- 111 名前:デフォルトの名無しさん mailto:sage [2019/03/06(水) 23:41:47.34 ID:4UcSYbmf0.net]
- 自然科学と人文・社会科学の違いの議論と確定論・自由意志の議論は関係がなくもない。
人為の所産であるところをどのように記述でき得るのかという話。 あるいは統語を徹底させたところで、何かしら意味の一端を持たせた途端に矛盾が入り込むという話。 そこから意味論のど真ん中に話を持っていかざるを得ない思考なり意志なりの扱いについて、 こういったものはその体系そのものが不確定な相互解釈の循環に依存しており、 今のところそれは綺麗に紐解けないでいる。 だから強いAIの強いってどのように定義できるのかというような、そもそもの知性の定義にしたって 人間中心主義から逃れ得ないというような議論にもなるし、ひとまずはブラックボックス化した上で、 擬人的な振る舞いとして見ることで、本当に人のような擬人的振る舞いなのか、 擬似・擬人的なものにすぎないのかという範疇での判断に依存しているのが、 たとえば有名なチューリングテストもそう。 さりとて別に物理と精神をまったくの二元論として捉えるべきであるという話ではない。 それは究極的には一元論であるのだろうがしかし、やっかいなのは一元論をそのまま一元論として 我々はどのように記述できるのかという問題がある(おそらく何かしら二元論的表現をすることは避け得ないだろう)。
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