- 208 名前:無名武将@お腹せっぷく [2006/05/27(土) 17:44:04 ]
- >>201
だれも答えてくれないので、自分なりに考えてみた。 水野家の領地は、尾張知多郡と三河碧海郡である。 三河領は、のちに信長が忠重に与えた領地がすべてではないかと考える。つまり三万石。 問題は尾張知多郡にどの程度の領地を持っていたかだ。 水野氏の居城は、三河刈谷ではなく、尾張緒川のようだから、三河領より尾張領が大きかったと考えられる。 わかっている城名は緒川、大高、西尾、成岩、常滑。その他、阿久比城の久松氏、岩滑城の中山氏、大野城の佐治氏を婚姻で従属させていたようだ。 ただ、俺の調べた範囲では、水野氏の勢力は北知多郡ばかりで、南知多郡に及んでいたのか不明。というか、この当時、南知多郡にどういう豪族がいたのかわからない。 しかし、北知多郡を押えられては南知多郡は知多半島の先で孤立する。よって水野氏に服従していたと考えていいのではなかろうか? よって、水野氏は、知多郡全域を支配していたと仮定する。 知多郡の石高を知らないが、尾張は八郡で571,737。単純に八で割れば、約七万石。 以上の推測から、水野信元の全盛時の石高は十万石ぐらいと考える。 これプラス、「常滑焼き」という特産品があり、十万石の収入があったという説がある。(オーバーすぎると思うが) また、尾張の鍛冶屋は水野太郎左衛門と名乗る家系が支配している。そのため、水野氏は廻国鍛冶の流れを汲むのではないか? という説があるらしい。 あと、緒川城と刈谷城で挟んだ海運の収入も大きかった。 焼き物、鍛冶、海運といった副収入のことを考慮すると、24万石とは言わないまでも、かなりの地力のあったように思える。 ちなみに信元亡き後の水野残党勢力。水野忠重・刈谷三万石、水野守隆・常滑一万石、水野忠守・緒川一万石。つまり最低でも五万石はあった計算になる。
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