- 1 名前:神も仏も名無しさん [2008/10/19(日) 12:03:01 ID:ykzfCh0C]
- やはり真理真実〈実相〉が大事なのであって、それを説くものが誰であるかは、
本質的問題ではないと思う。 一層の研鑽に励もう!
- 624 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/19(木) 21:15:58 ID:q18WiBzJ]
- お釈迦様とイエス様は同じ境地に至っていたのは、個人的に結論出てるんだけど
今の課題は、凡夫の私がどのように生きればその境地に近付けるかが現在の課題だ。
- 625 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/19(木) 21:20:19 ID:q18WiBzJ]
- 岩波文庫のバガヴァット・ギーターもいいよ。
日本では聖書や原始仏典よりマイナーかも知れないけど内容は負けてないと思う。
- 626 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/19(木) 21:40:39 ID:q18WiBzJ]
- バガヴァット・ギーターじゃなくてバガヴァッド・ギーターでした。
- 627 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/19(木) 21:46:34 ID:/f9lIp/1]
- >>624
諸法は恐ろしい悪魔の誘惑であることを肝に銘じて接することである。 諸法から離れることである。諸法に首を突っ込んではならないのである。 諸法に捕まえられてはならない。
- 628 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/19(木) 21:56:19 ID:UoGDNt4M]
- >>621
道徳を実行しても天国には逝けないよ
- 629 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/19(木) 22:07:55 ID:sfVp7KRY]
- >>624
自身を凡夫と認識できている、あなたの賢明さ、素直さ、正直さによって いつの日か、その求める境地に少しでも近付けるかと思われます この世の、「真理」「摂理」によって人は、その境地にいたることになると思われます
- 630 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/19(木) 22:54:26 ID:/f9lIp/1]
- >>628
道徳行為だけで天国にいけるとは、そういう教えは無いだろう。 しかし、道徳に反する行為をするものが天国(ニルバーナ)には入れるとは 、そういう教えはないし、それでは天国に入れないと、言う教えはある。 つまり、神を認めない限り天国には入れないのである。 神は一相無相であるから、その真実に反して、有無(諸法)に囚われた行為、これが不道徳な行為となるんであるが、 これでは、神を認めていないのであるから、神が受け入れるということはありえないのである。 人を殺すという行為は、殺すことにより、何かを求めるということであるから、それでは 無相に反して、獲得するものがあると思っているのであるから、無相という真実に反しているのである。
- 631 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/19(木) 23:05:32 ID:UoGDNt4M]
- >>630
神の言葉である聖書には姦淫した女は石で叩き殺せとあるそうですか、キリストは そのような殺人は止めろと教えています。どちらの言うことに従えば天国にいけるのでしょうか?
- 632 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/19(木) 23:26:18 ID:/f9lIp/1]
- >>631
聖書の規定は知りませんが、お言葉のとおりとしますと、 キリストはその規定を無視したのではなかったでしょう?つまり意思で殺せという 神の言葉を無視してはいない、でしたよね、新約聖書では。 罪の無いものが、その女に石を投げつけよといわれたのでした。そしたら誰も殺そうとするものがいなかったのでしたね。 イエス自身も、私もあなたを罰しない、今後罪を犯さないように、と教えて許されたんでした。 みんなが罪を犯しているから自分も罪を犯しても、誰も同じなのだから、罰せられることは無い、と言う事実は ありえるのですが、この世間で罰せられないということが、天国に入れるということではないようですね。 天国に入るためには、神に罪を犯さないことが必要であると言うべきでしょう。
- 633 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/20(金) 01:23:32 ID:aMkNHAqT]
- >その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう〜なんでも祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい」
>(マルコ) このようなイエスの嘘に 人は酔い痴れる。 仏教は科学的ですが。
- 634 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/20(金) 07:56:57 ID:TgMi6CVp]
- >>633
仏教は科学的というのは仏教を馬鹿にするものです。 科学と言うのは、ある一定の範囲を自分で決定し、その範囲内での考究に過ぎません。 しかし仏教は、範囲を自分勝手に決定するなどと言う、恣意的な考究ではないんですね。 今範囲を自分で決定するといいますが、これを正しく言いますと、人間が生活する範囲 を考究の範囲と決定するということです。簡単に言うと、便宜的な世界なんですね。 その範囲外のことは、人間にも、あることはわかるのですが、まったく白雉なんですね。
- 635 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/20(金) 08:10:29 ID:H8g70sp/]
- www.hiron-room.jp
こいつ神かもしれないよ
- 636 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/20(金) 08:35:42 ID:TgMi6CVp]
- ここだな。
1121> そこで、ペテロは思い出してイエスに言った、「先生、ごらんなさい。あなたがのろわれたいちじくが、枯れています」。 1122> イエスは答えて言われた、「神を信じなさい。 1123> よく聞いておくがよい。だれでもこの山に、動き出して、海の中にはいれと言い、その言ったことは必ず成ると、心に疑わないで信じるなら、そのとおりに成るであろう。 1124> そこで、あなたがたに言うが、なんでも祈り求めることは、すでにかなえられると信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう。
- 637 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/20(金) 08:49:54 ID:TgMi6CVp]
- つまり、諸法は幻であるから、幻なら、どんな風にも造り替えられるのであり、
それは、人のねがいにもとづくいがいにないのである。
- 638 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 00:25:28 ID:bGo651yX]
- またまた戯言を。
では 人類が存在しない場合山は隆起するか。 無人の山岳は崩れるのか。そのように考えて見なさい。 そして仏教は 形而上学には触れない。もし触れたならその者は 病に倒れてしまうだろう。 なぜならば 彼にはそのような彼岸を認知でき得ないからである。 寝言は就寝後に呟くべし。
- 639 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 09:34:06 ID:9O/KAChd]
- イエスがどんな奇跡を起こしたとしても、それは原因結果の関係にあるもの、つまり、
縁起現象に過ぎなかったのである。故に、かれの奇跡は、他の縁起関係にあるものと、 同じものであったのであり、実体の無いものであったのである。 かれの処刑も縁起現象であり、実体の無いものであったのである。 縁起現象と因果と言うものは同じ意味のものであるが、因果と言う表現は 現在の時代に、よく使用され、その範囲はあらゆる部分に及んでいる。 同じ意味の縁起と言う表現は、現代では、因果と言う表現とは、異なるものとして 使用されている。ここを見ても、縁起と因果の理解が仏教として行き渡っていないのである。 現代では因果の理法が支配し、その因果から脱出することはできないものと思われている。 ここを見ると、日本および世界には、仏教が死滅しているといっても過言ではない。 上座部仏教ではどうかと思うが、同じであるといって良いとおもう。なぜなら、 仏教のありがたみの感謝の思いが、今まで聞かれたためしがないからである。 正法を認めないものは、永遠に輪廻するが良いのだ。
- 640 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/21(土) 10:10:14 ID:5tioWko0]
- イエスの教えを間違って伝えたのは、イエスを非難しメシアと認めなかったファリサイ派や律法学者みたいな権力側の人たちだろうけど
表面上は博識で熱心なくせして、文字すら書けないイエスの周りの人たちのほうが実際は善良で神から愛されていた。 これは現代でも変らない、だからイエスがもし再臨してもこういった人たちは気付かないし認めない。
- 641 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 10:33:36 ID:Fyrw3AxF]
- ノーシスっていう公民館でやっている教会みたいところで性の英知を教えないキリスト教や仏教はみんなインチキだと教えられました。
ということはノーシスが本当のキリスト教だとか仏教だといいたいらしいけど・・・。 雰囲気がおかしいですね。金星に人が住んでいるとかいうと、資料を送りたいからとしつこく連絡先とか聞いてきます。 なんだか怖くなりました。 (変な雰囲気の変な人たちの中に引き込まれそうな感じで・・・) いろいろありますね。 www8.plala.or.jp/KgnosisAC/ 6523.teacup.com/68/bbs www31.ocn.ne.jp/~gnosisjp/ sorinsalala.web.fc2.com/
- 642 名前:素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. [2009/02/21(土) 11:34:59 ID:YBRtu8Wf]
- □悪魔の征服者(善悪)
「悪魔の征服者です〜煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり〜善悪の両者に汚され ません」(ブッダのことば) 「へびは女に言った〜神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです。女がその木を 見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから」(創世記) 「色かたちと、感受作用と、表象作用と、識別作用と、形成されたものと―わたしはこれではない〜悪魔・ 悪しき者は、尊師はわたしのことを知っておられるのだ」(悪魔との対話) 不死の境地は、思考も及ばず、神は知者の知恵を滅ぼし賢い者の賢さをむなしいものにする。五感も無い、 第六の思考も無い。平安の境地、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安。一切皆苦を悟り、 一切の苦悩無き喜びに満ちている。快楽などを享受せず安らぎに満ちている。 軽安・長寿というように、病気の人が欲望を享受せず、静かに安静にして病を治すという現象で解脱しな い人にも神通力・何でもできる神の影響を少し受けている。 肉体から離れ、つくられなかったら欲望も無く、あなたがたは何でもできる。 つくられざる存在から離れ、権威や栄華の拡大という妄執(悪魔)を得て欲望を持ったつくられた人々は、 得ようとして働く。五欲の対象・物欲・快楽を満たし、楽しみ暮らす。損をさせる者に敵意を抱き怒り争う。 殺人や盗みといった悪も生じ、悪を制するために争う。肉が肉を制して、煩悩の可能力が煩悩の可能力によ って世を制する。
- 643 名前:素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. [2009/02/21(土) 11:36:11 ID:YBRtu8Wf]
- 《軽安・長寿》
■形あるものの信仰対象物を捨て去ること 「この世またはかの世におけるいかなるかたちでも〜魚を殺すために餌が投げ込まれた」(神々との対話) 「偶像礼拝は貪欲他ならない」(聖書) ■くどくどと祈るな・呪文を唱えるな 「多くの呪文をやたらにつぶやいていても〜内心は汚物に汚れ」(悪魔との対話) 「異邦人のように、くどくどと祈るな〜みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」(マタ イ) 人を殺す形あるものの信仰対象物を捨て、呪文やくどくどと祈ることを捨て、願い事はもう叶えられたと して自分の思い煩い・欲念を捨てることに努め、 □世も自己の煩いも自分ではない 「この身は泡沫のごとくと見よ、この身は陽炎のようなはかない本性と見よ〜世の中は泡沫のごとくと見よ、 世の中は陽炎のようなはかない本性と見よ」(仏教) 「あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない」(ヤコブ) 「買う者は持たないもののように、世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。なぜな ら、この世の有様は過ぎ去るからである〜思い煩わないようにしていてほしい」(コリント) □誰もそなたのために働かない、富に仕えるな 「苛酷なることなく、貪欲なることなく万物に対して平等」(仏教)「公平とあわれみと忠実」(聖書) 「そなたのために仕事をしてくれる人々がいるのではない」(仏教)「働こうとしない者は、食べることも してはならない」(テサロニケ)
- 644 名前:素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. [2009/02/21(土) 11:37:19 ID:YBRtu8Wf]
- □慈しみのこころづかいが崇高
「母が己が独り子を命を賭けても護るように〜上に、下に、また横に、障害なく怨みなく敵意なき慈しみを 行うべし〜この世では、この状態を崇高な境地と呼ぶ」(ブッダ) 「敵を愛し、人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ〜恩を知らぬ者にも悪人にも、なさけ 深いからである〜慈悲深い者となれ」(ルカ) 形あるもの、偶像礼拝に肉となって殺されること無く、願い事をくどくどと祈り、また呪文のように意味の無 い言葉をつぶやく明らかに智慧の無い者とならず、既に叶えられたと信じて、供え物を霊が食べるなどと思わ ず、宗教的行為によって功徳があると思わず、葬儀によりつくられざる者となると思わず、 実際、つくられざるものの世界では過ぎ去るものは虚妄として、この身と世の中を泡沫のごとくと観じて、 自己とこの世の思い煩いを捨て去るように努め、偶像礼拝やくどくどと祈る行為を捨て去ること。買うと か生活のこころづかい、世のこころづかいのある者は、ないもののようにせよ。雑務少なく、生活も簡素 なもののようにせよ。それらから実際遠ざかり離れることにより、思い煩いを捨て善となる。形あるもの の信仰対象物は人を殺す。 万物に対して平等・公平だと心得、富に仕えず、欲するものがあれば仕事をせよ。肉の主人に誠実に仕え よ、耐え忍べ。母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみは素晴らしいと思え。人によくしてやり、 何も当てにしないで貸してやることは善いことと思うではないか。人がつくるものより、つくられざるも のに従え。他人はその人のものだ、誰でも自分の思考が正しいと思うな。他人の過失を探し求めず、あや まちをゆるしてやれ。 つくられたものに従属せず、他を頼りとせず自らを頼りとすることができる。 つくられざるその実があれば、言葉を聞けば、それが善いことだとわかり、後は自制心によって救われ る。つくられざるものを持たない人は、つくられたものの救いを探し求め滅びに至る。
- 645 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 20:50:16 ID:WixefKra]
- だから仏教とキリスト教は水と油なのか。
- 646 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 22:03:13 ID:9O/KAChd]
- >>645
きっとそうなんだ、どうして二つを分けたものでしょうかあ?
- 647 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 22:23:29 ID:9O/KAChd]
- >>638
五蘊は縁起現象であるから、実体が無い空相であるということを認めるか?
- 648 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 22:27:31 ID:n7jDahHF]
- いえ 結局はキリスト教のような嘘から人類は離脱するでしょう。
- 649 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 22:52:52 ID:9O/KAChd]
- 五蘊が空であることは、般若経の説くところであるし、般若心教の説くところとして有名である。
五蘊が空であることを認めないとすると、どのようは反論があるのか?
- 650 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 23:34:52 ID:t0m2KF6e]
- まず 書いてあるから正しい それが非仏教であるところから理解せよ。
- 651 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 23:38:38 ID:9O/KAChd]
- 書いてあるから正しいとは言ってないだろう?
お前がどうして同意しないのか、と聞いてるんだ。
- 652 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 23:42:39 ID:9O/KAChd]
- 返事が遅いんだよ。
判らないで、言っていたんだ、と言う返事もありだな?
- 653 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 23:52:22 ID:CDhBxoRb]
- まとめて書け。
- 654 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/21(土) 23:57:37 ID:9O/KAChd]
- 何だ、お前の正体が判ったぞw。
疲れたからそろそろ寝るが、お前はには、なんでも質問したら答えてやる。明日までに準備して於け。
- 655 名前:素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. [2009/02/22(日) 13:40:30 ID:juyqArCZ]
- 肉体無い世界があって、「一切の苦悩の無い喜び」なのである。そこは地上の苦悩も存在しない。悪しき者
につくられなかったら、一切の苦しみも悩みも無い境地とともに在り、 「生じたもの、有ったもの、起こったもの、作られたもの、形成されたもの、常住ならざるもの、老いと死 との集積、虚妄なるもので壊れるもの、食物の原因から生じたもの―それらは喜ぶに足りない。 それらの出離であって、思考の及ばない静かな境地は、苦しみのことがらの止滅であり、つくるはたらき の静まった安楽である〜これは最上の究極であり、無上の静けさの境地である。一切の相が滅びてなくなり、 没することなき解脱の境地である」(感興のことば ニルヴァーナ) 「一切の苦しみから解き放たれた境地」により、悪しき者につくられた人間の思い冷酷・残忍・無慈悲 に反発する、人間の状態では慈悲のかけらがある。 しかし、愛・慈悲だとか幸せだとか平和だとかで物質的な喜びや享楽、五感の喜びがある者は、土に帰 るだけである。人はそこを見ずに終わる。 神の言があって、《物質的な喜びや享楽、五欲の対象》を享受している時に、「そのようなことをしている と、朽ち土に帰る」悪魔のわざを滅ぼさないと、神を信じようが信じまいが土に帰る。地で生き続け、下界 から脱出できないと。
- 656 名前:素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. [2009/02/22(日) 13:41:40 ID:juyqArCZ]
- 生活のこころづかいのためにあくせく働いても、肉の欲・目の欲・持ち物の誇り、衣食があれば足れりと思
うように欲求から離れ平穏な心の内に満足していないと、人間というものは土に帰るということだ。 肉の思いの者は、全て土に帰る。その神の摂理に反する者はいないということだ。 信じたら神の摂理を認め、そのように努めるしかないのだ。中途半端な「なまぬるい」者は、その人に何も 益をもたらさないと語る。 まだ、無信仰で、この世の重荷に堪え、死んだら終わりを覚悟して、正々堂々と生きている人のほうが、そ の人にはまだ益がだろう。 「ひとを下界(欲界)に結びつける五つの束縛 貪欲・瞋恚・有身見(われ)とか(わがもの)とかいう観 念を離れぬ我執・誤った戒律や禁制を正しい修行方法であると執着すること・疑い」 「一切の事物は我ならざるもの」世も自己も。諸々の欲望に関する貪りを離れ、怒り・敵意・憎しみと いう肉の思いから離れ、邪まな見解を抱かず、静かに瞑想などをして安穏な心に満足して暮らす。 つくられざるものの存在は、諸々の欲求から離れて、静かな安らぎに努めれば、妄執を乗り越えつくら れざる者となる。神の右となれると。 イエスは下界に生まれ被造物となる人々が、殺人、盗み、無慈悲で苦しむのを防ぐために「愛」を説いたの であり、肉の欲・目の欲・持ち物の誇りを捨て去って、衣食があれば足れりとする思いとならないと、神の 望みである下界の暗闇からは脱出できない。 現代に至っては、信仰しても物質的な喜びあり、享楽やその他の諸々の欲望に関する貪りのある人々は、 「形ある札を拝んで」「くどくどと祈る」人々となんら変わりは無いと、神は語るのである。 死んで終わる人の慰めとしての「御利益宗教」となんら変わりは無いということだ。貪りのある人は、どの ような人も死んだら終わりと覚悟して生きること。
- 657 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/22(日) 15:22:06 ID:Mn0RfmhY]
- 釈迦は涅槃について一言も解説していない、ただ「それ」を涅槃と言っただけ。
- 658 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/22(日) 20:56:58 ID:tfGRBfRW]
- 仏教を語ってる その増上慢が非仏教 という事に気付かないのではこりゃ駄目だw
だからおまえは
- 659 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/22(日) 21:30:33 ID:NsookkH0]
- package Shinri;
public class Iesu extends Shaka{ public void Muhannmado(){ System.out.println("Allaahu akbar!");}}
- 660 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 18:25:47 ID:y/6EmWIW]
- >>658
仏教は、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ だよな。他人をたよりとした仏教なんて有り得ない。
- 661 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 19:44:02 ID:CWEsWw6Z]
- >>660
自分を島とするのは良いとしても、同時に法を頼りとしなければならないのですが、 自分と法とが一致しなければ矛盾分裂しますね?どのように整合性を説明できるのでしょうか?
- 662 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 19:48:47 ID:1/cuyoq1]
- 660「仏教は、この世で自らを島とし、自らをたよりとして、他人をたよりとせず、
法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ 」 @確か中村 元氏の考え方で以前テレビの教育番組「島」の認識が掴めませんでした ので詳しく「島」は河の中州のことかと思いますが、「自らの島とし」「法を島とし」 の所を解りやすくお教え願いますでしょうか?
- 663 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 20:42:55 ID:y/6EmWIW]
- >>661
一切の相をこころにとどめることなく、一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまる。 真理・真実は空相・無相であるから、世間における貪欲と憂いとを除け。 釈迦は精神の安定統一のため瞑想修行させたでしょ。 今でも、またわたしの死後にでも、誰でも自らを島とし、自らをたよりとし、人をたよりとせず、法を島とし、法 をよりどころとし、他のものをよりどころとしない。 人をたよりとしてはいけないから、自分で法を求めること。法でもいろいろあるよ。衣食は働いて正しく得ること なども仏教の法。世間における様々な憂いを自分で除こう、ああだろう、こうだろうと思わないようにするとか、 仏教は他人をたよりとしてはいけない。自分で学んで考えて行動できるようにした。 なんかの動物のたとえで、自らの尾を大切にすることで人に狩られる、無知なため他人に従属させられてしまう。 釈迦は、そんなことのないように、自分で考えて行動できるように法を説いた。 >>662 ひとつのことに執着しこだわらないほうがいいよ。それも仏教の知恵。自分をたよりとし、法をよりどころとして だけでもいいと思うよ。欲のない話で世間における貪欲と憂いとを除くものだから、仏教でも執着しこだわり、そ れが憂いとなると、無意味になる。
- 664 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 21:55:46 ID:CWEsWw6Z]
- >>663
>一部の感受を滅ぼしたことによって どのような感受でしょうか?
- 665 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 22:22:20 ID:IBOeMm/p]
- 頼むならそれなりの提題を示しなさい。
- 666 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 22:48:09 ID:CWEsWw6Z]
- >>665
どういう意味でしょうか?
- 667 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 23:03:16 ID:y/6EmWIW]
- >>664
仏教経典の流れを見ればわかるだろう。 真理・真実は空相・無相であるから、世間におけるこだわりや憂いに導く感受を滅ぼすことだろ。 釈迦は理法がわかるようにしたが、あまりにもわからない人を愚鈍と説いた。 貪欲も憂いに導くものだから、それを取り除くために熱心だったでしょ。そのような欲求に熱心な 人は釈迦を尊敬していない人だ。つまり仏の教えを学んで行おうとする人ではない。 働いて財を得た人が、全く使わぬことも自然ではないから愚劣だと説く。 そこらへんから、信者は貪って止まぬ激しい欲望に気をつけねばならないと思うのが普通。 仏教は自分の苦しみをどう取り除くのか、自分で考えられるようにしてあるのさ。 自分の今ある状態と、法とが一致する部分を自分で見つけて、愚鈍愚劣極まりない行いをす るなってことだよ。 仏教は他人に従属せず自分で学んで自分で考えて生きなさいという教えだよ。人を迷わない ように熱心に説法しただろ。 あまりにも愚鈍だと釈迦が生きていたら泣くぞ。愚鈍愚劣極まりない信者が、迷わないよう に教えた私の説法に迷ったと。 釈迦を尊敬するなら、自分をたよりとして、他人をたよりとするな、これは当たり前のこと だろ。
- 668 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 23:06:54 ID:CWEsWw6Z]
- >>667
法に頼るのと、自分に頼るのと、どちらを 先行させるべきでしょうか?
- 669 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 23:23:25 ID:CWEsWw6Z]
- >>667
>真理・真実は空相・無相であるから、世間におけるこだわりや憂いに導く感受を滅ぼすことだろ どんな感受なら良いのでしょうか?
- 670 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/23(月) 23:37:47 ID:64brmZyu]
- ↑ このような個人的趣味
- 671 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/24(火) 19:12:42 ID:h2IYRJ+s]
- 他人に盲従、自分で考えて行動できない人は畜生として法を説いたのが釈迦。
内的な心の安らぎを求めさせ、精神を安定統一させた。 内的な心の安らぎを求めず、精神が安定統一できていない人は、迷ったり苦しんだり して、他に拠り所を求める。 そこでヤクが自らの尾を大切にすることで人に狩られると。 もうその人は家畜のように、他を頼りとしてしか迷いや苦しみから逃れることができ ない。他人に従属し家畜のようになる。
- 672 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/24(火) 19:53:37 ID:WCrJzDoV]
- ●リチャード・コシミズ 【広島座談会2009.02.21】Richard Koshimizu
video.google.com/videoplay?docid=-6891360202794305694
- 673 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/24(火) 21:21:02 ID:8DWNxnTf]
- >>663
>一切の相をこころにとどめることなく、一部の感受を滅ぼしたことによって、相の無い心の統一に入ってとどまる。 一部の感受だけを滅ぼしてでは、それでは、無相の世界に入れませんよw。 >>667 >真理・真実は空相・無相であるから、世間におけるこだわりや憂いに導く感受を滅ぼすことだろ これを言うならむしろ、想及び行が良いのじゃないかな? そして、五蘊の一部を滅することは、五蘊の全部を滅するよりも難しいw。
- 674 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/24(火) 23:11:01 ID:h2IYRJ+s]
- >>673
釈迦ってのはなあ、バラモン教の反発だ。そこらへんがわかってないなWWW あんたが釈迦を本気にするなら、出家修行しろよ。そういったことは否定して、パソコンに向かって修行かいWWW 仏教修行僧のようなふりをして、三食きちんと食べ、世間の中で住んでいる。そういうグズどもは世の中にいらない としたのさ。 働かないで他人の家から貪る。働かないならわずかな食物で満足して暮らせと。貧しい人の慰めと、他に拠り所を求 めて他人に従わないといけない宗教形式から、内的な心の安らぎを求めさせ、恐れや不安、悩みを取り除く修養をさ せた。苦悩があるなら、静けさを求めそれらの苦悩を取り除くために修養する。そういった修養形式を残すための修 行僧であって、自然体の癒しを唱えただけである。変な宗教をさせないように自然の中で自然体の癒しをさせた。 あんたらのような三食食べ、所有物有り、パソコンに向かって仏教修行僧のふりをして無相世界に入れませんよなん ていうくだらない人間をなくすためだ。 修行僧は自分をよくととのえて自分の主になる、諸々の幸せを得る、自然的な修養によって悩み、迷いなどを除いた 人は、あんたのようなくだらないことを言う人より、迷いや悩み少なく世の中を歩んでいるだろう。 なぜ、修行僧は自分をよくととのえて自分の主になり、諸々の幸せを得ると言った?そこらへんの流れを自分で考え て見極めない人間は、世の中でくだらない修行をさせるだけだから、釈迦に従って世間から離れてきちんと修行せよ。
- 675 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/24(火) 23:35:41 ID:8DWNxnTf]
- 余白の空けすぎじゃないか。無駄を止めろ屋。
- 676 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/25(水) 00:22:12 ID:6E9Cw3We]
- まあ 649のような似非仏教者には674のような良薬が必要だということだ。
- 677 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 08:23:05 ID:9TmFVLHR]
- >>674
>修行僧は自分をよくととのえて自分の主になる、諸々の幸せを得る、自然的な修養によって悩み、迷いなどを除いた 人は、あんたのようなくだらないことを言う人より、迷いや悩み少なく世の中を歩んでいるだろう。 なぜ、修行僧は自分をよくととのえて自分の主になり、諸々の幸せを得ると言った?そこらへんの流れを自分で考え て見極めない人間は、世の中でくだらない修行をさせるだけだから、釈迦に従って世間から離れてきちんと修行せよ どのように、何を目的に、修行するかわからないなら、いくらお前のように修行修行といっても、 困惑するだけなのだ。親切に、修行と言うものを説明してもらおうか?
- 678 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 20:19:02 ID:dbgxtwBF]
- 釈迦の修行法は正しい。
人里離れた所でわずかな食物で瞑想する。 ウデーナ霊樹の地は楽しい。ゴータマカ霊樹の地は楽しい。七つのマンゴーの霊樹の地は楽しい。 美しい太陽を見、美しく晴れた朝に逢い、気持ちもよく起き上がった。 日も盛りの時、鳥どもが枝にとまっているときに、大きな森が鳴りひびく、それは、わたしには楽 しみと思われる。 人のいない林は楽しい。 正しい修行法により、最低でも森や林が憩いの場と感じられ、人の言論や言語表現された教えに執 着しこだわらない。 何も知らずに、世の人が欲求や快楽を求めず、自然の中での安らぎを感じることは、まだ仏を知ろ うとしている。 更に静かに瞑想する。 世の中は泡沫のごとしと見よ。世の中はかげろうのごとしと見よ。世の中をこのように観ずる人は、 死王もかれを見ることがない。 身体は泡沫のごとしと見よ。身体はかげろうのごとしと見よ。身体をこのように観ずる人は、死王 もかれを見ることがない。 更にその安らぎを楽しみながら、このように観ずるようにしている人は、やがて死王も見ることの ないニルバーナを知る。世の中がどうであれ、他人の言論がどうであれ、順応や反応もない絶対的 な境地に至る。
- 679 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 20:20:22 ID:dbgxtwBF]
- 常にそのようにしている人々は、死後もそのように絶対的な境地に至る。
しかし、多くの人々は、 妄執が人を生まれさせる。人の心が走り廻る。生存するものが、輪廻に堕している。人は、苦悩から 解脱しないのである。 ということも悟る。 業(行い)によって、生存者世界(欲界)は良くも悪くもなる。欲を絶たなければ再び欲界に生まれ、 苦悩も欲もある生存状態となる。 この欲界では、人の行いによって成立するわけであるから、 身に適したふさわしいことを為し、重い荷に堪え、努力する人は、財を得る。誠実をまもることによ って、良い評判を得、ものを与えるならば交友を結ぶ。 悪い行いをするな良い行いをせよ。求めて得られるものを悲しむな。劣っているとか勝っているとか、 中くらいであるとか迷うな。貪欲のために悩むのは愚かである。欲望を貪り、熱中し、溺れて、吝嗇で、 不正になずんでいが、死時には苦しみにおそわれて悲嘆する、「ここで死んでから、われらはどうなる のだろうか」と。だから人はここにおいて学ぶべきである。世間で「不正」であると知られているどん なことであろうとも、それのために不正を行ってはならない。 人が死んで簡単に苦しみを受けないということはない。安らぎを求めて欲を絶つ修行を行っていな いと、妄執という邪魔ものに打ち負かされて、再び生存状態に陥る。 林や森の中で静かに瞑想し、欲を絶つよう修行するか、この世ではありのまま何が人が暮らしにく くすることか、幸せになることかなど、オカルト宗教に頼ることなく、人が経典から学べばよい。 世間で妙なこと、不自然なこと、オカルト的なことに囚われる必要はない。 オカルト的な行為は、オカルト的な行為が残るだけ。そのような行為よりも、まだ欲や快楽を制し、 自然の中で楽しむか、世と自己とのこだわりを捨て、迷いや苦しみを取り除き、安穏な心に満足し ているほうが、その人は救われているだろう。真理・真実に忠実な救いである。
- 680 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 20:43:24 ID:dbgxtwBF]
- 釈迦は世尊でもあり、釈迦を信仰した人々がこの世で業(行い)の悪い人をなくす。
或いは釈迦と同じように、欲念を捨て去って、世間の諸々のことよりも静けさを楽しみ安住できる人 が、ニルバーナに至るということ。誰もその人を助けてくれるわけではない。 世間にあるものよりも、安らぎは虚妄ならざる真理であり、静かに瞑想を楽しみ、妄執を乗り越える ことができるのは、その人次第なのである。 それよりも目的があって生き生まれる人は、経典に書いてあるような善い行いができるようになれば よいのである。オカルト的な行為が、人々の目的を達成できる善い行いということではない。
- 681 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 21:39:32 ID:9TmFVLHR]
- >>678
>釈迦の修行法は正しい。 オヨヨヨw。ま、真面目にたくさん言ったものヨノ〜。 だが、だいぶ間違ってないかい?
- 682 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 21:53:58 ID:9TmFVLHR]
- 釈迦が悟りを開いたいきさつを知らないのか?原始経典を基に、解説などに紹介されているが。
- 683 名前:神も仏も名無しさん mailto:age [2009/02/27(金) 21:57:50 ID:tPukBrGL]
- 【修証義】
sugano.web.infoseek.co.jp/butu/syu-0.htm ◆第一章◆(総序) @第一節 仏教のねらい 生を明らめ 死を明きらむるは 仏家一大事の因縁なり、 生死(ショウジ)の中に仏あれば生死なし、但(タダ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(イト)うべきもなく、涅槃として欣(ネゴ)うべきもなし、 是(コノ)時初めて生死を離るる分(ブン)あり唯一大事因縁と究尽(グウジン)すべし。
- 684 名前:神も仏も名無しさん mailto:age [2009/02/27(金) 22:01:52 ID:tPukBrGL]
- 【修証義】◆第一章◆(総序)@第一節の大意
若い人であっても老人であっても、人生とはどうゆうことか、死とはどうゆうことかという人生の意義をあきらかにし、 自己のいのちとは何かという真実を求めて参究するのは、仏教徒にとって、もっとも大切なこころがけなのです。 この人生は無常なものではあるけれども、仏の教えを信じ行ずるのであれば、現実の苦しい人生にふりまわされません。 この生死という苦しい現実も、涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、 このいのちの事実そのものが、そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。 この無常なる人生そのまま涅槃(サトリ)と心得るべきです。このとき、はじめて、現実の迷いから解放される道が開けるのであり、無窮なる仏道修行がもっとも大切な心がけなのです。
- 685 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 22:09:30 ID:C9zZ3ZdW]
- >人が死んで簡単に苦しみを受けないということはない。
? >安らぎを求めて欲を絶つ修行を行っていないと、妄執という邪魔ものに打ち負かされて、再び生存状態に陥る。 ? >林や森の中で静かに瞑想し、欲を絶つよう修行するか、 >この世ではありのまま何が人が暮らしにくくすることか、幸せになることかなど、オカルト宗教に頼ることなく、人が経典から学べばよい。 ? >世間で妙なこと、不自然なこと、オカルト的なことに囚われる必要はない。 ? >オカルト的な行為は、オカルト的な行為が残るだけ。 ? >そのような行為よりも、まだ欲や快楽を制し、自然の中で楽しむか、 >世と自己とのこだわりを捨て、迷いや苦しみを取り除き、安穏な心に満足しているほうが、その人は救われているだろう。 >真理・真実に忠実な救いである。 偽タオイズムですか?
- 686 名前:神も仏も名無しさん mailto:age [2009/02/27(金) 22:10:22 ID:tPukBrGL]
- ◆第五章◆(行持報恩)D第六節 行持の報恩は仏の道
謂(イワ)ゆる諸仏とは釈迦牟尼仏なり、釈迦牟尼仏是れ即心是仏(ソクシンゼブツ)なり、 過去現在未来の諸仏、共に仏と成る時は必ず釈迦牟尼仏と成るなり、 是れ即心是仏なり、即心是仏というは誰(タレ)というぞと審細(シンサイ)に参究すべし、 正に仏恩を報ずるにてあらん。
- 687 名前:神も仏も名無しさん mailto:age [2009/02/27(金) 22:13:27 ID:tPukBrGL]
- 【修証義】◆第五章◆(行持報恩)D第六節の大意
今まで述べた諸仏とは、釈迦牟尼仏のことであります。 釈迦牟尼仏とは、2500年前のインドで覚られ仏陀となられた歴史上の人物と考えるのはまちがいで、 釈尊のさとりとは、生きている自分自身の純粋ないのちとこころそのものです。 過去、現在、未来にも、諸仏がさとられ仏になるときには、みな釈迦牟尼仏となられるのです。 これが即心是仏(ソノママノ心コレ仏)という仏であります。 このそのままの心是仏という仏とはいったい誰のことをいうのであろうか。ねんごろに真摯に実参実究することです。 たゆみない浄心精進の行持こそが、仏恩に報いることとなり、仏の道となっていくのです。
- 688 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 22:17:40 ID:AMLucO16]
- で 経典は知っているがさっぱり悟ってないのだろ?おまえ。
- 689 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 22:22:25 ID:AMLucO16]
- さらにいえば 修行に耐えられないからここでのたまうのさ。その自覚無しに。
w
- 690 名前:神も仏も名無しさん mailto:age [2009/02/27(金) 22:23:29 ID:tPukBrGL]
- ─ 道元禅師著『正法眼蔵 現成公案』より ─
仏道を習うというは、自己を習うなり 自己を習うというは、自己を忘るるなり 自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり 万法に証せらるるというは、自己の心身および他己の心身をして脱落せしむるなり 自己をはこびて万法を修証(しゅしょう)するを迷とす、 万法すすみて自己を修証するはさとりなり。 迷を大悟するは諸仏なり 悟に大迷なるは衆生なり。 さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
- 691 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 22:27:17 ID:9TmFVLHR]
- >>678
かわいそうだから少しは良いところも言ってやらなければな。ま、方向は間違っていないよ。
- 692 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 23:21:39 ID:9TmFVLHR]
- >>678
釈尊は29歳で出家し、35歳で常道したといわれている。これは定説で信用して良いだろう? さて、その成道だが、成道というのが正しいかどうか問題があるのだ。 つまり、35歳頃に、今までの自分を苦しめる修行の無意味さを悟り、もの(諸法)の真実を悟ったのである。 諸法は、縁起によりなっている幻に過ぎない、真実(実相)は、空相無相一相である、と知ったのである。 しかれば、ここでまずいわ無ければならないことがある。それは、釈尊のそれまで6年間の修行と言うものの、 無意味さである。真実を知らなかったが故に、無駄な修行をしていたということである。 お前はこの無駄な修行と、お前が言う修行を分別していない。それはなぜか? 真実の修行を明確に認識していないからである。それでは、釈尊が6年関してきた無駄な修行 に迷い込む恐れがあると言うべきだろう。お前は間違った修行方法に人を導く恐れが多大にあるのだ。
- 693 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/27(金) 23:48:21 ID:M4ol0fCL]
- 読んでない。
- 694 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 00:01:36 ID:RifbRE1U]
- >>692続き
釈尊は諸法の実相を知ってから、一週間ほど、座禅をしそれから成道を遂げられたのである。 その一週間に、正しい修行をされたのである。真実に至る種行を正しい修行と言い、 真実に至らない修行を間違った修行と言い、それは、釈尊の6年間の修行であり、外道の修行である。 そして正しい修行を八正道および12支縁起の法門としたのである。 八正道を中道とも言う。
- 695 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 08:54:06 ID:RifbRE1U]
- >>694続き
釈尊は6年間の修行されたが、その修行をさせたものは、信仰であった。 おそらくブラフマンを教えるバラモンへの信仰であったに違いない。 で、現代人がバラモン教を調べてみるなら、釈尊の心の内面を推定することができる。 バラモン教では、釈尊の言うような、理法が無いのである。理法こそブラフマンで無ければならないのに。 故に、理法を説かない、理法に基づかない修行を信仰とみなし、そのような信仰を、捨てよ、と釈尊は 教えるにいたったのである。これはまず最初の教えとなった。 キリスト教のイエスも、実は釈尊の言う理法により、真理真実を獲得するにいたったものであることを知らなければならない。 原始経典の「大パリニッバーナ教」にこの理法によらなければ、いかなる人も 真理真実に至れない、ことが述べられている。 この理法は優しく易しく苦しみを滅する方法なのである。 キリスト教は、縁起という理法を説かないのが欠点であり、これはバラモン教と同じである。 しかし唯一と言う真実を説く点で、バラモン教と異なる。このようなわけで、キリスト教は 修行と言うよりも信仰を強調することになるんである。キリスト教の信仰は盲目的な信仰ではない。 唯一を掲げる限り。
- 696 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 16:54:42 ID:RifbRE1U]
- 因果の理法なら、釈尊当時、知れ渡っていた。しかし、因果関係にあるものなら、
因の実体もなく、かの実体もない、と言う理法は、なかったのである。 これが釈尊の特異な点である。
- 697 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 21:38:43 ID:zt/z46kq]
- あいかわらずだな。 695-696は半分当たり。しかし根拠無い言い切りがあるので
そこはプゲラ以上でも以下でもない。
- 698 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 21:46:24 ID:l/mLGYcx]
- >>695
仏教教祖は信者を小馬鹿にしていたということだろうね。 涅槃寂静や諸行無常という仏教は完璧のように見えて、臆病な者だけの救い。 キリスト教の愛は、そんなことは乗り越えて、人に奉仕できるような立派な 人間になれるようなことを目標に教えたのだろう。 死んだらなんて思っているろくでもない奴のための涅槃寂静の仏教思想。 自分の苦しみを取り除くために精一杯の人のためだけの教え。
- 699 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 22:29:45 ID:RifbRE1U]
- >>698
人が正しい人になるということは、どれだけ周囲の人を利益することになるか、を考えてみるべきである。 そして、その利益は、限りなく伝播するのである。 ある人が自分の苦しみを解消した、とするなら、その効果はその人自身に留まらず、周囲すべての人に 影響するのである。それは同時に、理法による解消であるのだから、その理法が広まることになるのだ。 大乗でも、理法を広める以上の布施行はない、といっている。 さて釈尊の教えたり法の修行は、世間の考えるようなものと、まったく反対の方向を目指すものである。 世間ででは、努力と言うと、欲が導く努力である。釈尊の言う努力は、無欲の努力である。 一切は空相無相一相であるので、それに反して、目に付くまたは心に残ることは一切してはならない、というのが 正しい努力になるのである。盲目なものは、目明きを求めない努力するのである。 病気のものは、病気の回復を求めない努力をするのである。求めるものがないようにする努力なのである。 これほど、簡単な易行があるだろうか?キリストの教えもこれなのである。
- 700 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 22:39:11 ID:hWm+f07P]
- 馬鹿だな、お前ら
仏陀もイエスも同じ所から来た使者だ 教えが違うのは遣わされた民族・文化が異なるからだよ やろうとしていたことは同じだが方法が違うだけのこと
- 701 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 22:45:32 ID:RifbRE1U]
- 諸法の真実が空相無相一相であるということの根拠は、諸法とは因果関係にあるものであるということである。
そこで、人が考える一切は因果関係にあることを認めなければならない。 自分のことだけが因果関係にあるのではない。他人の考える世界も因果関係にあることを知らなければならないのだ。 此れゆえに、誰かをうらむとか、怒りを潜ませるとか、このようなことを思うものは、 未だ諸法の実相が空相無相一相であることを理解していないものといわなければならない。 また自分の過去の過ちを後悔するのも、同じに実相を理解していないものである。 また、個人のことに止まらず、国家からの抑圧と言うものを恨む事もあってはならない。 自分であろうと、他人であろうと、国家からのもんであろうと、いや世界からのものであろうと、 一切とは、これらすべてを含むものを言うのであるが、これらすべては、縁起、因果関係にあるものであると知り、 それゆえに、実体がない幻であることを理解し、幻であるが故に、嘘であるとみなし、 今までのように、それに固執してはならない。それ以上にないものとみなさなければならないのである。 かくして人を支配するものは一切ないことを知らなければならないんである。こうして人は自由になれるのである。 無相一相こそ真実なのである。あなかしこ、あなかしこw。
- 702 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 22:54:47 ID:hWm+f07P]
- 仏陀もイエスも見た目はふつうの人間の姿をしていたが、実際には人間ではない
また仏陀もイエスも特定の修行によって聖者になったわけではない 仏陀が瞑想の結果悟りを開いたなどというのは後世の人々が作り上げたたわ言だ
- 703 名前:神も仏も名無しさん [2009/02/28(土) 23:00:09 ID:RifbRE1U]
- >>702
>また仏陀もイエスも特定の修行によって聖者になったわけではない 真理真実が唯一なものである以上、真理真実を否定しない方法と言う点で、 特定な修行になると思われるが?真実は無相。
- 704 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/02/28(土) 23:05:04 ID:hWm+f07P]
- ID:RifbRE1Uよ、あんたは字句に囚われすぎている
真理真実などと言葉で言うのはたやすいが、では真理真実とは何か? 無相?w やはり特定の語句に囚われている 自分の言葉で真実を語るがよい 全ては幻などというのは少なくとも我々一般人のレベルでは詭弁だよ
- 705 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 00:11:27 ID:fJq0eT5G]
- >>704
>無相?w お前は最大の間違いをしてる。 なぜ無相一相空相が真実ではないと思うのか?
- 706 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 02:33:08 ID:EN6ikHX3]
- 705いいぞ そのまま一人相撲を続けなさい。それでこそおまえだ。
- 707 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 02:36:51 ID:EN6ikHX3]
- 702と700はさらに上行く大馬鹿者だな。 本人はさぞ幸せだろう。
- 708 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 08:10:51 ID:fJq0eT5G]
- ★「まことでないものを、まことであると見なし、まことであるものを、ま
ことでないと見なす人々は、誤ったおもいにとらわれて、ついに真実に 達しない」
- 709 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 10:12:53 ID:ZNopofmt]
- >>704
自分の言葉で教えを語るから、教えが捻じ曲げて伝えられる。 >>702 仏陀もイエスもまことでない修養方法から、荒野での修養法を語った。 自分の悩みがあって信仰する人の依存的な宗教体質では、何も改善されないからだ。 修養している人は、恐れや不安を抱いて依存的な宗教に頼らない。 仏陀はあわれむ修行完成者、母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみを崇高 として説き、イエスも慈悲を説き、イエスは殺されて信仰対象となった。 自分の悩みで信仰しなくなった人は、次にあわれみ深い者となれ、慈悲深い者となれ ということだ。
- 710 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 11:59:24 ID:ZNopofmt]
- >>699
>大乗でも、理法を広める以上の布施行はない 大乗経典 ・・・余のために、塔を建てたり、僧院を建立したりする必要はなく・・・ ・・・僧の集団へ供養する必要はない・・・ 釈尊の一定した態度 塔を建てなかった。僧院を建立しなかった。 修養している間は、わずかな食物で暮らし、その人に食物を与えることで与える人も慈悲あり。 八正道により、 僧は人の家で貪らない。衣食は働いて正しく得る。 日本の大乗仏教僧に習ってはならないのが、ひとつの教えの施与。
- 711 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 12:38:38 ID:fJq0eT5G]
- >>699
正しい人になろうとしないで、今のままでいるとするなら、今のままと言うのは、 隣人に悪を働いている状態と言うことであるから、悪を働いている以上 常に悪が身に寄せているのである。
- 712 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 12:40:03 ID:fJq0eT5G]
- 以下に、因果の世界と無相の世界が説かれている。
ルカ 0627> しかし、聞いているあなたがたに言う。敵を愛し、憎む者に親切にせよ。 0628> のろう者を祝福し、はずかしめる者のために祈れ。あなたがたの頬を打つ者にはほかの頬を向けてやり、 0629> あなたの上着を奪い取る者には下着をも拒むな。 0630> あなたに求める者には与えてやり、あなたの持ち物を奪う者からは取りもどそうとするな。 0631> 人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。 0632> 自分を愛してくれる人を愛したからとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、自分を愛してくれる者を愛している。 0633> 自分をよくしてくれる者によくしたとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でさえ、それくらいの事はしている。 0634> また返してもらうつもりで貸したとて、どれほどの手柄になろうか。罪人でも、同じだけのものを返してもらおうとして、仲間に貸すのである。 0635> しかし、あなたがたは、敵を愛し、人によくしてやり、また、何も当てにしないで貸してやれ。そうすれば受ける報いは大きく、あなたがたはいと高き者の子となるであろう。いと高き者は、恩を知らぬ者にも、悪人にも、なさけ深いからである。 0636> あなたがたの父なる神が慈愛深いように、あなたがたも慈愛深い者となれ。
- 713 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 12:47:41 ID:ZNopofmt]
- 信者はこの世の悩みや苦しみがあって信仰する。
その信者から、僧院の建立、僧の衣食住、自動車、子供らの大学進学などで 布施を求めることなど仏教では有り得ないわけだ。 釈尊の一定した態度で、世の中の悩みや苦しみがある人は、修養者として、 欲望を制し、荒野など人里離れた所で修養する。 わずかな食物で暮らす修養者に対し、食を与える人は慈悲ありと教える。 また、世の中でも食乞う者に食を与える人は慈悲ありと教える。 修養者も修行を完成して、一切の生きとし生ける者をあわれむ者となり、 他人の家から貪らず、衣食は働いて正しく得、母が己が独り子を命を賭け ても護るような慈悲を崇高として世の中を遍歴する。 釈尊の教えを正反対にしたのが、日本の大乗仏教僧である。
- 714 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 13:27:15 ID:ZNopofmt]
- 空相無相一相という言葉すら消滅するものだから、
世の中で悩み苦しむ人を荒野など人里離れた所で修養させた。 苦しみを滅する法は、自己の沈黙を目指すしかないのである。 世の中に戻って、或いは世の中でそれほど悩みのない人は、 敵意や憎しみにより争うことは悪いという心があるだろう、 僅かな者に執着し、取り戻そうとして争うことは愚かだとわかるだろう、 人によくしてやることが善いこと、何も当てにしないで貸してやることが 善いことだとわかるだろう、 我が物と執着せず、分かち与えることを善い教えだとわかれ、 母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみは素晴らしいとわかるだ ろう、 修養しない信者にも、そういったことを教えた。
- 715 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 13:39:21 ID:fJq0eT5G]
- 正しいというのは、関係が正しいということに他ならない。
正しい人は、関係を正す人である。あらゆる関係を正す人である。 このような人が、利己的な人であるはずがないだろう? 正しいとは、真理真実にかなっているということである。 正見とは、真理真実である無相に適って見るということである。 無相という判断基準があり、かつそれが目標である場合、自分の今見てる状態 が正しいか正しくないか判るのである。
- 716 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 17:06:45 ID:ZNopofmt]
- 正しいのは有りのままの行動。
世の中に悩み苦しみがある人は、世の中から離れて悩み苦しみのないように 修養する。有りのままの行動により、苦悩を滅する。貪欲から離れれば平等。 その悩み苦しみを抑制できた人は、肉の主人に仕え誠実に働く。誰もその人 のために働いてくれる人はいない。 自分が豊かに食しているのに、目の前の人が飢えに苦しみ乞うのに、少しも 食物を分け与えないことは、普通しない。 他人の意向や思考もその人のものであり、自分の意向や思考が他人にも正し いことであるということはない。だれかが、あなたをしいて一マイル行かせ ようとするなら、その人と共に二マイル行きなさいと。求める者には与え、 借りようとする者に断らないことをよしとして受け入れよ。 他人との関係を正せる人は、相手の意向や思考を尊重できる人であり、 その人の意向や思考が、その人自身を害したり、他人を害したりする場合 は、母が己が独り子を命を賭けても護るような慈しみで、注意したり止め させようとすることも大事なことである。 人の意向や思考が人々を制することはない。もしもできているなら洗脳さ れているからである。互いに他人の意向や思考を尊重できるようになるこ とが、人と人との関係改善なのである。 人々が互いにゆるし、相手によくしてやろうとするような慈しみがあれば、 世の中で人に対する悩み苦しみも少ないから、教えを信仰させた。
- 717 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 17:11:35 ID:ZNopofmt]
- 他人との関係を正せる人は、相手の意向や思考を尊重できる人であり、
人々の意向や思考を制覇できるほどの、意向や思考はない。
- 718 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/01(日) 23:45:12 ID:Y/+63qD8]
- つまり イエスと仏陀は相通じないということか。
イエスは根拠無い妄想を説き 仏陀はありのままの真理を説く。根拠在り。
- 719 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/02(月) 18:20:26 ID:8/5kh9Ws]
- イエスもありのまま。
健康な人は医者はいらない、いるのは病人である。 病人には医者はいるし、言うことを聞かない殺人者には妄想でもなんでも 抱かせて信仰させる。 仏陀はありのまま。 貪欲を捨て、悩みなく自然は楽しいという人は健康的な精神。
- 720 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/02(月) 21:53:31 ID:rHAjzf69]
- >健康的な精神。
こんなものあるの?
- 721 名前:tibyaku [2009/03/02(月) 22:02:45 ID:NeqXVvp3]
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健康な人が病気になるのは、70%心の病いが原因で身体が病気になります。 心の健康を回復したらそれに遅れて身体も健康になります。
- 722 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/02(月) 23:13:05 ID:rHAjzf69]
- どんな心が健康なの?
- 723 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/02(月) 23:17:34 ID:rHAjzf69]
- 先ほどNHK ロシアのキリスト教復活の事案を取り上げていた。
キリスト教が論理的なものであることがぜんぜんロシア教会においても、 説明されていない事実を見た。此れでは、宗教はアヘンであるといわれても仕方がない。 本当の宗教こそ絶対の科学なんだがね。
- 724 名前:神も仏も名無しさん [2009/03/03(火) 05:22:58 ID:UUemFDCq]
- だったら科学やれよ。
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