- 655 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2012/06/10(日) 22:54:05.40 ]
- 98 名前: 名無し草 2007/03/21(水) 17:45:27
ではなぜ、金吉の祖父である兵五郎とその兄弟・勝治を、道助の息子と間違ったのだろうか。 これは、この言葉に対する誤解であると思われる。 毅夫氏も、「うちも道助から出ているんです」と語ったという。(ソース・毎日グラフ臨時増刊) 旧民法下でAからBが分家した、という場合、AとBは親子ではなく兄弟の可能性がある。 手元にある戦前の戸籍を見ても、兄のもとから弟たちが、それぞれ分家して出ていた。 1794年生まれの道助が家督を相続したのは、父新六が亡くなった1825年、三十一歳か それ以前だろう。 兵五郎の生年は分からないが、仮に1810年とすると父の死去のときは15歳。 分家したのは兄が戸主になった家からと考えて差し支えないのではないだろうか。 99 名前: 名無し草 2007/03/21(水) 17:49:24 小和田家系図・・・推測 町同心 1793生1853没(60才) ┌新九郎───郡蔵───皆蔵 ?生1897没 │ │ 1794生1858没(64才) │ ┌道助匡春(本家) │ 1825没 │ └新六匡安┼勝治──○──○──○──昭三・豊春 │ ├郡蔵 │ 1871没 1874没 1868生1900没(33才) └兵五郎─道蔵匡利───金吉 同心 ├─毅夫 (熊倉)竹野 ├─恒 田村寛一郎─(養女)タカ │ ├─雅子 ├──.静 優美子 嵩岡可笑─(三男)又四郎
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