- 476 名前:名無しの与一 [2009/08/05(水) 10:35:17 ID:zNPnB7df]
- 弓を引くと、筋肉痛やマメが出来たり、時には皮をはいだりする人も居る。
そのような時の射は、自然とその部位をかばうものである。 もし、虚空の心で弓を引けば、知覚のみが鮮やかになるから、微細な力のよどみや体のひずみすら感知できる。 そして、それらは痛みをかばう時のように自然と修正されるのである。 このように、射はからだと弓が教えてくれる。 的を外して、今の射は駄目だったと言う人が居る。 からだと弓が矢と関係して、矢は自然と着点へ飛んだのである。 それが、成るべくして成った事実である。 駄目だったと思うのは、矢が的に中る、中って欲しい、中るに違いないと考えたからである。 ところが、矢は心では射ることが出来ないし、ましてや心で的中を図れるものではない。 まさに本末転倒、主客逆転である。 射が駄目だったのではなく、的中すると考えた心に誤りが有ったのである。 心を虚空にすれば、こうした過ちを避けることが出来る。 例えば、麦を栽培するとして、畑にその種を蒔くことが因であり、雑草を取ったり日が差したり雨が降ったり、時に嵐が訪れること等を縁と言う。 また、麦の花が咲いて実ること、或いはその前に枯れてしまうこと等を果と言う。 人は因縁に関われば、望ましい(結)果を求める。 それが心の在り様でもある。 しかし、前段で述べた通り、心が結果を決めるのではなく、現前とした事実が成るべくして現れるだけである。 自然は、在るがままに在る・成るがままに成る・為すがままに為す。 この理を知り、因縁を絶って行ずる射は大安に満ちている。 さて、心が虚無になれば、ただ知覚が鮮やかになる。 そして、何らの想念も無いから今と言う時間の概念さえ消え、過去や未来も消去される。 それは言い換えれば、過去と現在と未来が混沌として、時間が未分化な状態である。 ところが、心が虚無・悟入したといっても、人知れず微細に悟出するのが人の常らしい。 虚無の心と言えども矢を射ることは出来ないが、修練によって的中する時のからだと弓の矢に対する感覚をつかむことは出来るのである。 その瞬間、悟出して的中を連想し、再び悟入する。 そうすると、この連想が脳にとっては外部からの知覚と同様に、事実として受け取られるようだ。 つまり、離れる前の感覚と同時に、的中した感覚が生ずることになる。 これが、離れる前に既に的中している、という感覚である。 私が体験したこの感覚の射は、すべて思い通りの矢飛びと的中であった。 心法を心得て修練を重ねれば、的中する時のからだと弓と矢との関係をしっかりと感じ取ることが出来る。 また、更にその体験を積めば、的中するのが自然となってくるのである。と信じている。 上の一行は、まだ到達してはいないから、ちょっと弱めのニュアンスである。
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