- 12 名前:デフォルトの名無しさん mailto:sage [2012/01/03(火) 12:03:16.47 ]
- 本当に「宣言的」なら理論的にはスパゲッティになりようがない
先ほども言ったが、スパゲッティというのは実行順序や計算順序が複雑に絡まること (ここで言う絡まるというのは、解の導出過程を追うとコード上を脈絡無く飛び交ってしまうこと) 完全に宣言的なものには解を導くのに計算順序という概念がない だから、順序があるのはそれが手続き的な面を少なからず持ってるからだ (完全に宣言的なもの、HTML や Alloy の記述などはもうプログラムとは呼べないと俺は思う) Haskellの持つ宣言的な性質は、例えば、参照透過性ゆえに 関数をどこで使用しても同じ結果が得られることに現れている しかしHaskellだって完全に宣言的ではないから、 計算順序をしっかり意識しないといけないケースがある ただその場合も、順序を意識して計算を追うのはCやJavaなどよりも楽になるケースが多い 関数をどこで使用しても同じ結果が得られると言うことは、 その結果を知っているなら、それ以上その先深く計算を追う必要が無いからだ そしてその結果を知る事も比較的容易だ 関数の結果が引数以外の外部環境(変化するクラスのメンバ変数など)に依らないから、 単に計算対象の値に問題の関数を適用して結果を調べればいいだけ(内部計算は知る必要が無い) 実際問題として、Haskellのプログラミングは正直なところ言うほど単純ではないが、 それでもそのようなHaskellの持つ宣言的な性質の部分を大いに活用できるから、 手続き寄りなCやJavaなどよりも理解しやすいと言われるし、俺もそう感じる
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