- 502 名前:もっこす [2012/09/30(日) 09:38:17.55 ID:r0jAjzwV0]
- 織田信長
織田勢は素早く比叡山の全ての出口を封鎖した。3万の軍勢で山麓を囲み、退路を完全に遮断したのである。 佐久間信盛や武井夕庵ら臣下の諫止は一切受け付けず、黄金を贈って信長の怒りをなだめようとした山門の 申し出も一蹴、信長は宗徒を根絶やしにする姿勢は決して崩さなかったのである。 合図とともに鬨の声をあげながら、織田勢は攻めかかった。見つけられた者は僧俗、老若男女構わず無差別に殺された。 山頂においても徹底的な破壊と殺戮が行われ、根本中堂をはじめ、4、5百という堂塔坊舎の全てに火がかけられた。殺された者は3、4千人(諸書によって違いがある)にものぼり、比叡山は累々たる死体で埋め尽くされたという。 徳川家康 1569年の遠江堀川城攻めで気賀一揆を老若男女撫で斬りにした。 後で捕らえられ首をはねられた農民も合わせて千七百名が殺されている。 伊達正宗 政宗は大阪夏の陣の時。水野勝成勢の神保相茂隊約300人全滅の味方討ちを実行した。 その理由が「度々我ガ手先ヘ働キ来ル事ヲ口惜ク思ヒケルニヤ、鉄砲ヲ打掛ケル」(『難波戦記』)とある。 つまり伊達隊に割り込んで戦功を立てた事を悔しがって突然味方に襲いかかったのである。これは当たり前の事 ながら諸大名の大ヒンシュクを買い、特に島津家では『薩藩旧記増補』等で散々にこき下ろされている。 松永久秀 度重なる裏切り、将軍暗殺、東大寺を消失させたなどの悪行の限りを尽くした。 年貢未進などの百姓を処罰するにあたっては、蓑を着せ、火を放ち、もがき苦しんで死ぬ様を「蓑虫踊り」と称して、 楽しんで見物したとも伝えられ、彼の死を領内の民は、農具を売って酒にかえ、大いに祝ったとも口伝えられている
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