- 893 名前:名無しさんの次レスにご期待下さい mailto:sage [04/03/25 08:07 ID:MRgQPm8q]
- ドゥルーズを読むジジェク
スラヴォイ・ジジェクが『身体なき器官』(Routledge刊)でジル・ドゥルーズの哲 学に取り組んでいる。ラカン派精神分析--とくにその「リアルなもの」の論理を あえてドグマティックに信奉し、デリダ流の脱構築をいたずらに否定性・他者性 にこだわるものとして批判する一方、ドゥルーズ&ガタリ流の分子革命論(ネグリ &ハートの『帝国』におけるマルチチュード論につながる)にあまりにナイーヴ な肯定性を見て批判するというのがジジェクの立場であってみれば(この本でも ジジェクは異教/ユダヤ教/キリスト教に対応するスピノザ/カント/ヘーゲルの延 長上でドゥルーズ/デリダ/ラカンを位置づけたりもしている)、そのドゥルーズ 読解の戦略も自ずと明らかだろう。 実際、ジジェクは、ドゥルーズのガタリとの共同作業を否定する(とくに『アン チ・オイディプス』[1972年]は「ドゥルーズの最悪の本」だと断じ、そこに目立 って現れた深層からの生産の論理を批判する)一方、ドゥルーズ固有の哲学(と くに『意味の論理学』[1969年]で展開された不毛な表層的効果としての出来事の 哲学)を高く評価してみせるのである(したがって『意味の論理学』から『アン チ・オイディプス』への転回は「退行」ということのなる)。この議論は、ドゥル ーズを論じてガタリに触れないアラン・バディウの議論(『ドゥルーズ』河出書 房新社)をもっと露骨に展開したものと言ってもよい。私自身は哲学を外部の多 様な実践と接続してみせたドゥルーズ&ガタリの共同作業を高く評価するが、ド ゥルーズ本人は良くも悪しくも偉大な哲学者であった(その哲学は「多」や「生 成」にとどまらず「多の-」や「生成の存在」[=「回帰」]にまで到達せずにはお かないだろう)と思うし、ドゥルーズ本人を何とか開かれた多様性の方に引き出 そうとする凡百のドゥルージアンのドゥルーズ論よりバディウやジジェクのドゥ ルーズ論の方がドゥルーズ哲学の一面に肉迫していることを認めるに吝かではな い。マルクスが生半可な唯物論より観念論から学ぶことの方が多いと言ったよう に、われわれも、ドゥルーズを安易にネグリなどと結びつけようとするドゥルー ジアンたちの「善意」より、バディウやジジェクの「悪意」から、いっそう多く を学ぶことができるのではないか。 いずれにせよ、ジジェクは、ドゥルーズの潜在的なものの哲学自体の中にあって も、潜在的なものを生産的な生成の場ととらえる立場と不毛な出来事の場ととら える立場を区別し、それをドゥルーズがアルトーから援用する「器官なき身体」 とその反転形としての「身体なき器官」の対立と(またスキゾとマゾの対立と) 重ね合わせてみせる。 「器官なき身体」が機能的な器官システムへの分化に先立つ多様な生成の場であ るとすれば、ジジェクがフロイトの「部分対象」やラカンの「小文字の対象a」を 踏まえて言う「身体なき器官」は、キャロルの『不思議の国のアリス』で猫の身 体が消え失せた後に残るにやにや笑いのようなものであり、端的な例で言えば、 純粋なシニフィアンとしてのファルス、あるいは主体から切り離された眼(ジガ・ ヴェルトフの言う「キノ・アイ」)や独立した対象としての眼差しである。 こうなると議論は当然映画にも及ぶだろう。 実際、ジジェクはこの本で、映画について、また科学や政治についても、最新の 話題に触れながら多彩な議論を展開している。 そうした議論からも読者はさまざまなヒントを得ることができるだろう。 ジジェクの著作がつねにそうであるように、ドグマティックに信奉するのではな く、さまざまな議論を展開するきっかけとなるべき、刺激的な本だ。
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