勢は雪だるまのように大きくなり、ついには東京を圧倒するに至るというものであった。 ただ、政略は存在したが、それを実現せしめる戦略を持たなかった。 政略はいわば気体のようなものであり、それを固体化するのが戦略であったが、 桐野・篠原らの感覚では、西郷その人こそそのまま戦略であるとしたむきが強かった。 西郷さえ持ち出せば、その圧倒的人気によって、戦略の機能を十分果たしうると思っていた。
- 786 名前:菊池川 mailto:sage [2019/03/26(火) 10:59:34.31 .net]
- 要するに、桐野・篠原らは西郷という世間的価値に、世間以前にまず自分たちがまばゆく眩んでしまったということであろう。
このために常識的な意味での政略も戦略も考えなかった。 そのため、眼前の戦術的対象にすぎない熊本城に捉われてしまったとき、政略も戦略も霧のように消えた。 せっかく木葉を占領しながら、さらに兵を進ませることなく慌てて植木まで撤退させたのも 薩軍がたんなる戦術部隊に堕ちてしまっている証拠であり、 さらには菊池川を渡って高瀬を占領しておくこともせず、結局は政府軍が高瀬を占領してからやっと兵を繰り出すという形になった。
- 787 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:01:41.06 .net]
- 引用がなげーよ、カス。
- 788 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:35:24.74 .net]
- 西南戦争を調べていると、薩軍の熊本城への拘泥の理由は、おれたちの頭でも何となくは理解できる。
しかしそれを文章化しようと思うと、プロの物書きにはかなわないなあ。
- 789 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:47:10.25 .net]
- 【山鹿の戦い】
山鹿口における24日間の攻防 西南の役の主な戦場としては田原坂が有名であるが、その田原坂の戦闘と並行して山鹿でも2月26日から3月21日までの24日間、薩軍・官軍の激しい攻防が繰り広げられていた。 南下してきた官軍が田原坂に次ぐ第二のルートとして山鹿から熊本に抜ける豊前街道(小説では山鹿街道)を選んだことは当然であり、そこで行なわれた戦闘が激しかったことは容易に想像できる。
- 790 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 11:53:47.76 .net]
- ☆ 山鹿
12世紀中頃、山鹿温泉の発見により、温泉町として発展を始める。 中世には菊池氏が地域一帯を支配するが、菊池氏の没落後、めまぐるしく変動する。 江戸時代には参勤交代の道となる「豊前街道」が整備され、熊本藩・人吉藩・薩摩藩がこの道を往来した。 市制施行は昭和29年。「ゴジラ」封切りの年である。 www.city.yamaga.kumamoto.jp/www/contents/1475735115972/simple/161014101100_0.jpg matinami.o.oo7.jp/kyusyu-okinawa/yamagasitop.JPG
- 791 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:01:24.46 .net]
- ☆ 豊前街道
肥後熊本を起点として北上し、植木・山鹿から南関を経て豊前小倉に至る道を熊本では「豊前街道」と呼んでいます。 近世になってこの街道は参勤交代の道として栄え、大名行列の宿場町として土地固有の産業や文化が育ってきました。 昔から湯のまちであった山鹿は宿場町として栄え、重厚な貫禄が町並みに残っています。 https://lh3.googleusercontent.com/-ZY3zwLAcljY/WQ1igSfOD-I/AAAAAAABJcI/QBy7LhqoOTAwjokm0h7AQhMme-dWfiq7gCE0/s1024/IMG_20170506_143543.jpg
- 792 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:10:09.05 .net]
- 兵力が分散していた乃木の第14連隊のうちの二個中隊の兵力は、木葉で乃木が戦っていた2月23日午後1時に山鹿に到着した。
率いていたのは第14連隊第1大隊の大隊長津下弘少佐。
- 793 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:13:36.84 .net]
- ☆ 出町
熊本市西区出町。熊本城の真北。
- 794 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:19:07.78 .net]
- 薩軍は山鹿の第14連隊二個中隊に対応するため、四番大隊から五個小隊(兵力1,000)を、
三番小隊長の野村忍介を臨時の指揮官にして山鹿に進発させた。 道案内は、平川惟一(>>629)の熊本協同隊。 戦場に女を連れ込んだ変態宮崎八郎も同行したようである。
- 795 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:20:26.08 .net]
- 「血生臭い戦場にただ一輪、恋の花を咲かせた女性」
爆笑!!!
- 796 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:27:49.71 .net]
- 野村忍介の四番大隊が熊本を出発したのは、23日夜8時。
敗走した乃木が石貫村川床にたどりつこうとしていた頃である(>>778)。
- 797 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:30:56.16 .net]
- 23日の夜は豪雨のため植木で一泊した。
24日行軍を再開し、山鹿に到着する。 そのとき津下弘少佐の部隊は、乃木のいる石貫まで退却していた。
- 798 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 12:41:41.05 .net]
- 2月26日の戦闘は、山鹿口の戦いのうちの「第一次鍋田の戦い」と呼ばれる。
すでに南関を占拠した三好重臣の第二旅団が、第14連隊の津下弘少佐に三個中隊と砲兵を与えて、山鹿に進発させた。 結果は薩軍の圧勝。 政府軍の死者41名。薩軍の死者3名。
- 799 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 13:11:46.28 .net]
- 鍋田の戦いの解説で、政府軍の指揮官を三浦梧楼少将とするものがやけに目に付く。
三浦梧楼は第三旅団長だろう。まだ九州に到着していないんじゃないの?
- 800 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 13:44:37.22 .net]
- 【高瀬の会戦】
両軍主力が初の激突。 高瀬は菊池川西岸の街で菊池川を渡る高瀬大橋があり、南関から南下する政府軍にとって、高瀬経由で熊本へ進むルートは、山鹿経由に比べ起伏が緩やかで物資を運ぶには容易であり、高瀬大橋を確保することは必要不可欠であった。 この地を巡って両軍主力は初めて激突することになる。 高瀬の会戦は、2月25日、26日、27日の三日間にわたって行われた。 西南の役の事実上の天王山である。
- 801 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 13:57:00.16 .net]
- 薩軍主力先鋒は熊本北部へ移動を開始。
24日、4番大隊3番小隊長・野村忍助は5個小隊を率いて山鹿制圧に進軍。 6番大隊長・越山休蔵は3個小隊を率いて植木経由で高瀬東の山部田へ進軍して植木への進路を封鎖。 さらに3番大隊7番小隊長・岩切喜次郎は3個小隊を率いて有明海沿いから小天経由で高瀬へ、 佐々友房ら熊本隊3小隊も吉次峠を越え伊倉へ進み高瀬へ進軍した。
- 802 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:10:18.70 .net]
- 小説の上では退嬰的な薩軍とは対照的に、高瀬の占拠については熊本隊が積極的だったように書かれている。
- 803 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:17:48.52 .net]
- 熊本隊の一番小隊長佐々友房(>>554)が高瀬の対岸の伊倉村に本営を設けたのは、2月24日朝である。
☆ 伊倉村 昭和29年に近隣町村と合併して玉名市となる。
- 804 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:22:31.67 .net]
- ☆ 岩切喜次郎
薩軍3番大隊7番小隊長。 25日午後4時、伊倉にいた薩軍・岩切喜次郎隊が高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まる。これが第一次高瀬会戦である。
- 805 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 14:26:58.80 .net]
- ☆ 小天(おあま)
小天温泉は、熊本県玉名市天水町小天に位置する温泉である。 夏目漱石の小説『草枕』の舞台「那古井温泉」のモデルとして知られる。 明治29年から熊本市の第五高等学校(熊本大学の前身)の英語教師として勤めていた漱石は、 翌年暮れ、当時熊本市街から最も近い温泉であったこの地で正月にかけて数日間保養した。 薩軍岩切喜次郎隊が、小天に進出していた。 https://suumo.jp/front/gazo/bukken/090/N010000/img/193/90478193/90478193_0001.jpg
- 806 名前:高瀬の会戦 mailto:sage [2019/03/26(火) 16:43:18.04 .net]
- 【熊本隊】
学校党。藩校時習館出身者。石取りの上士。 明快な反革命党。士農工商の世に戻せという思想。 2月22日、熊本県権令富岡敬明(よしあき)〔>>566〕に池辺吉十郎(>>551)が出した決起宣言書にその思想が濃厚に表れている。
- 807 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 16:53:21.94 .net]
- ☆ 高橋長秋
安政5年(1858)生まれ。もと肥後熊本藩士。西南戦争では熊本隊にくわわり政府軍とたたかう。 明治12年同心学舎(現済々黌高)の創立に参加。 その後実業界にはいり、大阪百三十銀行副頭取、肥後銀行頭取などをへて熊本電気を創立した。 昭和4年7月3日死去。72歳。
- 808 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:15:36.83 .net]
- ☆ 時習館
熊本藩第8代藩主細川重賢が宝暦5年(1755)に設立した藩校。 続いて宝暦6年(1756) 重賢は藩の医学校再春館も建てた。 両校とも明治3年に廃校になった。 熊本藩士族の文武両道、質実剛健の気風を育てたとされる。幕末期には横井小楠が時習館に学び塾頭も勤めたが、実学党に鞍替えした。 https://kumamoto.tabimook.com/images/tourism_images/651eca1444c75fb447d5dacf65ee6a80.jpeg
- 809 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:20:06.71 .net]
- ☆ 同心学舎
佐々友房のところで述べた(>>554)。 現在の熊本県立済々黌高等学校である。 cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/s-zukan/20110813/20110813225220.jpg
- 810 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:24:31.22 .net]
- ☆ 第一高等中学校
明治19年に、日本の近代国家建設のため必要な人材の育成を目的として創設された。 それ以前は大学予備門と呼ばれた。 明治27年以降、第一高等学校に改称された。 現在の東京大学教養学部の前身である。 https://jaa2100.org/assets_c/2015/12/img_567515e181f3e8-thumb-autox808-35535.jpg
- 811 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 17:34:22.15 .net]
- 日本の旧制高校の校風や寮制は、明治19年に第一高等中学校が創設されたとき、
校長の古荘嘉門(ふるしょう かもん)、幹事の高橋長秋(>>807)、舎監の守田愿が、 いずれも熊本時習館の出身だったために、時習館の伝統が強く移植されたことによる。
- 812 名前:日本@名無史さん [2019/03/26(火) 17:37:28.18 .net]
- 司馬さんが脱線しているところまで詳述しなくていいんじゃないの?
はやく戦をやれよ。
- 813 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:08:49.50 .net]
- ☆ 松崎迪(すすむ) / 高島義恭(よしたか)〔>>635〕
2月22日の初戦の後、熊本隊から二名の代表者を西郷の元へ挨拶に送った。 松崎迪(すすむ)は副大隊長。高島義恭(よしたか)は軍監である。
- 814 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:11:24.48 .net]
- それがしは、
西郷吉之助でございまする / ̄ ̄ ̄ ̄~\ < Y三ヽ /\___ / |へミ| (へ___ ヽ/ ノ〜zノ / /| | <_  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\_ノミ)  ̄
- 815 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:18:43.47 .net]
- ___
/ ノ '' ⌒\ 今夜、敬神党が抜刀して城内に突入します / ( ● ) (● )\ / :::::⌒ 、_ ゝ⌒:::::\ (⌒) | - | ノ ~.レ-r┐、 \ / ノ__ .| | | | . , ⌒ ´ \  ̄ ´ ! 〈 ̄ `-Lλ_レレ / __ ヽ |  ̄`ー‐---‐‐´ . 〃 ,. --ミ ヽ i |/ハ / ji/  ̄` ヽ | . {{ '
- 816 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/26(火) 18:22:00.60 .net]
- /  ̄ ̄ \
/ノ ヽ__ \ まぁ、なんとなく予想はついてたお。 /(―) (― ) \ 敬神党だと勘違いされてたんだお。 |. (_人_) u | \ `⌒ ´ ,/ / ヽ ./ l ,/ / i (_) (__ ノ l / / ___ ,ノ !、___!、_____つ 池辺吉十郎
- 817 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 03:18:48.67 .net]
- >>802
薩人のことを書くと意気込んで執筆を始めたものの、西南の役の薩人には西郷を筆頭に魅力的な人物がいない。 新たなヒーローを求めて肥後人について書こうと思ったが、チンポ八郎にはがっかりしてしまう。 そこで目を付けたのが、佐々友房なんだろうな。
- 818 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 04:16:04.93 .net]
- むしろ政府軍の側にヒーローが多い。
歩兵第13連隊の連隊長与倉知実中佐(>>563)、 歩兵第14連隊第3大隊大隊長吉松秀枝少佐(>>736)等々。
- 819 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 12:54:30.65 .net]
- >>817
「はじめに」で描かれた桐野利秋は颯爽としていたのにな。 しかし調べていくうちにバカだとわかったので、西南戦争が始まる頃には野村忍介を中心に書こうかという模索の跡が伺える。
- 820 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 14:51:30.84 .net]
- 【第一次高瀬会戦】(2/25)
午後4時、小天にいた薩軍・岩切喜次郎隊が(>>805)高瀬大橋を渡りはじめ乃木隊と戦いが始まった。 岩切隊は、迫間の乃木隊を圧倒して展開。熊本隊も伊倉(野部田山)から進んで菊池川を渡り、繁根木の乃木隊を攻めた。 乃木隊は後退したが、長谷川好道中佐の4個中隊が駆けつけて対抗。 増援の出現に熊本隊は迂回してこれを攻めようとしたが、察知され撃退されている。 戦闘は日没となって二時間あまりで終了。薩軍はは熊本隊は寺田山、岩切隊は伊倉へ撤退した。 seinan1877.zouri.jp/takase/takase1.JPG
- 821 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:00:21.44 .net]
- ☆ 野部田山
玉名市天水町野部田平 佐々友房の熊本隊は、この日は伊倉村ではなく野部田山まで後退していた。 https://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-bc-40/obabatorain/folder/1599163/10/65994510/img_0_m?1520717081 薩軍・岩切喜次郎隊のいた小天に近い。
- 822 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:08:11.26 .net]
- ☆ 岩切喜次郎
ネットよりも「翔ぶが如く」の方が詳細なので、小説から引用する。 はじめ近衛陸軍少尉であったが、ほどなく警視庁に転籍した。 明治6年の政変で警視庁を辞職し、鹿児島に帰って区長になった。37歳。 岩切四兄弟:喜之進→善次郎→勇之進→吉蔵
- 823 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:18:36.83 .net]
- 〈政府軍〉1,200
東京鎮台の歩兵第1連隊第3大隊 中隊長彦坂為一大尉(>>779・>>781) 木葉で大敗した小倉の歩兵第14連隊の敗残兵 〈肥薩軍〉 岩切隊600 佐々隊300
- 824 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:25:19.59 .net]
- ☆ 高瀬大橋
岩切隊が渡った高瀬大橋。画像はもちろん当時の橋ではない。 https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1960/1960080048.jpg
- 825 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:33:36.61 .net]
- ☆ 千田の渡し
佐々隊が菊池川の渡河に使った千田の渡し。 画像は昭和41年のものであるから、昭和41年はまだ現役だった。 この手の渡し船は、昭和40年代にはほぼ消滅した。 わたしが戻りたいのは渡し船があった昭和40年代であって、肥溜めのあった昭和40年代ではない。 https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1966/1966090004.jpg
- 826 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:39:21.24 .net]
- 敗残の乃木連隊は、迫間と繁根木にいたようだ。
☆ 迫間 玉名市両迫間……高瀬大橋を渡り右にある →岩切隊に撃破される ☆ 繁根木(はねぎ) 玉名市繁根木……高瀬大橋を渡り左にある →佐々隊に撃破される
- 827 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 15:50:27.94 .net]
- >>823
乃木隊の渡辺中尉との邂逅場面では中隊長彦坂為一大尉しか登場しなかったが。 高瀬の会戦には、直属上官である大隊長長谷川好道中佐も来ているようだな。 ☆ 長谷川好道 長州藩の支藩岩国藩の藩士の子。日露戦争では鴨緑江会戦・遼陽会戦などで善戦した。 明治37年に陸軍大将、同45年に参謀総長、大正5年に朝鮮総督に就任。 三・一独立運動を武力鎮圧した。 bunka.pref.yamaguchi.lg.jp/ishin/img/item_img/C02400342901J.jpg
- 828 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:33:18.35 .net]
- 政府軍は退却戦術をとった。自軍の長所である射撃戦に徹するためである。
☆ 立願寺村 玉名市立願寺 ☆ 岩崎原(ばる)玉名市岩崎
- 829 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:38:03.94 .net]
- 戦いたけなわの頃、大阪第8連隊の二個中隊400が南関から高瀬に到着した。
葛原山から射撃を始めた。
- 830 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:42:34.63 .net]
- 佐々友房隊が八幡山を奪取しようと動いたときに、大阪の歩兵第8連隊に阻止され、肥薩軍は退却した。
- 831 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 17:45:15.12 .net]
- ____
/ \ / ─ ─\ / (●) (●) \ 敗けてないじゃん、八連隊 | (__人__) | / ∩ノ ⊃ / ( \ / _ノ | | .\ “ /__| | \ /___ /
- 832 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/27(水) 20:11:58.74 .net]
- 八連隊に敗けるようでは、佐々友房にもヒーローの資質はない。
- 833 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:37:55.11 .net]
- >>827
小説では、翌日の第二次高瀬会戦のところで初めて名前が出てくる。 25日はいまだ南関にいるかのような書き方なんだが。
- 834 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:49:07.99 .net]
- >>833
第二次高瀬会戦は、前日の面子で戦われている。 桐野・篠原や長谷川好道が登場する大会戦は、2月27日の第三次高瀬会戦。
- 835 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:51:09.26 .net]
- 25日・26日の戦いは前哨戦。
27日の戦闘が兵数・戦死者数からいって高瀬の会戦と呼ぶにふさわしい本戦。
- 836 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 09:57:43.02 .net]
- ということで小説の流れとは離れてしまいますが、先に26日の第二次高瀬前哨戦について書きます。
小説の流れは、27日の第三次高瀬会戦の作戦計画について先に書いて、その途中に26日の第二戦を挟むという流れになっています。
- 837 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:10:47.48 .net]
- 【第二次高瀬会戦】(2/26)
26日早朝から政府軍の第2旅団は旅団本営を南関から高瀬の北の石貫まで移動し乃木隊を統合した。 さらに薩軍の展開が手薄とみて攻撃を決定し、約1,600の兵で菊池川を渡河する。 薩軍は川部田の越山休蔵隊(>>521・>>801の山部田・ここの川部田はともに玉名市にある地名)、 寺田山の佐々友房隊、伊倉の岩切喜次郎隊が迎え撃った。 seinan1877.zouri.jp/takase/takase2.JPG
- 838 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:14:50.09 .net]
- 迫間から菊池川を渡った乃木隊約500名は、薩軍・越山休蔵隊へ攻め込んだ。
越山隊は乃木隊のほかに知識中隊(近衛歩兵第1連隊第2大隊第2中隊の知識兼治大尉)の攻撃も受けて防ぎきれず、昼頃には木葉へ敗走する。
- 839 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:21:01.21 .net]
- さらに第2旅団本隊から約1,000の兵が菊池川を渡河する。二手に別れ熊本隊(佐々隊)・岩切隊各隊を攻撃した。
両軍は初め拮抗した戦いを繰り広げたが、越山休蔵隊を駆逐した知識兼治中隊が、熊本隊側面を攻撃しはじめた頃から薩軍は戦線を維持できなくなり、植木・伊倉方面へ撤退した。 本文に書かれている池辺吉十郎の熊本隊主力1,000が吉次越をこえて白木村に達したときの戦況は、以上のようなものである。
- 840 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:27:05.39 .net]
- 乃木隊は越山休蔵隊を追撃して木葉を抜け田原坂まで攻めた。
乃木は田原坂は戦略上重要と考えて、田原坂確保のための増援を第2旅団本営へ要請したが、 司令長官三好重臣少将は撤退命令を発し、乃木隊はやむなく撤退し、他の部隊とさらなる敵の来襲に備えて高瀬の守りを固めた。
- 841 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:27:53.53 .net]
- 三好少将は薩軍主力が後方に控える中で、高瀬〜田原坂までの広い地域に兵を分散させるにはまだ体勢不足と判断したものであろう。
しかし、三好少将のこの判断ミスが、田原坂で壮絶な激戦を呼ぶことになり、征討軍に苦戦を強いることになった。
- 842 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:30:46.19 .net]
- ___
/ \ / \ 乃木希典は、やればできる子 / ⌒ ⌒ \ | /// (__人__) /// | . (⌒) (⌒) ./ i\ /i ヽ
- 843 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:33:48.15 .net]
- >>841
判断ミスは言い過ぎ。 政府軍が少ない兵力で田原坂を占拠していたら、乃木は翌日戦死していたはず。
- 844 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:43:36.15 .net]
- ☆ 白木村
熊本県玉名郡玉東町白木 白木村は田原坂の西、木葉の南に位置する。 https://imgcache.its-mo.com/contents/KNK_ZPOI/00000000000003226193/003226193-1/003226193-1_im.jpg 池辺吉十郎の熊本隊主力1,000は吉次越をこえたが、政府軍はすでに菊池川以東に進出しており、白木村より西には進軍できなかった。
- 845 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:54:50.14 .net]
- ☆ 寺田山
玉名市に寺田という小字はあるが、寺田山は地図に載っていない。 地図をみると小さな丘陵らしきものはある。 画像に写っている山ではない。寺田のバス停の写真を貼りたかっただけだ。 pic4.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/2/0/4/2700000000000085402/0000003137/2700000000000085402_0000003137_8_s.jpg 寺田山は26日の戦闘前は、熊本佐々友房隊が陣地にしていたが、その日の午後には政府軍に奪われた。
- 846 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:57:46.34 .net]
- >>826
佐々友房隊が政府軍と戦った繁根木(はねぎ)の堤防の画像があった。 seinan1877.zouri.jp/takase/takasekawa.JPG
- 847 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 10:59:05.41 .net]
- おまえは玉名市民でも知らないようなローカルな小字の話をしているのがわかってんのか?
- 848 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 11:07:35.61 .net]
- ☆ 児玉強之助(>>521)
昨日の岩切喜次郎小隊長に代わって指揮を執る。 郷士隊である独立第二大隊の大隊長。 なお独立第一大隊の大隊長は越山休蔵(>>837)。
- 849 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 11:20:36.82 .net]
- >>847
大字は知っていて当たり前です。 調べる快感があるのは、小字です。
- 850 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 11:31:00.75 .net]
- 覚える気持ちがまったくないのは、平成時代に合併してできた市町村です。
- 851 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:25:23.25 .net]
- 【第三次高瀬会戦】(2/27)
☆ 南関(>>656) 第一旅団(野津鎮雄少将)・第二旅団(三好重臣少将)の本拠がある(>>776)。 朽ちた穂株しかない無愛想な冬田の風景(画像は南関の冬田ではない) 1.bp.blogspot.com/-vOALVNS-Uw0/Tw9m7V9OyKI/AAAAAAAAAyA/jj2SDhORIqM/s1600/P1130009.jpg
- 852 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:32:10.25 .net]
- ☆ 小岱山
標高501m。小岱山を西に越えれば宮崎八郎の故郷荒尾。 www.mt-club.net/mtlist/kumamoto/_src/sc20833/top.jpg api.e-map.ne.jp/jsapi/searchmap.v12/img/43.gif
- 853 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:38:56.14 .net]
- ☆ 正勝寺
南関にある真宗寺。 25日夜、野津鎮雄少将と三好重臣少将とが会同して作戦会議を開いた場所。 作戦方針は、高瀬・木葉を抜いて植木を占領すること。 img-cdn.jg.jugem.jp/16a/3266683/20150607_221586.jpg https://www.jalan.net/jalan/img/1/spot/0011/KL/43367ag2130011575_1.jpg
- 854 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:43:45.30 .net]
- 部隊編成は第二旅団を中心に行われた。
司令官:三好重臣少将 第一軍:高瀬→木葉→植木へ進出する主力軍 第二軍:玉名村で右折→川部田→木葉→植木 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/e/e4/Miyoshi_Shigeomi.jpg
- 855 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 12:57:03.38 .net]
- 〈第一軍〉
前駆:乃木希典少佐……第14連隊のうちの4個中隊 中軍:迫田鉄五郎大尉(第3大隊大隊長心得)……東京第一連隊のうちの2個中隊 後軍:大迫大尉・知識兼治大尉……近衛第一連隊のうちの4個中隊
- 856 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:00:16.78 .net]
- 近衛第一連隊の名簿からは大迫大尉の名前を見つけ出せなかった。
熊本城籠城軍のなかに同階級の大迫尚敏(なおはる)大尉がいるが、負傷しているので別人(>>565)。
- 857 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:03:11.47 .net]
- 〈第二軍〉
指揮官:長谷川好道中佐(>>827) 近衛第一連隊の2個中隊 大阪第八連隊の2個中隊
- 858 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:08:37.42 .net]
- 〈山鹿方面守備隊〉
第14連隊の津下弘少佐は、2月26日に「第一次鍋田の戦い」で薩軍の野村忍介隊(5個小隊)に敗れている(>>794・>>798)。
- 859 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 13:11:40.10 .net]
- 乃木希典の第一軍前駆は、石貫で宿営していた。
2月26日午前4時に高瀬に進出し、第二次高瀬会戦を起きる(>>837)。
- 860 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 14:01:41.01 .net]
- >>827
長谷川好道中佐は、南関にいたはずだ。 第一連隊第三大隊は、彦坂為一大尉が率いていた。
- 861 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 14:11:35.68 .net]
- >>789
「山鹿の戦い」を高瀬の会戦より前に、しかも独立した戦闘と受け取られるような書き方をしたのは失敗だったな。 高瀬の会戦の一環として生起した戦いだからな。
- 862 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 14:14:20.65 .net]
- 初読のとき電車で地図なしで読んでいたから、山鹿と高瀬はものすごく離れた場所にあると勘違いしていた。
司馬さんの書き方だと、双方の戦いは無関係に起きたような誤解を与えるね。
- 863 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:24:22.49 .net]
- 先に薩軍の勝利をまとめて描いて、後で薩軍の敗北をまとめて描いたんだよ。
勝利の相手はいずれも乃木の第14連隊。 高瀬の第三戦の大敗北の相手は、近衛第1連隊が核になった政府軍の大軍だった。
- 864 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:32:26.91 .net]
- 【三面合撃】
26日夕刻、薩軍幹部が率いる3部隊が熊本を進発した。 中央隊篠原国幹、右翼隊桐野利秋、左翼隊村田新八の率いる選りすぐった精鋭総勢2,800。 3隊長は高瀬の政府軍を三面から攻撃することを打ち合わせ、桐野隊は山鹿経由で高瀬北側より攻め、篠原が植木経由で高瀬の西から、吉次峠から伊倉へ抜ける村田隊は高瀬の南より攻める手はずであった。 高瀬の第2旅団は南関から後続の部隊も到着し、近衛第1連隊や大阪第8連隊を中核として総勢約4,000。 船島(高瀬の北)に旅団本営を進め、薩軍の攻撃に備えていた。 seinan1877.zouri.jp/takase/takase3.JPG
- 865 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:38:38.50 .net]
- ☆ 大窪
26日午後6時に熊本城下の出町を出発した薩軍3隊は、一時間後の大窪村で大休止した。 上記の作戦は、そこで立てられたものである。 現在は熊本市北区大窪。 https://www.daikyo-anabuki.co.jp/image/o/buy/photo/OAE13197.jpg
- 866 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:45:02.07 .net]
- 【山縣有朋】
☆ スナイドル銃 イギリスのエンフィールド造兵廠(RSAF)が、前装式ライフル銃であるエンフィールド銃を改造した後装式小銃である。 日本では蘭語読みで「スナイドル」と呼ばれるが、英語読みでは「スナイダー」で、これは機関部を考案したジェイコブ・スナイダー (Jacob Snider) の名に由来する。 日本陸軍が草創期から三十年式歩兵銃を制式とするまで使用し続けた小銃としても有名である。 img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170210_970252.jpg img-cdn.jg.jugem.jp/830/1205606/20170209_969998.jpg
- 867 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:49:41.21 .net]
- ☆ ミニエー銃
薩軍が主として用いた銃。 雷管式の前装式ライフル銃である。1849年にフランス陸軍のクロード=エティエンヌ・ミニエー大尉によって開発された。 従来使用されていたゲベール銃の銃身に改修を施す方法で製造された。 スナイドル銃と比較すると15年ほど昔の銃と思えばよい。 https://pbs.twimg.com/media/DlhkzRaUYAAqL8e.jpg
- 868 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 15:54:40.38 .net]
- ☆ 鳥尾小弥太中将
西南戦争では大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。 yugetuan.net/wp-content/uploads/2016/12/20140316_643017-192x300.png
- 869 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:02:10.53 .net]
- 明治10年における日本陸軍の常備兵力……32,000。
そこで士族を徴募して巡査にし、彼らを戦場へ送り込んだ。 その結果、西南戦争を通じての政府軍の総動員数……51,800。 ちなみに西南戦争を通じて政府軍が消費した小銃弾総数……34,893,500発。
- 870 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:08:59.65 .net]
- 〔西南戦争の参軍〕
陸軍卿 山縣有朋 https://pds.exblog.jp/pds/1/201303/16/92/a0287992_1615695.jpg 海軍大輔 川村純義 https://pds.exblog.jp/pds/1/201509/06/92/a0287992_1035477.jpg ちなみに明治10年当時の海軍の戦力は、 軍艦11隻、運送船14隻、士卒2,200。
- 871 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:13:24.79 .net]
- 山縣が陸軍の総指揮をするために博多に上陸したのは、2月25日である。
同日、三浦梧楼少将率いる第三旅団も博多に上陸している。 upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/1a/Goro_Miura.JPG
- 872 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/29(金) 16:20:26.09 .net]
- ☆ 旅団
師団と連隊の中間にある部隊の単位。旧日本陸軍では、二個あるいは四個の連隊で組織され、歩兵旅団、騎兵旅団、野砲兵旅団、重砲兵旅団などがあった。 戦術単位としては最大の部隊。 西南戦争の時期に作られた新語であるが、所定の地域に駐屯していれば「鎮台」、それが移動中であれば「旅団」という感覚で、厳密に兵数が決まっていたわけではない。
- 873 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 13:13:35.72 .net]
- 【2月27日】
☆ 近衛師団 明治新政府が樹立された当初、政府は独自の軍隊を保有しておらず、軍事的には薩摩藩、長州藩、土佐藩に依存する脆弱な体制であった。 そのため明治4年、政府は「天皇の警護」を名目に薩長土の3藩から約1万人の献兵を受け、政府直属の軍隊である御親兵を創設し、この軍事力を背景に「廃藩置県」を断行した。 この御親兵は、明治5年に初代近衛都督西郷隆盛を中心とした近衛兵として改組され、「天皇および宮城の守護」という任務が課せられた。 https://pbs.twimg.com/media/CSA4rPVUwAEuqnn.jpg
- 874 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 13:32:11.71 .net]
- >>722
三好重臣は、玉名村から偵察隊を出して、木葉山に登らせた(>>722)。 国見山、金毘羅山(>>733)、木葉山の位置関係。上が北です。 ▲ ▲ 金比羅山 味取 国見山 五両 ▲ 木葉山 境木 田原坂 木葉 植木
- 875 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:10:16.41 .net]
- 三好重臣少将は、菊池川に架かる高瀬大橋を破壊し、堤防に沿って、
東京第一連隊の二個中隊 大阪第八連隊の一個中隊 小倉第14連隊の一部 近衛第一連隊の四個中隊を配置した(>>855)。
- 876 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:17:16.72 .net]
- ☆ 向津留(むこうづる)
熊本県玉名市向津留 高瀬と向き合うようにして菊池川の東岸にある村。 篠原国幹隊の先鋒加世田弥八郎小隊がもっとも早く菊池川畔に到着した。 https://www.ekimae-r-e.co.jp/imgs/normal/55450188/.jpg https://www.ekimae-r-e.co.jp/imgs/normal/55450186/.jpg
- 877 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:27:51.62 .net]
- ☆ 加世田弥八郎
薩軍一番大隊二番小隊半隊長 薩軍の小隊は帝国陸軍の中隊に相当する。つまり歩兵四個小隊200名の兵力。 そこで「半隊長」という職を設け100名の兵を統率させている。
- 878 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:34:35.57 .net]
- ☆ 迫間(>>820)
三好重臣は、高瀬の2q上流にある迫間に砲床を築かせ、同時にそこを総指揮所にした。 三好は最前線で指揮をする豪胆な将であった。 迫間の対岸が川部田(>>837)。
- 879 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:44:32.52 .net]
- ☆ 坂元伸太郎(司馬は申太郎とする)
薩軍一番大隊四番小隊長。 川部田から迫間へ渡河しようと試みるが、逆に菊池川東岸に渡河した近衛第一連隊の知識兼治大尉(>>838・>>839・>>855)率いる中隊に敗れる。 坂元伸太郎は頭を撃ち抜かれて即死。
- 880 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 14:49:26.63 .net]
- ☆ 知識兼治大尉
昨日の高瀬第二戦から引き続き大活躍の知識兼治大尉であるが、歴史家・小説家の注目度は低い。 知識大尉は薩軍坂元小隊との戦闘で敵弾が太腿を貫通し、この負傷を契機に菊池川を再び渡河し迫間に退却した。
- 881 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 16:37:37.03 .net]
- 【桐野右翼隊】
薩軍の右翼隊は27日未明、山鹿から菊池川に沿って南下し、玉名付近の征討軍左翼を攻撃した。 桐野は、山鹿に10小隊を残置して3小隊(兵600)のみ率いて戦った。 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/18/18/58dbca20462334ade0b81be43bbedfd6.jpg 平川惟一(>>629)の協同隊は桐野隊の嚮導である。 https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/022/276/38/N000/000/033/148748996453668056178.jpg
- 882 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 16:53:34.26 .net]
- ☆ 内田の渡し
熊本県玉名郡菊水町内田。 山鹿市にも上内田・下内田があるが、本文に書かれた高瀬から12qの上流というと、菊水町の内田である。 桐野隊は、内田で菊池川を渡河し、政府軍と激突する。 5.travel-way.net/~niemon/kumamoto/kikusuimati/dotyu/arch2.jpg https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1961/1961110029.jpg
- 883 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 17:07:00.53 .net]
- ☆ 月田
熊本県玉名市月田 桐野隊は川沿いの道をそのまま南下して高瀬の戦場に向かった。 月田からは東西に山道が拓けていて、そこを進めば石貫村に出て、石貫村から南下すれば政府軍の背後を衝けた。 桐野は、その作戦をとらなかった。 ※バス停月田三差路 pic3.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/8/8/3/2700000000000085388/0000003137/2700000000000085388_0000003137_7.jpg pic1.homemate-research.com/pubuser1/pubuser_facility_img/8/8/3/2700000000000085388/0000003137/2700000000000085388_0000003137_6.jpg
- 884 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 17:13:40.70 .net]
- ☆ 青木村
熊本県玉名市青木 戦場になっている迫田のすぐ北。 桐野隊は青木で政府軍の哨戒兵と遭遇する。哨兵は桐野隊の接近を石貫村の参謀長野津道貫大佐に報告した。 https://stat.ameba.jp/user_images/20141018/03/tank-2012/ca/61/p/t01900266_0190026613101292149.png
- 885 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 17:34:46.51 .net]
- ☆ 稲荷山
午前10時頃、桐野率いる右翼隊は迂回して石貫にある征討軍の背後連絡線を攻撃した。 この時に第2旅団本営にたまたま居合わせた野津道貫大佐(第1旅団長の野津鎮雄少将の実弟)は旅団幹部と謀って増援を送るとともに、稲荷山の確保を命じた。 この山を占領した征討軍は何度も奪取を試みる薩軍右翼隊を瞰射して退けた。 稲荷山は低丘陵であるが、この地域の要衝であったので、ここをめぐる争奪戦は西南戦争の天王山ともいわれている。
- 886 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 17:52:35.96 .net]
- 堀新次郎……四番大隊一番小隊小隊長 →敵の背後へ迂回
別府九郎……二番大隊(村田大隊)十番小隊長 重久雄七……二番大隊(村田大隊)三番小隊長
- 887 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 17:59:20.11 .net]
- ☆ 遥拝宮(ようはいぐう)
玉名大神宮の別名。 菊池川右岸の玉名平野北側にあり、周辺は「元玉名」と呼ばれる。 天照大神、景行天皇、阿蘇の四神、玉依姫とその両親である菊池将監則隆夫妻を祭ってある。 日本書紀には、景行天皇が九州遠征の時に玉杵名の土蜘蛛を討伐した記事がある、社伝によると、その時地元勢力の中尾玉守が天皇軍に味方し、その功績により玉名大神宮の宮司になったと伝えられている。 https://www.city.tamana.lg.jp/pub/4147_filelib_5c0da8714d6af8e16f012fa564d22d0a.jpg
- 888 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 18:02:05.55 .net]
- 遥拝宮は乃木希典が守備していたが、桐野は別府九郎隊と重久雄七隊に遥拝宮を挟撃させ、乃木を敗走せしめた。
- 889 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 18:05:31.41 .net]
- ほんと乃木は弱いなwww
- 890 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 21:47:56.37 .net]
- 堀新次郎隊は、稲荷山の政府軍に敗けた。
- 891 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:00:38.19 .net]
- 堀新次郎隊の敗北により、桐野右翼軍は戦術的機能を失い、戦場に漂うだけの存在に堕ちた。
- 892 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:03:08.37 .net]
- 【村田左翼隊】
☆ 吉次越 西郷小兵衛小隊ほか三隊は、吉次越を通って菊池川流域に進出した。 木葉・田原坂・植木との位置関係 https://pbs.twimg.com/media/Dk2p46aV4AE8ThN.jpg https://jpreki.com/wp-content/uploads/2015/03/IMG_3980.jpg
- 893 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:23:02.16 .net]
- ☆ 西郷小兵衛
西南戦争に参加して薩軍第一大隊第一小隊長を務める。明治10年2月27日、肥後国高瀬河南の戦いにて官軍の銃弾を受けて戦死した。享年31。 https://pbs.twimg.com/media/Dqw6rbiUwAEaDkB.jpg
- 894 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:30:47.16 .net]
- ☆ 浅江直之進
一番大隊三番小隊長 諱は真誠。木留で戦没する。享年30。
- 895 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:35:21.59 .net]
- ☆ 相良吉之助
一番大隊六番小隊長 戊辰戦争では九番隊。九番隊は慶応四年五月六日朝に淀方面で有力な幕府軍と遭遇した。 激しい銃撃でたちまち一名が即死、四名が深傷を負わされた。 軍医高木兼寛は、これらの負傷者の応急手当をしながらも、指揮者の監軍「相良吉之助」と野崎平左衛門が少しもめげることなく兵を励まして突撃するのを眼にした。 隊員は銃砲火の中を番兵が追って進撃し、強力な砲台を占領することに成功した。 以上は、吉村昭著「白い航跡」から
- 896 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:39:28.50 .net]
- これら3小隊は、村田の命により、高瀬大橋から3q下流の大浜津から菊池川を渡った。
☆ 大浜津 玉名市大浜町 https://4.bp.blogspot.com/-afRI_E3Ixn0/Wy3n4xprkTI/AAAAAAAAySo/ao9Apnk1Ph0UXy3opngA5h-6U3Frnie8wCLcBGAs/s1600/20180623-%25E7%258E%2589%25E5%2590%258D%25E5%25B8%2582%25E5%25A4%25A7%25E6%25B5%259C%25E7%2594%25BA%2B01.JPG https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/1954/1954100024.jpg
- 897 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:46:12.40 .net]
- ☆ 岩崎原(ばる)
25日の高瀬第一戦で、政府軍が退却した地点名として登場した(>>828)。 玉名市岩崎 高瀬大橋を渡ると繁根木(はねぎ)の町がある(>>826)。 その西隣が岩崎原である。
- 898 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 22:51:16.46 .net]
- ☆ 観音丘
岩崎原にある小さな丘らしい。 西郷小兵衛ら三小隊は、観音丘を占拠して攻撃拠点にした。
- 899 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 23:03:26.87 .net]
- 三好重臣は大阪第8連隊のうちの一個大隊を岩崎原方面に向かわせたが、小兵衛らの3小隊は、これを追い散らした。
第8連隊は、繁根木村と永徳寺村を焼き払って、北方の南関街道や葛原山(こうずばる)をめざして逃げた。 葛原山は25日の高瀬第一戦で第8連隊が射撃拠点にした場所である(>>829)。位置は>>864の地図を参照せよ。
- 900 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 23:10:32.04 .net]
- ☆ 永徳寺
西郷小兵衛は、熊本城の攻撃に参加したあと、2月27日の高瀬攻略に加わり、相良吉之助、浅江直之進の小隊とともに下流の大浜津へ迂回、渡河して岩崎原の第八連隊を攻撃、西郷は右翼から衝いた。 官軍は繁根木に放火して、立願寺村の葛原山(こうずばる)へ退く。しかし第一連隊や近衛兵が応援に駆けつける。 近衛兵がいる繁根木八幡宮の崖下を潜行して読坂へ出た西郷隊の背後の三池往還に官軍が突出し、西郷隊は退路が断たれた。 2連発の愛用のピストルで応戦中、銃弾が飛来して西郷の左胸に当たる。 永徳寺の堤防に退避、焼け残った民家橋本鶴松方の雨戸を1枚借り受け、桃田・吉次峠を経て、北岡の西郷隆盛の本営に運ぶが、途中で絶命した。
- 901 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 23:17:21.57 .net]
- 近衛兵がいた繁根木八幡宮は、現在の熊本地方裁判所の南東にある。
img01.otemo-yan.net/usr/yumeko2/20100624_123053.jpg すぐ傍に、いだてん大河ドラマ館がある。 https://beautiful-world-kyushu.com/wp-content/uploads/2019/01/idaten_taiga.jpg https://www.city.tamana.lg.jp/pub/50828_filelib_7020e89e36c91abc75cdd8bb6a9fe884.JPG https://www.city.tamana.lg.jp/pub/50839_filelib_b3c10690d4f45ce48593ff8c2a3ac83c.JPG
- 902 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 23:22:37.74 .net]
- 永徳寺村は、高瀬大橋の南を走る鹿児島本線の鉄橋の南、菊池川の川沿いの町である。
被弾した小兵衛をまず永徳寺に退避させたのであって、永徳寺で絶命したのではない。
- 903 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 23:26:39.23 .net]
- 日テレ『田原坂』では西郷小兵衛の戦死場面を、乃木希典が双眼鏡で見ていた。
史実ではない。
- 904 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 23:28:30.06 .net]
- やりたくもない戦に駆り出されて、弟を殺されて、西郷も散々な目に遭っているな。
- 905 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/30(土) 23:35:06.90 .net]
- + . .. :.... .. .. .
+ .. . .. . +.. .. :.. __ .. .|: | .|: | .(二二X二二O |: | ..:+ .. ∧∧ |: | /⌒ヽ),_|; |,_,, さようなら 西郷小兵衛 _,_,_,_,,〜(,, );;;;:;:;;;;:::ヽ,、 君のことは忘れない・・・ "" """""""",, ""/; 安らかに眠れ "" ,,, """ ""/:;; "" ,,""""" /;;;::;;
- 906 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 00:00:37.67 .net]
- 【篠原中央隊】
六個小隊(1,200人)という最大兵力にもかかわらず、ついに菊池川を渡河できなかった。 高瀬大橋を政府軍が破壊することをまったく予想していなかったのが、こいつの阿呆なところ。
- 907 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 00:05:10.27 .net]
- 午後二時ごろになると、篠原の麾下1,200人が携帯していた銃弾がなくなった。
篠原はそれにより、自隊をまとめ、さっさと戦線を離脱してしまったのである。 この時期は、敵中に入りこんでいる桐野・村田両隊が、もっとも熾んに戦闘しているときだった。 彼らこそ、いい面の皮だった。敵中で置き去りにされてしまった。
- 908 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 00:07:47.65 .net]
- ________
/ \ / \ / /・\ /・\ \ / / \ / \ \ |  ̄ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ | | (__人__) | 弾がなくなったので 離脱しま〜す | \ | | ご冥福をお祈りしま〜す \ \ | / \ \_| / 篠原国幹陸軍少将
- 909 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 00:11:04.55 .net]
- 極端に無口な篠原は、思慮深い人物と勘違いされていたんだろうな。
実態は単なるバカだった。 司馬遼太郎は、「一種の愚人」と酷評している。
- 910 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 01:37:14.28 .net]
- 村田新八隊……政府軍に勝っていた。
篠原の退却により兵力と砲に余裕ができた政府軍は、村田隊を重囲。 村田隊は篠原隊に遅れること2時間半後の午後4時に伊倉へ退却した。
- 911 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 01:40:27.24 .net]
- 桐野利秋隊……村田隊よりも退却が遅れた。
あやうく全滅の危機 →山鹿へ退却
- 912 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 01:45:55.11 .net]
- ☆ 江田
玉名郡和水町江田 桐野隊が菊池川を渡河した地点 戦いの前に渡河した玉名郡菊水町内田(>>882)のやや南。 https://nagomicamp.com/access/img/img_slide_02.jpg ymg-aerialshoot.com/wp-content/uploads/2016/11/DJI01982.jpg https://www.iju-join.jp/chiikiokoshi_report_cont/no56/img/img1.jpg
- 913 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 01:52:22.81 .net]
- もう一度、熊本県の市町村のお勉強
api.e-map.ne.jp/jsapi/searchmap.v12/img/43.gif 荒尾市 南関町 和水町(なごみまち) 山鹿市 長洲町 玉名市 玉東町 熊本市北区(植木)
- 914 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 02:00:13.59 .net]
- 和水町(なごみまち)の風景というのは、文字通り和む。桃源郷のようだ。
userdisk.webry.biglobe.ne.jp/003/947/76/N000/000/020/uchidakawa08092601.jpg https://www.satofull.jp/town-nagomi-kumamoto/static/town-nagomi-kumamoto/packages/default/images/town/main.jpg ymg-aerialshoot.com/wp-content/uploads/2016/01/DJI00006.jpg https://www.iju-join.jp/chiikiokoshi_report_cont/no56/img/img3_l.jpg www.k-tourism.net/nagomi/img/top/kanakuri.jpg
- 915 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 02:02:00.65 .net]
- あのな、桐野隊はやっとのことで全滅を免れて敗走しているんだ。
なごんでいる場合じゃない。
- 916 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 02:17:55.67 .net]
- スミマセン
- 917 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 02:20:32.09 .net]
- ☆ 梯団
大兵団の移動などにあたり便宜上数個の部隊に分けた時の各部隊のこと
- 918 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 02:30:00.85 .net]
- 無口で顔つきだけが知性的なバカには注意しようね。
そんな奴と一緒に戦にゆけば、死んでしまうよ。
- 919 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 21:49:33.03 .net]
- 【田原坂・吉次越】
☆ 伊倉軍議 浅江直之進……再び高瀬を攻撃し小倉を占拠する説 →東京へ 篠原国幹……熊本城攻撃に絞り熊本城の武器弾薬と食糧を確保 →東京へ 村田新八……篠原の攻城・野戦二者択一論も現状では空論 →占領地を踏み固め補給を確実にする
- 920 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 21:55:48.07 .net]
- ☆ 浅江直之進(>>894)
近衛陸軍大尉だったが明治6年の政変で辞職。 鹿児島帰郷後は、鹿児島県警察の警部になり、中原尚雄(>>482)・高崎親章らを捕縛した。
- 921 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 21:59:51.88 .net]
- ☆ 2月28日
桐野は山鹿で昨夜の伊倉軍議の顛末を知る。 各大隊長を熊本本営に集め、正午頃、桐野も熊本城下へ到着する。
- 922 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 22:19:39.74 .net]
- ☆ 坪井の戦い(2月27日)
鎮台側には、司令官の谷干城少将、参謀長の樺山資紀中佐をはじめ、児玉源太郎少佐、川上操六少佐・奥保鞏少佐・小川又次大尉・大迫尚敏大尉など、後年の大物軍人が参加していた。 高瀬第三戦が行われた2月27日に、籠城軍は初めて城門を開き、坪井方面へ威力偵察部隊200を出した。 指揮は大迫尚敏(なおはる)大尉(>>565)。 日露戦争では、戦況が芳しくない旅順要塞攻略のため、大迫尚敏中将の第7師団が乃木希典大将の指揮する第3軍に組入れられ、二〇三高地の攻撃に当たった。
- 923 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 22:27:38.44 .net]
- ☆ 坪井
熊本城のすぐ北東にある。 佐々友房の生まれた町でもある(>>554)。 大迫大尉の部隊は草場学校(詳細は不明)の薩軍を挟撃したが、やがて撤退した。 https://bp.kumanichi.com/photo/media/photo/2004/2004100027.jpg
- 924 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 22:35:01.97 .net]
- 高瀬の会戦に参加しなかった薩軍の二つの大隊は何をしていたのですか?
- 925 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 22:42:06.45 .net]
- 池上四郎の五番大隊2,000は、熊本城攻囲戦を担当していました。
永山弥一郎の三番大隊1,200は、海上から政府軍が上陸することに備えて、百貫湊(熊本市西区 / 熊本城の真西の海岸)を中心に配置されていました。
- 926 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 22:52:59.84 .net]
- 西郷が本営としていた神主屋敷で軍議が始まった。
桐野はこの席上で薩軍の兵力不足と弾薬の不足が高瀬の敗因であることを認める。 桐野が鹿児島出発後はじめて述べた現実認識である。 西郷は後に桐野と口をきかなくなるが、桐野に対する悪感情はこの時に芽生えた。 それは桐野に対する憎悪というより、桐野に乗せられてしまった自分に対する嫌悪だったのかもしれない。
- 927 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 22:55:54.08 .net]
- 篠原の主張する熊本攻城集中論は、高瀬まで政府軍が進出している現在、意味をなさない空論であった。
篠原が今日生きているとすれば、偏差値40程度の天然ボケであるとしか言いようがない。
- 928 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 22:58:30.54 .net]
- 北上集中論も同様である。
北上経路は既に政府軍に押さえられている。 薩軍全軍で北上すれば、熊本籠城の鎮台兵が薩軍を追尾して挟撃されるだけである。
- 929 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:06:13.61 .net]
- 結局、元の攻城守野という二段構えの方針に戻った。ただし守野といっても防御線は縮まった。
北は桐野が山鹿を守り、北西は篠原と村田が田原坂・吉次越の瞼に拠って、政府軍の内線への侵入を防ぐというものだった。 高瀬の会戦の結果、薩軍は大きく退嬰防禦の方針へ転換した。 このようにして3月1日から3月31日まで、田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられることになる。
- 930 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:10:06.88 .net]
- 高瀬の会戦により西南の役は実質終了していた。
- 931 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:11:17.83 .net]
- これより先の西南戦争は、無意味な殺戮と消耗にすぎません。
- 932 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:15:24.42 .net]
- 西南の役は内乱であって国家間の戦争ではないですが、この段階で戦争終結にもってゆけない戦争指導者は、
兵にとっても庶民にとっても害悪としか言いようがないです。
- 933 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:19:33.94 .net]
- 近代・現代の政治家の戦争の止め方の下手くそさ加減を見ていると、
近現代の人間よりも、中世の人間の方が賢いのではないかと思ってしまうな。
- 934 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:23:14.88 .net]
- 戦の規模が中世と近代では大きく異なるだろう。
戦の規模が大きくなれば、組織で処理せざるを得なくなり、個人の意思が組織の意思に反映できなくなり、手詰まりになってしまうのよ。
- 935 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:26:52.43 .net]
- 世界史の教科書などで「アメリカはこのように考え、ドイツはこのように考えていた」という類の文章を読むと、
具体的にいうと、それはいったい誰が考えていたのですか?と質問したくなるよな。
- 936 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:28:04.01 .net]
- 「政府としてはこのように考えています」という類の発言も同様。
それはいったい誰が?と尋ねたくなる。
- 937 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:37:54.94 .net]
- 脱線しているぞ。次章は「野の光景」だ。
- 938 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:46:12.50 .net]
- >>929
田原坂・吉次峠の戦いと並行して行われた山鹿の戦いは、2月26日から3月21日までの24日間(>>789)。
- 939 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:56:44.80 .net]
- >>909
現代の戦術眼で篠原の行動を観察するから、そのような篠原評価になる。 高瀬の戦いに参加した薩軍の将兵の誰一人として篠原を非難していないところから考えると、 篠原の行動は少なくとも薩軍将兵にとっては常識的な行動だったのだろう。
- 940 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/03/31(日) 23:58:52.10 .net]
- 「死を懼れる者は士に非ず」という倫理が厳然として存在していたのだ。
補給の観念は山縣が西欧から導入した新思想。
- 941 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 00:01:40.54 .net]
- 明治に導入された新思想は、昭和になると風化したがな。
- 942 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 11:45:18.50 .net]
- >>688
「令和」の出典も万葉集。万葉集最強。
- 943 名前:野の光景 mailto:sage [2019/04/01(月) 12:59:58.36 .net]
- 【高瀬】
戦いが始まると人々は家財を背負ったり荷車に積んで山へ逃げたり、寄辺を頼って遠い里へ避難したりした。 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/78/d64c175cc099cecab3f320553a7fadf3.jpg https://orch.c.blog.so-net.ne.jp/_images/blog/_a95/ORCH/s-017-6f668.jpg
- 944 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 13:05:44.46 .net]
- 薩軍には護民思想があったが、官軍には皆無だった。
官軍は民家が敵の砦になることを防ぐために、平然と民家に放火した。 知識兼治大尉(>>880)の中隊も、川部田から退却するときに民家に放火している。
- 945 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 13:06:30.19 .net]
- 知識大尉のヒーロー指数が若干低下しました。
- 946 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 13:11:58.19 .net]
- 村田新八隊が菊池川を渡り政府軍に突入したときも、政府軍は繁根木村に放火して退却した。
この火が高瀬の南西部の民家をすべて焼き払い、高瀬の町は灰燼に帰してしまった。 https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/422/32/N000/000/000/130319508113716412414_IMG_9547.jpg
- 947 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 13:18:24.17 .net]
- 【熊本】
石光真清(まきよ)の自伝『城下の人』に、西南戦争当時の熊本城下の様子が書かれている。 真清は当時10歳で小学校に在学していた。 彼は大胆にも前線指揮所へ行き、村田新八や池上四郎に声をかけてもらっている。 jalsha.cside8.com/pont_au_courage/2011/01/27/makiyo1.jpg
- 948 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 13:23:32.57 .net]
- 真清の父のつぶやきが印象に残る。
「五十四万石のご城下もこれで終わりだ。あのゴジラが最後の一匹だとは思えない」 https://pbs.twimg.com/media/ByPlwkZCAAESDL5.jpg
- 949 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 13:28:14.36 .net]
- 【高瀬】
高瀬の会戦は終わったが、避難民は集落が焼野原になったため戻る場所がなかった。 それでも人々は薩兵をさほど恨まず、むしろ薩軍の勝利を願う者が多かった。 薩軍が勝てば年貢は無しになるという期待が一般にはあった。
- 950 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 17:33:22.25 .net]
- 【山鹿千軒】
☆ 岩野川 菊池川の支流で北から流れてきて山鹿で菊池川と合流する。 https://www.kumamoto-sskk.jp/water/img/28.jpg 岩野川に沿った南北の街道が豊前街道(山鹿街道)である(>>791)。現在の国道3号線。 なお菊池川沿いの東西の街道は、西へ行くと南関に通じている。今日の国道443号線である。 山鹿温泉については>>790に書いた。
- 951 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 17:39:59.32 .net]
- ☆ 桜井屋
熊本協同隊の本営が置かれた旅籠。 山鹿は大きな宿場であったので飯盛女(遊女)が多数いた。 そのため山鹿の薩軍兵士の間で淋病と梅毒が瀰漫した。 https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/72/Shinyanagi-Yukaku_prostitutes_and_customers.JPG
- 952 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 17:50:08.53 .net]
- 【阿蘇一揆】
☆ 戸長 明治時代前期に区・町・村に設置された行政事務の責任者のこと。 明治4年に戸籍法が制定された際に、7・8ヶ村を「区」と呼ばれる単位に編成して戸籍を区単位で管理することとした。 各区にはその責任者として戸長・副戸長が置かれた。
- 953 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 17:52:39.00 .net]
- 明治5年4月の太政官布告によって、旧来の庄屋・名主などの村役人の呼称を廃止して、戸長・副戸長と呼ぶこととなった。
だが、従来の「区」との関連付けが不十分であったために、同年11月に旧来の郡・町・村の行政区分を廃して「大区小区制」を導入し、 大区に区長、小区に戸長・副戸長を設置することとして、戸長・副戸長は戸籍の管理のみならず、明治政府による行政政策の実施にあたるようになった。
- 954 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 17:54:28.57 .net]
- 明治11年の郡区町村編制法では、旧来の郡・町・村を復活させ、各町村ごとに民選の戸長を選出することとし、戸長が行政事務を行うための戸長役場も設置されることになった。
戸長はかつての庄屋・名主層などの名望家から選出される場合が多かった。 また、その職掌は戸籍の管理と並んで、地券管理・国税徴税・義務教育・徴兵事務・布告布達の伝達・水利土木厚生等公共事業の施工などに及んだ。 戸長は政府の地方官(旧来の代官)としての側面と旧来の村役人としての性格を並存させており、その矛盾は戸長が自由民権運動の指導者となる形で現れることになった。
- 955 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 17:56:12.01 .net]
- 明治17年5月、政府は戸長制度の改革を行い、戸長を知事の任命による「官選】に切り替えて、平均5町村500戸に戸長1名を置く制度に変更した。
これによって政府の国策に忠実な行政官を戸長に任命することが可能になったが、一方で戸長の給与を改善して既存の戸長を政府側に取り込む措置も図られた。 明治22年の市制・町村制の導入によって廃止された。
- 956 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/01(月) 18:07:35.20 .net]
- 司馬さんは明治10年以前にも官選戸長がいたように書かれているが、一部の地方に留まるか、あるいは誤りではあるまいか。
>>955で述べたように、官選戸長が法制化されたのは、小説の時期よりも7年後の明治17年である。
- 957 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 08:56:56.59 .net]
- ☆ 小学校
学制は学校を設立し学校制度を運営する機構として学区制を採用した。 それによると全国を8大学区に分け、さらに各大学を32の中学区、各中学区を210の小学区に分け、それぞれに大学校・中学校・小学校を各1校設けることとした。 小学区は人口約600人を基準とし、ここに小学校1校を設けるものとしている。 小学校の設立・維持には多額の経費を必要とし、学制の実施に当たってこれが重大な問題であった。 ところがそのための国庫補助金がきわめて少額であり、大部分を「民費」により、地方住民の負担であった。
- 958 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 09:01:27.58 .net]
- ☆ 黒流村
熊本県阿蘇市黒流町 和水町 山鹿市 菊池市 阿蘇市 www.fukushi-kumamoto.or.jp/48syakyou/images/48map.gif
- 959 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 09:18:54.70 .net]
- ☆ 高木彦太郎
副戸長
- 960 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 09:23:36.21 .net]
- ☆ 小野田村
熊本県阿蘇市小野田
- 961 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 10:46:28.19 .net]
- >>926
>西郷が本営としていた神主屋敷 北岡神社の神官光永大膳宅。 北岡神社は天元2年(979)に京都の祇園社(八坂神社)を勧請して創建された。もとは京都と同じく祇園社と呼ばれ花岡山の上にあった(>>631)。 正保4年(1647)現在地に移され(熊本市西区春日)、肥後国府のあった二本木の北に位置することから北岡神社と改名された。 sirdaizine.com/travel/images/Hanaokayama1/0007.jpg 西郷隆盛先生本営碑 sirdaizine.com/travel/images/Hanaokayama1/0010.jpg
- 962 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 11:14:33.29 .net]
- 西南戦争とほぼ時期を同じくして熊本・大分・長崎の農民は一揆を起こした。これらの農民一揆は巨大な西南戦争の影に隠れてあまり知られてない。
しかし一揆に参加し改定律例で処罰された農民5万人余りという数字は、西郷軍に加わり国事犯に問われた薩軍方兵士4万数千人を上回った。 熊本県内の農民一揆は明治9年末ごろからその兆しが見え、翌年1月下旬には現在の玉名・鹿本・菊池など県北部で高揚した。 これに対し、県は1月23日、集会禁止の布達を出したが、地租改正費や民費の取り扱いに関する疑惑などから戸長・用掛など小区の役人に対する集団交渉がくり返されていた。
- 963 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 11:18:50.74 .net]
- この集会禁止の布達に対して、農民は傍聴と称して、なお多人数の集会が後を絶たなかった。
そのため県は1月27日、再び集会禁止令を出した。 これに対抗して農民たちは兎狩りと称してなおも集会を開いていたので、県は2月2日「多人数会合兎狩等致シ候儀当分差扣可申」と兎狩禁止令を発令した。 数度にわたる集会禁止令を乗り越えて農民たちは粘り強く運動を続けた。
- 964 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 11:20:15.34 .net]
- 民権党が指導した県北部の戸長征伐は、2月下旬、西南戦争開戦前に鎮まった。
民権党の党員が西郷軍に兵士として参加したためである。 ところが、2月下旬から3月にかけて阿蘇郡で大規模な打ちこわしが起こり、同時に上下益城、宇土、八代など県南部で一揆が沸騰、3月下旬から4月にかけて天草で軍夫徴用拒否の一揆が展開された。 明治10年の農民一揆は、最大の士族反乱である西南戦争の状況とかかわりながら展開し、沈静化していった。
- 965 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 12:07:43.07 .net]
- ☆ 熊本県の郡
玉名郡 鹿本郡 菊池郡 阿蘇郡 宇土郡 下益城郡 上益城郡 天草郡 八代郡 葦北郡 球磨郡 https://technocco.jp/n_map/0430kumamoto/kumamoto2_e.png
- 966 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 13:00:16.02 .net]
- ☆ 市原勇次郎
明治10年1月9日小国下城に端を発した阿蘇一揆は、2月末日阿蘇谷にくだり、内牧浄信寺において気勢を上げ、3月1日には坂梨地区に潮の如くおし寄せた。 その数3,000はくだるまいと思われる。赤ン坊をとりのこして外輪山中に逃げた母親もあったくらいだから、その狼敗の程もうかがわれようというもの(古閑の高木ヒサエ談)。 この年、一揆がひとまず鎮まった時、お茶屋新宅の市原勇次郎は、時の県令富岡敬明(よしあき)宛に被害状況を報告した(>>566)。 目録の末尾に「右は本年三月一日党民暴挙の節、打ちこわされ侯 概略、前件の通りに御座候 この段お届け仕り候事 明治十年丁丑四月三十日第十一大区三小区坂梨村千四百拾弐番地 士族 市原勇次郎」とある。
- 967 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 13:04:27.02 .net]
- 徳川期の農村自治
庄屋などの村役人は、給料をもらっていたわけではなく、むしろ持ち出しである場合が多かった。 この点が、明治の戸長との違いである。
- 968 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 13:13:28.90 .net]
- 【野満長太郎】
☆ 古閑(こが) 熊本県山鹿市古閑 山鹿市の中心部から2q東。郷士野満長太郎の生まれた土地。
- 969 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 13:16:05.10 .net]
- 古閑は現在の地名であって、長太郎が生まれた頃は、山鹿白石村といったんだよ。
- 970 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 13:21:44.73 .net]
- ☆ 野満長太郎
野満長太郎は、沈毅にして胆略があった。 協同隊の幹部として各地を転戦したが、8月17日、薩軍の解体宣言を受けて降伏した。 投獄されたが、二年余にして放免され、爾来郷党の指導者として推重された。 野満安親・富記兄弟のいとこ(>>630・>>652)。
- 971 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 13:28:17.95 .net]
- ☆ 野満安親・富記兄弟(苗字に誤字があったのでやり直し)
野満安親と富記兄弟は、従兄弟長太郎とともに植木学校に学び、自由民権思想の宣揚に尽瘁した。 明治10年2月、薩軍が起つや、一同集まって参戦の是非を協議したが、議論百出する中、死を賭けた野満安親の一声で参戦が決まり協同隊が結成された。 2月22日、熊本城総攻撃が始まると、野満安親・富記の兄弟は、まっさきに城壁に取り付き奮戦。 「我らの死にざまを見よ」と叫ぶと、兄弟互いにその名を連呼しつつ、弾丸雨中の中、壮烈な戦死を遂げた(>>652)。 https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/00/76/08f8d0d8f03e2b0ec162fae2a14858bb.jpg 野満安親 野満富記 墓
- 972 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 17:32:41.95 .net]
- 西南の役が始まる前より、山鹿の地では「戸長征伐」の問題が取沙汰されていた。
戸長は明治政府により徴税官的な役割を担わされており、民集の不満が高まり、戸長を民選にすることを求めて、明治10年1月28日、山鹿の光専寺で一万以上の人民大集会が開かれた。 この翌日は鹿児島私学校が暴発した日であったが(>>522)、薩軍の進行とともに、熊本県全域に一種の無政府状態が生れ、山鹿で「民権」政治が行われることになった。
- 973 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:11:00.47 .net]
- ☆ 光専寺
天正6年(1578)創建。熊本城築城の際、余った材木で作られた桜門を構える。 歴史の舞台に度々登場するこのお寺、明治10年の西南の役では薩軍の野戦病院となった。 https://yamaga-tanbou.jp/wp-content/uploads/2018/07/B1C5195.jpg
- 974 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:17:05.62 .net]
- 熊本民権党は他地方の自由民権運動と比べると本物に近い匂いがあった。
そんな彼らですら、薩摩士族が西郷を擁して起ったとなると、農民一揆を半ば置き捨てにして、薩軍に兵士として参加した。 農民の側に立ちつつも、なお士族としての血の騒ぎのほうが強かったのであろう。
- 975 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:20:50.40 .net]
- 高瀬の第三戦が行われた2月27日には、阿蘇一帯で大規模な一揆が起こっている。
もし協同隊が一揆を組織して薩軍と連携していれば、政府軍は窮地に陥ったであろうが、 護民思想の強い薩軍でさえ、百姓はあくまで支配するもので、士族たるものが百姓の力を借りるなどは、 考えただけで身震いするような違和感があった。
- 976 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:21:40.00 .net]
- 協同隊は、この日、なにをしていたのですか?
- 977 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:23:15.61 .net]
- 桐野右翼隊にいて菊池川を渡り政府軍と戦っていました(>>881)。
- 978 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:24:54.04 .net]
- 士族がアカになれるはずがない。
- 979 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:38:04.37 .net]
- 野満長太郎が山鹿の民政官になることを思いついたのは、高瀬の第三戦が終わって山鹿に引き揚げた後だった。
なお、宮崎八郎は薩軍本営(>>961)そばの寄合所で、薩軍との連絡に当たっていた。高瀬の会戦には参加していない。
- 980 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:39:40.55 .net]
- チンポ八郎は、毎日お浪とセックス三昧です。
- 981 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:48:24.33 .net]
- ☆ 淵辺群平
天保11年(1840年)鹿児島高麗町で生まれる。 徳田小藤次邑興が薩摩に伝えた兵学合伝流を伊地知正治から学び、軍略に長じていた。 明治10年3月、鹿児島へ帰り、弾薬をつくり、新兵を募集し、鹿児島の守備を固めるなど後備につとめた。 4月、別府晋介・辺見十郎太とともに新募の2大隊1500名を率いて北上した。 淵辺は神瀬に本営を置き、人吉を経て八代方面へ向かい、政府軍の背面を衝いた別府・辺見を応援したが、薩軍が川尻戦に敗れ熊本城の囲みを解くに及び、人吉に退却した。 4月21日、淵辺は鵬翼隊大隊長となり、戦線を立て直して大野方面で戦った。 5月30日、淵辺は人吉の危急を聞き、河野主一郎とともに救援に赴いたが、政府軍の勢いの止めがたきを見て球磨川に架かる橋を焼き落とそうしたとき、銃撃を受けて重傷を負い、後送された吉田で帰らぬ人となった。享年38。 https://pbs.twimg.com/media/B8A7EFvCYAAGB-q.jpg
- 982 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:51:18.77 .net]
- 野満長太郎は、山鹿において、普通選挙により数名の人民総代を選出し自治を行わせた。
- 983 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:56:20.87 .net]
- ☆ 大森惣作
山鹿の造り酒屋の一門。 熊本協同隊とは、明治10年の西南の役の際、西郷軍に呼応して、熊本の保田窪神社で挙兵した集団です。 山鹿の大森惣作が軍資金を出し、植木学校の参加者を中心に、平川惟一・宮崎八郎・山鹿の野満兄弟等によって挙兵した。 彼らは、西郷軍と同じ思想ではなく、ルソーの民約論に基づいた政府の樹立を考えており、最終的には、西郷隆盛とも対決する覚悟をもっていたといわれる。
- 984 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 18:58:51.41 .net]
- 協同隊の兵数も増えているな。
保田窪神社(>>620)で挙兵したときは40余名だったが、山鹿民権政治時代には300〜400に増えている。
- 985 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:01:24.24 .net]
- 占領地域の戸長・副戸長で県費を保管している者があると、協同隊は押しかけていって彼らを斬殺しカネを奪った。
- 986 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:02:31.22 .net]
- 協同隊にはならず者もまじっていたからな。
- 987 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:03:31.97 .net]
- アカ=ならず者
- 988 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:09:27.80 .net]
- >>974
本物の民権派は人殺しをするから怖いよ。 官職にありつきたくて民権派を装っていた連中のほうが、まだ人間としてまともだよ。
- 989 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:18:50.27 .net]
- ☆ 安藤維
協同隊輜重長。士族。 戦後、九州臨時裁判所で、渡辺戸長ほか三名を斬殺せしむる科(とが)により懲役10年の刑に処せられている。
- 990 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:43:34.64 .net]
- 「人民」という文字には、人殺しのイメージしかない。
国民主権はしっくりするが、人民主権だと「みんなで人殺しになるのか?」というイメージだな。
- 991 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:46:15.18 .net]
- 次スレの冒頭から田原坂をやろうと思っていたのだが、少しペースが遅かった。
あと少し西南戦争が他地域に及ぼした影響について語らねばならない。
- 992 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:50:37.08 .net]
- 『箱根の坂』って読んでためになりますか?
- 993 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/02(火) 19:51:23.73 .net]
- そんなこと他人に訊くな。
まず読んでからだ。
- 994 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2019/04/03(水) 14:51:11.77 .net]
- 次スレ
大河ドラマになった若しくはしてほしい司馬遼太郎作品 Part14 https://nhk2.5ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1554270531/ 日本史板に立てられなかったので、大河ドラマ板に立てた。
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