- 447 名前:名無しさん@3周年 [2006/12/23(土) 08:01:55 ID:HNqZ8+3y]
- >>381
>神や法と自分や物質を区別しているとすると、その区別対象が神や法の外に で在るとなってしまうのでそれは無いとおもいます。 当時の人々に説く場合においては、「神と自分は一体」を説くことは大きな危険がありました。 イエスは「自分は神と一体である」と宣言することによって、「不敬」だとされ、死刑を科されました。 釈迦の時代には、「自分は不変であり、アートマンと一体である」ということから、「どんなことをしても自分はアートマンであるから変化しない」、 「肉体を失えばそのままアートマンであり続ける。奴隷や非バラモンにどのような仕打ちをしても関係ない」という思想が蔓延していました。 ですから、バラモンの説く「神」や民衆の信じる「神」と本当の「神」とを区別する必要がありました。 釈迦は「永遠不変の法」と「輪廻の中にある「神々」」とを識別しました。 この世での「永遠に変わらない「常」としての「我」」と「変化し続ける「無常」の「自己」」とを識別しました。 当時の「アートマン観」と「神観」とを否定して、本来のものに近づける必要があったからです。 ですから、努力の道標として、現在で言う「意識」や「心」を幾つにも分け、識別をして、説いています。 「神」、「法」、「自分」、「物質」だけでなく、「識」や「意」も識別しています。 佛教は「平等観」だけではなく、「差別観」も包含しています。
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