- 1 名前:日本@名無史さん [2005/12/27(火) 06:52:57 ]
- つぐのすけだろ
日テレきもい
- 212 名前:日本@名無史さん [2006/10/16(月) 06:01:58 ]
- 「犬死にする覚悟はあるか」ってのは脚色?
- 213 名前:日本@名無史さん [2006/10/20(金) 22:42:14 ]
- 長岡まちめぐりミュージアム
www.e-machi.city.nagaoka.niigata.jp/
- 214 名前:日本@名無史さん [2006/10/24(火) 18:20:22 ]
- 継之助が明治維新のメンバーに入れたとしたら
大久保の独裁はなかったろうな
- 215 名前:日本@名無史さん [2006/10/24(火) 22:01:08 ]
- 揉めて即効辞めてそうだけどな
- 216 名前:日本@名無史さん [2006/10/24(火) 23:21:25 ]
- >>214
大久保の独裁の代わりに河井の独裁か。 まぁ教養が低くて客観的情報・大局観に欠けた民衆による民主政治はどっちみち無理だし。 しかし人脈スキルに幾多の政争経験からして、河井では大久保には太刀打ち出来ぬ。
- 217 名前:日本@名無史さん [2006/11/15(水) 23:42:01 ]
- 江藤とか小栗とともに善政を行ったいたかも
- 218 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/11/17(金) 21:16:27 ]
- ありえん、薩摩隼人に暗殺されんのがおち
幕府がわなら、水戸藩士に暗殺 キャラ強すぎ、行動力ありすぎ
- 219 名前:日本@名無史さん [2006/11/17(金) 21:59:38 ]
- 長岡藩って水戸藩と因縁深いですね。
最後の戦いも水戸藩内だったし
- 220 名前:日本@名無史さん [2006/11/18(土) 07:23:19 ]
- 戦争はしてはならんでや
- 221 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2006/11/18(土) 07:43:17 ]
- ガトリング家老は政治をもうやらんだろう。
渋沢と同じ経済界で食って、回顧録を書いて70で死にますた。 ってところ。
- 222 名前:日本@名無史さん [2006/11/20(月) 02:00:28 ]
- 「峠」は名作だな
- 223 名前:日本@名無史さん [2006/11/23(木) 09:40:18 ]
- >>222
長岡行って来い 感動するよ
- 224 名前:日本@名無史さん [2006/11/23(木) 10:03:45 ]
- >>223
行って来たぞ。長岡はいい町だ。酒もうまいし。 ついでにキチガイのような河井ファンもいなかったので よかったw
- 225 名前:日本@名無史さん [2006/11/23(木) 11:15:54 ]
- 歴史館の軍扇はガチ
- 226 名前:日本@名無史さん [2006/12/23(土) 00:31:40 ]
- 俺もいつか長岡逝きたいなぁ
- 227 名前:日本@名無史さん [2006/12/24(日) 13:33:27 ]
- 27日に長岡の河井継之助記念館行く奴いる?
- 228 名前:日本@名無史さん [2006/12/24(日) 13:55:48 ]
- 規模が気になるな。
- 229 名前:日本@名無史さん [2006/12/25(月) 15:19:36 ]
- 峠以外に河井主人公の名作ない?
- 230 名前:日本@名無史さん [2006/12/26(火) 17:46:56 ]
- 明日記念館開館っつーから行ってこようかなと思ったけど雨かぁ。
あさっての雪とどっちがマシかな・・・ 答えて長岡な人。
- 231 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 17:48:26 ]
- 過疎っているのでやってきましたよ。
長岡は明日から雪っぽいね。
- 232 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 18:32:32 ]
- 慈眼寺の会談の間は中越地震で壊滅的打撃を受けたけど有志によって復旧された
河合継之助が慈眼寺会談の後で飯を食べた料亭は今も存在する 当然、予約を入れて金さえ払えば食事をすることができる
- 233 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 18:34:55 ]
- 旧宅跡はどうなっているのかなあ?
平凡社、『塵壺』また出版してくれんかなあ。
- 234 名前:日本@名無史さん [2006/12/28(木) 19:37:16 ]
- 旧邸宅って河井継之助記念館のこと?
ほぼ当時の状態を現存して見学できるよ。
- 235 名前:日本@名無史さん [2006/12/29(金) 20:47:37 ]
- 31日まで無料。
【新潟】河井継之助記念館オープン 俳優、中村勘三郎さんも駆けつける 31日まで無料開放…長岡 news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1167275119/ 雪は降ってるけど 駅から近いのでそんなに大変じゃないでしょう
- 236 名前:日本@名無史さん [2006/12/30(土) 00:57:01 ]
- 河井継之助記念館が開館
長岡の生家跡遺品やパネルなど展示 幕末の長岡藩家老・河井継之助(1827〜68年)の生涯を遺品やパネルなどで紹介する「河井継之助記念館」が27日、長岡市長町の生家跡でオープンした。市制100周年を記念し、長岡市が生家跡にあった住宅を記念館に改修した。31日まで無料で公開される。 司馬遼太郎の小説「峠」の主人公として知られる河井。藩財政の建て直しや兵制の近代化に尽力をしたが、戊辰戦争で奥羽越列藩同盟軍を指揮し、薩摩・長州藩率いる官軍に敗れた。 記念館には、河井唯一の著書とされる日記「塵壺(ちりつぼ)」の原本や当時身につけた蓑(みの)など32点を展示。親友の藩医・小山良運に送った河井の書簡も北越銀行から市に寄贈され、展示された。 開館式には、テレビドラマで河井役を演じた歌舞伎俳優中村勘三郎さんも駆けつけ、河井が国内で最初に使ったとされる「ガトリング砲」の原寸大模型を見て「テレビで使ったやつより立派」と感心しきり。 河井のひ孫にあたる東京都目黒区、会社員河井弘安さん(44)は「(河井は)長岡をよくしようと知恵を絞った。記念館が長岡の将来を考えるきっかけになればうれしい」と話した。 年内は午前10時〜午後4時。1月1〜4日は休館で、5日以降は午後5時まで。入館料大人200円、大高生150円、小中生100円。問い合わせは記念館(0258・30・1525)へ。 (2006年12月28日 読売新聞) ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/niigata/news001.htm >河井のひ孫にあたる東京都目黒区、会社員河井弘安さん この記事中の「ひ孫」という表現は合ってる? 河井家を継いだ森茂樹は、河井継之助の姪の子供だから河井家の血は流れているけど、 河井のひ孫ではないよな?
- 237 名前:日本@名無史さん [2006/12/30(土) 06:21:28 ]
- 15年くらい前に、奥只見の記念館に行ったけど、
それより大きいですか?
- 238 名前:日本@名無史さん [2006/12/30(土) 19:27:03 ]
- 「峠」また読んだ。「竜馬がゆく」より名作かもな
- 239 名前:日本@名無史さん [2007/01/02(火) 01:17:49 ]
- もう一つの答えとして、西軍に降伏した場合のことを考えてみよう。
降伏した場合、それは直ちに西軍への従軍、会津征討の先鋒を勤める事になる。 長岡領内は、西軍と同盟軍(精強を歌われた庄内の酒井家などが中心)とが激突する戦場になる。 仮に西軍に降伏して勝利を収めたとしても、出羽久保田の佐竹家の例もある。 佐竹家は慶応四年の7月4日に戦況が互角の時期に西軍の誘いに乗る形で同盟を離脱して、西軍に 参加。津軽家を始め、8つの大名家が佐竹家を支持し、奥羽戦線での西軍の勝利に一役買っている。 明治元年の太政官日誌では、「戊辰兵火焼失届」と「出兵人員及び死傷者調」が佐竹家から出ている。 これによると、佐竹家では領地の75%を同盟軍(酒井家や伊達家・南部家)に占領され、民家の総数 17085戸の内4684戸が焼失した。(戊辰戦争で長岡牧野家が失った戸数は、3598戸) 敗走する西軍(援軍としてきた鍋島家や、島津家など)や進攻する同盟軍の手で田畑は荒れ果てた。
- 240 名前:日本@名無史さん [2007/01/02(火) 01:42:14 ]
- 金がなかったので、戦費として、イギリス商人のオールトから借金として
50万両を含む約160万両が借金として残った。この中には軍艦2隻(陽春・高雄)とエンフィールド銃3000挺と弾薬が含まれる。 兵士と軍夫あわせて8698人が戦場に投入され、戦死者329人、負傷者316人、合計645人。(戊辰戦争で長岡牧野家の犠牲者は、従軍者約1300人、戦死者309人、負傷者289人) 行き詰まる財政と荒廃した領内を立て直すため、太政官に50万両の下付を願い出たが、財政難を理由に下付されたのは20万両。また、太政官の戦後行政と欧化政策に反発する形で、 家臣団の中から大参事の初岡敬治が諸国の不満分子と一緒に太政官転覆運動に身を投じて、明治4年の「国事犯事件」で処罰された。(初岡自身は処刑された。) 太政官からは、「難治県」と呼ばれ、廃藩置県後に県令として赴任した島義勇に20年は遅れていると馬鹿にされるのである。
- 241 名前:日本@名無史さん [2007/01/02(火) 02:25:58 ]
- まあ、蛇足になるけど、酒井家側の資料(戊辰庄内戦争録)では、負け続ける佐竹家の戦死体は、領民たちの手によって、身包み剥がされて素っ裸で、雄物川に捨てられたとあります。
会津松平家にも、似たような話があると聞きます。また、出羽新庄の戸沢家の領民などは、西軍と同盟軍の戦いを弁当を持参して、負けた戸沢家家臣団に罵声を浴びせて見物していたと聞きます。 当時の民衆というのは、公平な裁判と公平な税制さえ行われていれば、支配者は天皇だろうが、将軍だろうが誰でもいいんじゃないの?
- 242 名前:日本@名無史さん [2007/01/05(金) 19:07:00 ]
- 河井継之助記念館大晦日に行ってきました。
規模は小さかったけど面白かった。 また行って、もっと細かく見てこようと思う・・・
- 243 名前:日本@名無史さん [2007/01/07(日) 00:11:08 ]
- 今日、白虎隊実況スレで記念館ができると聞いてきますた。
こりゃさすがに逝かないとな。
- 244 名前:日本@名無史さん [2007/01/07(日) 23:43:00 ]
- ×ガトリング家老
○カトリング餓狼 ×ガトリング砲 ○餓式機関砲
- 245 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 02:12:22 ]
- 峠>竜馬がゆく
だと思ってます。
- 246 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 08:18:20 ]
- 去年、大雪で困ってる人が居ると聞いた瞬間高速バスの手配して雪下ろしに行きましたが、
これが知行合一でしょうか河井執政
- 247 名前:OPS mailto:CEII [2007/01/08(月) 09:55:36 ]
- 竜馬がゆくより名作なんですか峠は?
- 248 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 16:27:19 ]
- >>247
好みもありましょうな。
- 249 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 17:04:16 ]
- >>229
司馬の短編で河井主人公のやつがあるね。 「英雄児」だったかな?名前は忘れた。 俺はこれを読んで「峠」を読みたくなったよ
- 250 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/08(月) 17:34:49 ]
- >>249
「英雄児」でOKです。 「峠」よりも短編の方が出来はよろしいかも知れません。 私は「馬上少年過ぐ」の長編がもし書かれていたら読みたかった。
- 251 名前:日本@名無史さん [2007/01/08(月) 17:43:46 ]
- >>250
「馬上少年過ぐ」は良い作品だよね。 司馬の好き嫌いは別にして、政宗への評価が見える。
- 252 名前:日本@名無史さん [2007/01/16(火) 11:52:36 ]
- 2007年もアゲアゲでいきましょう!
- 253 名前:日本@名無史さん [2007/01/17(水) 19:10:12 ]
- 新政府軍の書き込みなど、ガトリング家老自ら粉砕してくれるわ!
- 254 名前:山田方谷 [2007/01/18(木) 02:44:32 ]
- 河井、心せよ
- 255 名前:日本@名無史さん [2007/01/19(金) 20:19:06 ]
- 河井さんをあまり叩かないように。長岡市民+長岡DNA保有人+田中真紀子サンが決起します。
- 256 名前:日本@名無史さん [2007/01/20(土) 08:23:32 ]
- 田中真紀子のようなDQNの支持など迷惑千万! ガトリング家老自ら粉砕してくれるわ!
- 257 名前:日本@名無史さん [2007/01/20(土) 14:29:21 ]
- 真紀子ですが何か?
- 258 名前:日本@名無史さん [2007/01/20(土) 23:08:59 ]
- 長岡に本家ありますが何か?
- 259 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 10:37:22 ]
- なごーか
- 260 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 11:04:26 ]
- 福沢諭吉の「痩我慢の説」を政治的に見たければ、越後長岡の牧野家を見てください。
その結果がよくわかります。河井は福沢理論を忠実に再現した人物といえましょう。
- 261 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 21:06:44 ]
- そんな書き方すると長岡系だけでなく、別な意味で慶應閥も敵にまわすんじゃないの?
- 262 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/21(日) 22:15:44 ]
- >>261
私の意見は>>239、>>240、に書かれています。 河井が領内を焼け野原にしないためには、独立特行策が成功する以外にないと言うことです。 それ以外は、西軍、同盟のどちらについても焼け野原は避けられないであると言うこと。 (それは慶応4年8月1日付、梛野嘉兵衛宛ての手紙によく書かれている。) そうした河井の行為、思想を福沢が後から理論化したような気がするんだよね。 勝海舟に対するアンチテーゼとして・・・ ただ、この批評は昔(1980年代頃)からNHKテレビの「歴史への招待」などで評論家 がよく使っていたよ。 昔は故村上一郎。ちょっと前だと、松本健一、半藤一利両氏あたりが。 スタンスは、村上は好意的に、松本は中立的に、半藤はやや批判的に。 それでも、八幡和郎よりははるかにましだけど。
- 263 名前:日本@名無史さん [2007/01/21(日) 23:18:30 ]
- >>262
十分理解しました。
- 264 名前:日本@名無史さん [2007/01/22(月) 06:09:05 ]
- >>239によれば、久保田藩佐竹家二十万石では17085戸の内4684戸が焼失。
長岡藩牧野家七万四千石では3598戸の喪失か。喪失率では長岡の方がひどそうだな。 新政府による援助の受け安さというファクターをも加えると??
- 265 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 16:52:47 ]
- 長岡藩総攻撃の官軍指揮官は土佐藩出身だ。継之助が単身和睦を談判しにいって「朝敵!朝敵!」と馬鹿の1つ覚えを怒鳴りまくっただけそうだ。
高知県とはそんな県なんだろうな。
- 266 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 20:30:47 ]
- 長岡攻めの官軍軍監は岩村精一郎(土佐藩士)だ。こいつ、後に名前を変えて岩村高俊って名前で福岡県令(県知事)になってる。県令になるのに何万人殺したんだろうな!
河合継之助率いる長岡藩は、こいつらみたいに無駄な人殺しや略奪は一切してないぞ。 どっちが野蛮人だろうな。 錦の御旗って本質的に何の為にあるのか? ハッキリ言えることは、相手が恭順を示しても虐殺するためにある[道具]であることは歴史が証明している。
- 267 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 20:48:03 ]
- このスレの結論は、「東北人越後人は要領が悪すぎる」だな。
- 268 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/25(木) 20:53:46 ]
- 正直自分は岩村がやったことのほうが正しいと思うけどな。
中立なんて認められるわけ無いだろ。阿呆らしい。 河合は元々主戦論者。中立なんて許したら会津は攻められない。 岩村も無理矢理な要求押し付けたりして馬鹿だったけどな。 錦の御旗は正義を主張する為だよ。自分達が正しいってことを証明してくれる。 要は天皇を握った証だと思うけど。天皇が正義だからね、あの時代。 ついでに恭順って何処の藩のこと? 長岡なら恭順じゃないし会津は武備恭順な上に反政府組織援助してる攻め込まれてもしょうがない藩だぞ?
- 269 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 20:56:49 ]
- 確に、手のひら反しの大名人山内一豊一族が納めた糞高知のように人間がだらしなくなれませんでしたね。
- 270 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 21:20:46 ]
- >>268
浅いよな。 継之助は、岩井のとこまで頭下げに行ってんだよ。 主戦派なんて、何でおまえが断定できるのか謎だな。 主戦派の根拠なんて、財政立て直して内部留保した10万両を原資にして、フランス式兵制へ変更したってんだろうがね。 単純に他藩はやりたくてもそれを行う金がないからできなかっただけじゃないのかな。 火縄銃で戦に勝てるなんて全国の武士は誰も考えてないよな。 主戦派云々なら、慶喜だって後世の歴史評論家の意見分かれてるくらいなのにな。会津だって容保帰国後に朝廷へ恭順の意と謝罪を示してるよな。 しかもさ、越後の中でも中立を保った藩が実際あるが、おまえさんの断定論法と食い違っているから楽しいよ。何を言っても自由だが、越後史を変えないでね。
- 271 名前:日本@名無史さん [2007/01/25(木) 21:22:42 ]
- >>270だが、岩村を岩井と誤記載スマン
- 272 名前:日本@名無史さん [2007/01/26(金) 21:21:31 ]
- ./ ;ヽ
l _,,,,,,,,_,;;;;i <いいぞ ベイべー! l l''|~___;;、_y__ lミ;l 逃げる奴は俄か西軍だ!! ゙l;| | `'",;_,i`'"|;i | 逃げない奴はよく訓練された薩長兵だ!! ,r''i ヽ, '~rーj`c=/ ,/ ヽ ヽ`ー"/:: `ヽ / ゙ヽ  ̄、::::: ゙l, ホント 戦場は地獄だぜ! フゥハハハーハァー |;/"⌒ヽ, \ ヽ: _l_ ri ri l l ヽr‐─ヽ_|_⊂////;`ゞ--―─-r| | / | ゙l゙l, l,|`゙゙゙''―ll___l,,l,|,iノ二二二二│`""""""""""""|二;;二二;;二二二i≡二三三l | ヽ ヽ _|_ _ "l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |二;;二二;;二=''''''''''' ̄ノ /"ヽ 'j_/ヽヽ, ̄ ,,,/"''''''''''''⊃r‐l'二二二T ̄ ̄ ̄ [i゙''''''''''''''''"゙゙゙ ̄`" / ヽ ー──''''''""(;;) `゙,j" | | | ↑ガトリング家老の雄姿
- 273 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 00:29:36 ]
- 河井継之助伝に小山正太郎氏の談話が掲載されている。
『故品川子爵(弥二郎)は、かつて当時の京都に関して自分にこういう話をなされたことがある。 「京都で皆が寄ってたかって相談の結果、各藩を説得して味方にするには、勅使を出したほうが良いと決まった。 しかし、単に勅使といっても、別に何か有難味がなくてはいかぬというので、それに錦の御旗が良かろうということになった。 ところが錦旗杯というものは何所にもない。さりとて無暗に作ったことが世間に聞こえては有難味がないという所から、 木戸の妾(幾松)が小才のあるのを幸いに、これに命じて西陣へ遣り、自分の帯にするという口実で錦を一巻買わせて来て、 夜こっそり旗に作らせ、翌朝禁裏の寶蔵から恭しく持ち出し、是が、錦旗節刀を賜うさ。 ところが我々を土下座させた大名共が、この木戸の妾の帯に土下座するという始末さ。ずいぶん滑稽だね。」 是が真面目の話で、当時の事情は全く斯くの如きものであった。』 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 昭和6年 目黒書店 731〜732ページ 錦の御旗に関しては、岩倉具視の謀臣、玉松操の説もあるので、なんともいえない。 しかし、当時の空気、雰囲気というものが伺えるものではないだろうか。
- 274 名前:日本@名無史さん [2007/01/27(土) 14:00:22 ]
- 俺は時代劇に出てくる官軍の馬鹿どもが鳴らす笛の音を聞くとむしずがやどる。
DNAに複写されてるのだろう。
- 275 名前:日本@名無史さん [2007/01/27(土) 14:30:10 ]
- 虫唾が走る、が正しいと思います。
- 276 名前:日本@名無史さん [2007/01/27(土) 16:31:52 ]
- 宿っちゃったんだが、走らせるか(汗笑)
- 277 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 21:06:55 ]
- >>273
錦の御旗は幾松じゃなくて大久保の妾のおゆうだったと思うが。 本当に河井伝にはそう書いてあるの?
- 278 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 22:15:16 ]
- >>277
>>273に書いてあるとおりです。 図書館で借りるなり、古本屋に行って取り寄せて読むなりして、確認してください。 私は河井伝を持っていて、そのまま、引用しただけです。 ここでいいたいのは、小山氏は長州毛利家の錦の御旗がそのように作られたと聞いたということ。 実際、薩摩島津家と長州毛利家それぞれ材料が渡されて、薩摩では大久保が、長州では品川が 玉松操のデザインに基づいて錦の御旗を作った。 けど、それが重要なんじゃないんだよね。 事実や本質がわかっていれば、錦の御旗は、妾の帯でしかないこと。 それは作った本人たちが自覚しているのだから。 判ってない奴が土下座をするということだ。
- 279 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/01/27(土) 22:21:14 ]
- 今度、図書館で探してみるよ。
ただ普通の本には大久保の妾おゆうだって書いてあったから、疑問に思っただけ。 幾松は当時京都じゃなくて長州にいるから、成り立たないし。よくある当事者の記憶違いだろうね。
- 280 名前:日本@名無史さん [2007/01/28(日) 00:36:35 ]
- >>278
>けど、それが重要なんじゃないんだよね。 >事実や本質がわかっていれば、錦の御旗は、妾の帯でしかないこと。 本質は、「朝廷がこの軍を官軍として認め、これに逆らうものは賊軍となったこと」でしょう。 それを理解したかしないかが、河井の運命を分けました。
- 281 名前:日本@名無史さん [2007/01/28(日) 00:39:45 ]
- >>278
錦旗は朝廷の人間が手織でこしらえないといけないってことか?
- 282 名前:日本@名無史さん [2007/01/28(日) 17:41:00 ]
- 源平合戦にしろ、戦国時代にしろ、朝廷は強いものを後押しするだけで、形勢が逆転すれば以前の敵方に皇軍の旗印を下げ渡す。
薩長が皇軍となっても、幕軍があれほど不甲斐なくなければ、それが単に一時的な状態だったかもしれない。
- 283 名前:日本@名無史さん [2007/01/29(月) 23:55:52 ]
- 全く同意
薩摩と会津へ敕命が下り長州が敕敵になったこともあったが、あっと言う間に皆さんご存じの通りになった
- 284 名前:日本@名無史さん [2007/01/29(月) 23:56:56 ]
- 敕敵×→朝敵〇
- 285 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 18:12:41 ]
- 日本人として長岡藩を誇りに思う。
- 286 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 19:20:30 ]
- 要領は悪いけどな。
- 287 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 20:47:52 ]
- そこが萌える。
- 288 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 21:44:16 ]
- 健気なドジっ子だからな。
- 289 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 21:45:06 ]
- 立見尚文という戦の神様も味方した
- 290 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 22:01:36 ]
- 健気なドジっ子には主人公が味方になるのが定石だからな。
- 291 名前:日本@名無史さん [2007/01/30(火) 22:21:27 ]
- 無器用で頑固で空気読めずにドジ実直なところは、昔の爺ちゃん達みたいだよな。
おれは好きだな。
- 292 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/03(土) 06:01:45 ]
- 「河井継之助伝」には以下のような記述があります。
慶応4年3月2日のことです。 『継之助は支封小諸藩の江戸在勤の重臣を招致し、小諸藩今後の方針に就いて説示する所ありしが、 席上継之助は一同に対し、 「偖て御一同、幸いに貴藩の改革も其の緒に就き、継之助の之より帰国の心組でござる。御別れに臨んで一言申し述べたい儀がござる。 今や世事紛々、情誼図り難し、願わくば御一同、須らく大義に寄りて事を處せられよ、大義親を滅するは是春秋の名分でござる、呉々もこの一言を御忘れあるな」 と述べ、とくに 「大義親を滅す」 という一語に力を入れたり。 是宗家長岡藩の向背は、未だ何れとも決し難きものあり、万一武門の面目として、敢然薩長徒に抗戦することもありとするも、 小諸藩は、大義によりて、王事に尽瘁すべしとの意を漏らせしものなるべし。 其の夜小諸藩の重臣、継之助の為に別宴を開く、酒間、継之助杯を挙げて、(牧野)隼之進に話して曰く、 「継之助は今より忠良の臣たらんか、英雄の人たらんか」 隼之進問うて曰く、 「今や道路既に塞がる、先生は何れの道より長岡に帰られるや」 継之助破顔微笑して曰く、 「天に翔りて帰るべきか、地を潜りて帰るべきか、帰路の如き、敢えて憂うるに足らず、意を安んじて可なり」 と。 継之助又私かに隼之進に対し、 「政変近きに来るべし、御分家三家のうち、一家だけは、残したきものなり」 と語りしという。 (牧野隼之進の男、成功氏の談)』 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 278〜279ページ
- 293 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/03(土) 07:14:18 ]
- 河井が太政官に牧野忠訓名義で書いた建白書(慶応3年12月)にしても、当時の江戸の譜代、家門大名の空気をそのまま書いたという話があるから。
当時(慶応3年10月)から紀州徳川家を中心に大政奉還後、徳川家に対して大政再委任の運動が行われていた。 檄文は11月5日に紀州徳川家の江戸屋敷において読まれ、11月17日までに94の大名家が、 「忘恩の王臣たらんより、今より全義の陪臣となり、ますます砥節奮武の目的相立て候」 いう目的の下、徳川家に官位返上の嘆願書を提出したとある。 檄文の原文は復古記の巻3にあるといいますが、これは入手するのが難しいので、簡単に見たい方は、 参考文献 勝海舟全集巻14 陸軍歴史4 講談社 江藤淳 川崎宏 司馬遼太郎 松浦怜 共著 昭和50年 741〜742ページ に収められていますので参考にしてください。 その現代語訳は 参考文献 最後の江戸留守居役 ちくま新書 白石良夫著 平成7年 106〜108ページ にあります。 更にいえば、こうした譜代、家門大名とその家臣団の 「忘恩の王臣たらんより、今より全義の陪臣となり、ますます砥節奮武の目的相立て候」 と言う思想に対しての考察は井上勲の「王臣と陪臣-徳川支配の正統性についての断層」があります。 参考文献 江戸とは何か-徳川の政治と社会 至文堂 大口勇次郎編集 昭和60年 183〜209ページ にあります。 井上勲には更に踏み込んで、「王政復古-慶応三年十二月九日の政変」-中公新書がある。 私は、河井がこうした思想の側の代弁者であり続けたと、考えるけどね。 結局、王政復古の思想を上回る思想、政策を打ち出すことが出来ず、(河井の政治思想は、あえて言うなら安政年間に橋本左内 が提案した、徳川色の強い公議政体論だったのではないか?)王政復古のやり直しを求めるにとどまったのではないだろうか? 甥の根岸練次郎の回想文を読むと、そう思えてならない。 参考文献 塵壺-河井継之助日記 平凡社 安藤英雄交注 昭和49年 318〜321ページ
- 294 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 09:02:57 ]
- >>293
なるほど
- 295 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 11:01:20 ]
- そんな譜代大名たちも、いざ官軍が東征を開始したら、奥羽列藩同盟を別にしたら、
林忠崇みたいな例外を除いて、みんな朝廷に帰順したんだが・・・ あえて官位を返上して徳川宗家の家臣にとどまるような骨のある大名はいなかったな。
- 296 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/03(土) 12:57:54 ]
- >>295
そのことも踏まえて、井上勲氏は考察を書いています。 井上勲氏の考察や著述を読んでください。
- 297 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 19:42:13 ]
- いやー奥が深いね!
- 298 名前:日本@名無史さん [2007/02/03(土) 21:11:13 ]
- ますます「東北人越後人は要領が悪すぎる」という結論が強調されるスレの流れだな。
なにしろ、「譜代も外様も一緒くた」だからな。
- 299 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/04(日) 02:06:03 ]
- ただねぇ、要領がいいと言うのも考え物で、裏を返せば、あまりにも簡単に状況に従いすぎると言うことではなかろうか?
逆に言えば、原則に固執する頑固者-福沢理論でいうところの「痩我慢」-が少ないということでもあるわな。 勝てば官軍、バスに乗り遅れるな、と言う現象はどこにでも見られるが、日本ほどそれが目立つ国は少ない。 それは内政では更に見られることで、勝者が大をなすには、原則を守るがゆえに意地でも従わない、と言う人物がおらず、利益になるなら 従っておこうと言う状況判断がここ一番の場面で支配したことにもよる。 よく言えば柔軟性という美徳ではある。が、悪く言えば、利益のためなら自分たちで定めた規範・規則と言った類を平気で無視する、 と言われても反論できない部分ではある。 これは美徳とは表裏一体となる部分であり、美徳の裏の欠点を意識しなければならないのかな。
- 300 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 01:26:12 ]
- 戊辰戦争において要領がいいのは美徳以外の何物でもないだろう。
御家を戦に巻き込み、領土を焦土にし、領民を苦しめるのよりよっぽどいい。 到底そうは思えんがな。だから自分は日和見マンセーだ。 自分達にとっての利益を追求するというのは別に悪いことでも何でもない。
- 301 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:52:27 ]
- 「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、 余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、 戊辰戦争当時を追懐して、 「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」 といわれ、 「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。 あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり) ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。 我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・ そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。 分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。 我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。 −といってやったものだよ」 云々。 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ
- 302 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:53:47 ]
- 「河井継之助伝」にはこんな記述がある。
『山県老公に御逢いした当時は、某重大事件(大正十年の宮中某重大事件)の為、老公は快々として楽しまず、 余程機嫌が悪かったところが、彼。の蒼龍窟の絶筆(梛野嘉兵衛に宛てし書簡)をお見せしたに、非常に喜ばれ、 戊辰戦争当時を追懐して、 「之は実に珍しい、貴重の品を拝見した」 といわれ、 「私は河井という人には小千谷では逢わなかった。今から考えて見れば実に残念なことをしたと思う。 あの当時の状況は、譬えてみれば長岡藩の立場は、丁度今の(欧州大戦争〈第一次世界大戦〉の始まりし当時なり) ベルギー国のような具合で、中立地帯であるというのを、之を突破して進むというのであった。 我々の意見は、兎に角河井をひっくくってしまえば後は大丈夫だろう、河井をひっくくらうというものであった」・・・・・ そうそう、この手紙にある「分捕り品山の如し・・・・・」とあるが、之に就いて思い出した。おもしろい話がある。 分捕られた品は皆薩摩の方の物で、彼等はすっかり分捕られてしまった、実に閉口して居った。 我々は(長州人)は何遍もからかってやったものだ。どうだ大急ぎで薩摩へ帰って、もう一度用意しなおして出て来るんだね。 −といってやったものだよ」 云々。 参考文献 河井継之助伝 今泉鐸次郎著 目黒書店 昭和6年 762ページ
- 303 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 21:56:08 ]
- すまん、おなじやつ2度いれた。
- 304 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/05(月) 22:36:54 ]
- >>300
井上勲氏の「王政復古-慶応3年12月9日の政変」の273〜276ページに理由付けがあるよ。 あなたがこれに納得するかどうかはわかりません。 275〜276ページに結論が書いてあるから、そこだけ引用するね。 「天皇の決断と突然の公示とその想像を絶した内容と、発動のための軍事発動と、これらの複合は、たしかに人身を戦慄に陥れるだろう。 その何れもが予想と理解を超えたことだからである。天皇の決断とその内容が予想の内にあり、軍事発動の目的が理解できるならば、まだしも対応の方法がある。 だが、そうではない。いずれも予想と理解を超えている。 ここから戦慄が生じる。戦慄は畏怖に変化する。決断を下し軍事力を発動させた主体、つまり、天皇睦仁への畏怖へと変化する。政治君主としての天皇の権威は、 一挙に高揚するわけである。 そして、天皇への服従が始まる。服従を強いられたものは、戦慄に所由する畏怖である。 まずは、強いられた服従である。けれども、他から強いられてはじまった服従は、しばしば、自己の判断にはじまった服従よりも、その程度において強く、また強くなりうる。 何がしかの判断に基づいて、服従がはじまったとする。ここでは、その契機をなした判断の根拠の強弱は、そのまま服従の程度に比例する。その根拠が消滅した場合、 服従の関係が解除される可能性もなくはない。 これに対して、強いられた理由なき服従は、次のような経過をたどって内面化するからである。 戦慄に発生する畏怖に強いられて、服従が始まった。当面は、理由なく服従すること自体が行為の確立である。だが、強いられた服従をそのまま放置することはできない。 強いられた者には、服従の行為を理由づけて、これを正当化しようとする心理がはたらく。外から強いられてはじまった服従は、内から正当化されていく。 この作業の結果が、天皇への忠誠である」 服従するさいの理由付けが、民の為、お国の為、御家の為といっておけば、誰もが反対はしないからね。 更にいえば、これに箔をつけるための小道具が錦旗だったのでは・・・・・ 参考文献 「王政復古-慶応3年12月9日の政変」 井上 勲 中公新書 平成3年
- 305 名前:日本@名無史さん [2007/02/10(土) 13:47:55 ]
- 議論も出尽した。潔くスレを閉じよう。
【完】
- 306 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/18(日) 20:27:28 ]
- >300 天皇の命令だからといって服従しなければならにいのは
愚民化政策ではないか。
- 307 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 12:52:34 ]
- スレ違いも増えてきた。
レスもない。 つまり議論は出尽した。 潔くスレを閉じよう。 【完】
- 308 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 20:25:12 ]
- このスレの結論は、これだ↓
「せっかく買ったガトリング砲、使わねえと勿体無えもんな!」
- 309 名前:日本@名無史さん [2007/02/22(木) 20:30:38 ]
- >>308
実際、継サ、そう思ってたと思うw
- 310 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/02/22(木) 21:22:47 ]
- >>309
長岡牧野家出身で、慶応義塾を卒業後、社会主義の研究者になった城泉太郎の伝記には、ガトリング砲は横浜で購入された時点では、箱の中に部品が梱包されていて、 長岡にて、藤野某が英語で書かれている説明書とにらみ合いながら組み立てたとあるけどね。 >>308 スレの結論、 「痩せ我慢、負けるな継さ、ここにあり!」 で、いいんじゃねぇ?
- 311 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/04(日) 09:20:10 ]
- >>299
それは、エドワード・スネルから牧野忠訓宛の手紙の一説に書かれていることだね。 たしか「河井継之助伝」の669ページから672ページにかけて載っているやつだね。 あの当時、ルドルフ・リンダウやポンペ・ファン・メーテルフォールト、ヤング・ブラックなど横浜などに住んでいた日本通の外国人は総じて反薩長派だったんだよね。 アーネスト・メイスン・サトウの「一外交官の見た明治維新」でも、イギリス以外の外交官たちは、奥羽越列藩同盟が勝つことを願っていたけど、 会津松平家が降参したので、皆落胆したと書き記しているね。 ルドルフ・リンダウの「スイス領事の見た明治維新」を読むと、黒船がやってくるまでの日本人はつつしまやかで謙虚で、 謙譲の美徳にあふれていた青い鳥だったのに、イギリス人やアメリカ人と付き合いだすと、下品で、好戦的で金銭や土地に貪欲になるカラスのような人々になったと嘆いているね。 ルドルフ・リンダウやエドワード・スネルはそういうことを世界標準だといって、日本人に押し付けるイギリスが嫌いで、奥羽越列藩同盟を支援していたからね。 手紙の中でも、河井に投じた金銭は失ってもぜんぜん惜しくもなんともない。 むしろ、今回負けたからといっても、落胆することなく、海外貿易で金を稼いで、稼いだ金を教育に投資して、人材を作ればいいんだ、という提案までしている。 まぁ、小林虎三郎よりは前向きなことを考えていたよね。多分。
- 312 名前:日本@名無史さん mailto:sage [2007/03/04(日) 20:56:10 ]
- 「スイス人はイギリス人が嫌い」まで読んだ。
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