- 1 名前:神も仏も名無しさん [2008/10/19(日) 12:03:01 ID:ykzfCh0C]
- やはり真理真実〈実相〉が大事なのであって、それを説くものが誰であるかは、
本質的問題ではないと思う。 一層の研鑽に励もう!
- 222 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/07(日) 13:03:39 ID:RkO9sQUf]
- 彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている。その手紙の中には、ところどころ、わかりにくい箇所もあって、無学で心の定まらない
者たちは、ほかの聖書についてもしているように、無理な解釈をほどこして、自分の滅亡を招いている。愛する者たちよ、それだから、 あなたがたはかねてから心がけているように、非道の者の惑わしに誘い込まれて、あなたがた自身の確信を失うことのないように心がけ なさい。 ペテロの第二の手紙 3. 16−17 誤っても神は情欲にあると考える非道極まりない者の惑わしに誘い込まれて、地獄に投げ入れられないように気をつけなさい。
- 223 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/07(日) 14:18:48 ID:rX51JQQN]
- >>222
>彼は、どの手紙にもこれらのことを述べている これらのこととはどのような事をさしているのでしょうか?
- 224 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/07(日) 16:20:29 ID:j3NU/a1S]
- 「一般的にいって、新約聖書の中には、まぎれもない生まれ変わりについてはっきりと語られて
いることに人々は気付いていない。事実、多くの人々が、宗教的観点から生まれ変わりのことが それほど大切なのであれば、聖書の中でそれについての言及が殆どないのは何故か、と質問す る。それに対する明白な答えの一つは、少なくとも新約聖書の中では生まれ変わりが事実である ということが、当然のこととされていたことである。---ではこのような結論を導き出す根拠となる証 拠を調べてみることにしよう。 再生誕の教えが当然の事とされている第一の徴は、マタイ伝11章13〜14節と16章13節とにある。 イエスが弟子達にこう尋ねていらっしゃる。《人々は人の子を誰と言うか》(マタイ伝16章13節) す ると弟子達はこう答えている。《或る人はパプテスマのヨハネ、或る人はエリア、エレミア、また預言 者の一人》(マタイ伝16章14節) 過去世においてそうであったのでない限り、イエスがこれらの人々 の内の誰であったと考えることがどうして人々にできたであろうか。エリアとエレミアとは何世紀も前 の人物である。洗礼者ヨハネに至っては、その頃殺されたばかりで、生まれ変わりは有り得なかっ たはずである。しかし、彼の霊がイエスを鼓舞したはずだと考える人々がいたようである。当時の 人々にこのような話し方ができたとすれば、それは明らかに生まれ変わりを当然のものと受け取っ ていたからである。イエスが実際に質問に答えていらっしゃるということは、イエスが生まれ変わりの 教えを承知し、かつ、それが正当であると考えておられることを示す。イエスご自身は弟子達に対し て洗礼者ヨハネが過去世において本当は誰であったかを語っておられる。《すべての預言者と律法 との予言したるは、ヨハネの時までなり。もし汝ら我言を受けんことを願わば、来るべきエリアはこの 人なり、耳ある者は聴くべし。》(マタイ伝11章13〜14節)
- 225 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/07(日) 16:21:41 ID:j3NU/a1S]
- したがって、イエスご自身の考え方によれば、エリアは洗礼者ヨハネの人格に宿って地上に戻っ
てきたのである。この事はマタイ伝17章12〜13節の中でも繰り返され、確認されている。《[我汝らに 告ぐ。エリアは既に来たれり。然れど人々はこれを知らず、反って心のままにあしらへり。かくの如く、 人の子もまた人々より苦しめらるべし。]ここに弟子たちパプテスマのヨハネを指して言い給ひしなる を悟れリ。》(マタイ17章12〜13節) ------(生まれ変わりについての)第3回目の言及は、一盲人についての質問として行なわれて いる。弟子がイエスに尋ねる。《ラビ、この人の盲目にて生まれしは、誰の罪によるぞ。己のか、親 のか》(ヨハネ伝9章2〜3節) 他の生において罪を犯さぬ限り、どうして人間は生まれ出る前に罪を 犯すことができようか。使徒達は盲目という結果をきたした罪の種類を聞いているのではなく、誰が 罪を犯したかを聞いているのである。このことは、罪を犯す行為自体が、このような悲惨な結果をも たらすことを当然のこととしているのである。さらに又、罪はその男が前世において犯したかも知れ ないし、或いは彼の両親が犯したかも知れないのである。ということは、両親の罪は子供達に報いと してかぶされる(これは聖書の教えである)こと、および、魂は〔生まれ変わって出てくる低我パーソ ナリティーよりも〕前から存在すること、したがって、前世での〔低我パーソナリティー〕の過ちに対して は、返報をする・・・ということを暗々裡に意味する。イエスは使途達がこのような質問をするのをはね つけてはいらっしゃらない。もしも生まれ変わりの教えが、イエスの御心に合わないものであれば、イ エスは弟子達に、ナンセンスなお喋りだとおっしゃったであろう。彼は単に違った態度をとられただけ である。 (即ち)《この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れん為なり。》(ヨハネ伝9章 3節)というお答えは、カルマ(したがってその当然の帰結である生まれ変わり)が必ずしも正しくは理 解されていないこと、および、人間の身に降りかかる災難は必ずしも、人間の責任とすべきではない ことを意味する。-----」(聖書の中の再生誕とカルマの教え/ジニーン・ミラー)
- 226 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 07:57:33 ID:PxXGKh0w]
- >>222
日蓮は、男女の交合の喜悦が南無妙法蓮華経である、と教えている。 それで、創価の女どもは、男を付回し(ストーカー)、あらゆる犯罪を犯す。 創価の男どもは、創価の女どもの欲望を満たす手助けに全精力を傾注する。 性狂といわれる所以である。 日蓮は、自分こそ仏教の極意を説くものだという。その極意が男女の喜悦のようだ。
- 227 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 12:17:58 ID:1l6/8IYE]
- >>224
>マタイ17章12〜13節 「人の子」は称号です。単に人間という意味にも使われるほか、預言者への呼びかけにも使われてます。 ダニエル書では「人の子のようなもの」の出現(7:13)が予言されてます。 高慢な「獣」が裁かれた後、この出現によってすべてが彼に服従し永遠に続く統治が行われるという、 新しい時代の到来を予言した。それにあたる人は誰?ということで 世間でこの人だろう、と言われてる面々が列挙されたわけです。 それだけの話ですね。イエスをほめるヨハネがエリヤと称されるのは マラキ書3章23節で「恐るべき主の日」の前にエリヤを遣わす、と書いてあるからでしょう。 続く文章によれば、彼は、地上を破滅させないよう、父の子の心を、子の父の心を向けさせる存在とされます。 エレミヤ書には新しい契約が結ばれるという予言もありますが、 新約聖書にはイエスをこうした「新しい時代をもたらす存在」 「聖書に予言された存在」にしようとする記述にあふれてます。 彼がロバに乗ってきたことすら予言されていたことにするほどです。 先に書いたように、(旧約聖書では)エリヤは天に引き上げられ、死んでません。 イエスの臨終の言葉を聞いて「エリヤでも呼んでるのか」という人がいたことは、 彼が(遠く離れたその時代でも)地上の人々に手をさしのばす存在だという 信仰・考え方があったことを示しているのでしょう。 そして、福音書にある通り、エリヤやモーセ(こちらは死んでます)は天に住まっています。 少なくとも福音書記者にとって、エリヤが死んでおらず、加えて天上にいるのに、 別の人を「エリヤ」と呼ぶことは矛盾するものではなかったわけです。 イエスがよくたとえ話で教えを説いたこともこれを了解しやすくしたと思います。
- 228 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 12:19:36 ID:1l6/8IYE]
- >>225
旧約での罪への応報もまた「神の業」です。 罪への罰として神が災いを人やイスラエルにもたらすわけです。 親の罪でもなく、本人の罪によるものでもないということは 「前世」が現世での状況に影響する、という教義が否定されるということです。 現世での「生まれつきの盲目」という結果を生む罪は、「生まれる前(前世)」にしか犯せないからです。 そして人間は生きている限り、善行したり罪をおかします。 よって、イエスのその発言は「前世」の存在を肯定するものではないということになります。 「低我パーソナリティー」という概念を新たに導入して辻褄を合わせようとしているということは、 ジニーン・ミラーさんもそこらへんの矛盾を自覚なさってるんでしょう。 フィルターを用意しないとその場で否定されてしまいますからね。 この当時、他宗教の観念が実際にそこに流入していたのかもしれませんね。 ともあれイエスは「本人の罪により、生まれながらに盲目にもなる」という考えを否定したわけです。 それに対して、あくまで「神の業」が人間の生を定めると述べました。 各人が歩む運命という重大事についてナンセンスで済ませるわけにはいかなかったのでしょう。 相手にしたら認めていることになる、という理屈こそナンセンスです。
- 229 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 12:24:50 ID:1l6/8IYE]
- >>226
>日蓮は、男女の交合の喜悦が南無妙法蓮華経である、と教えている。 出典は何でしょうか。
- 230 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 17:29:59 ID:iAyORQAG]
- >>229
層化が用いている日蓮の遺文集で、御書と彼らが言ってるものだ。 残念ながら、そこを引用できないが、それの根拠となる大乗経典がある。 それは理趣経という経典で、それに関係した教えである。しかし、その経典は 快楽が真理真実である言っていないと思う。日蓮が読み違えているのであると思う。 日蓮は、法華経自体をも読み違えている人であり、すべての仏典を読み違えている。 読み違えているというか、大事な仏の知恵、真理真実としての空諦を理解していないのである。
- 231 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 20:23:20 ID:iAyORQAG]
- 肉欲と真理真実の関係を論じたいときは、この理趣経を題材にするのがベストだ。
- 232 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 21:01:43 ID:iAyORQAG]
-
第一段 欲望は浄らかなり(大楽の法門) 金剛さったの章 その最初の教えは「一切の存在(法)は清浄である」という教えである。このことについて、大日如来は十七の清浄なる菩薩の境地をあげて次のように説かれた。 男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である。 欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である。 男女の触れ合いも、清浄なる菩薩の境地である。 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。 男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。 男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である。 自慢の心も、清浄なる菩薩の境地である。 ものを飾って喜ぶのも、清浄なる菩薩の境地である。 思うにまかせて、心が喜ぶことも、清浄なる菩薩の境地である。 満ち足りて、心が輝くことも、清浄なる菩薩の境地である。 身体の楽も、清浄なる菩薩の境地である。 目の当たりにする色も、清浄なる菩薩の境地である。 耳にするもの音も、清浄なる菩薩の境地である。 この世の香りも、清浄なる菩薩の境地である。 口にする味も、清浄なる菩薩の境地である。
- 233 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 21:04:59 ID:iAyORQAG]
- >>232つづき
以下の続きが大事なのである。 なにがゆえに、これらの欲望のすべてが清浄なる菩薩の境地となるのであろうか。これらの欲望をはじめ、世のすべてのものは、その本性は清浄なものだからである。 ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、 すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう。 金剛手菩薩よ。この清浄なる境地を生み出す真実なる知慧の理趣(みち)を聞かされたならば、すべての障りは速やかに消え去り、 光り輝く菩提(さとり)の道場(にわ)に入ることであろう。すべての障りとは、貧りや瞋りなどの煩悩の障り、法(教え)を聞きえない障り、 悪業のみをなす障り等で、これらすべての障りを積み重ねても、地獄の境涯に落ち入るようなこともなく、 重い罪を作ったとしても、それを消滅することは難しいことではない。
- 234 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 21:08:14 ID:iAyORQAG]
- >見る智慧の眼である般若を開いて
とあるように、この般若の知恵に基づいて、キリスト教や、仏教の、その他の宗教が禁ずる 、肉欲の教えを、判断しなければならないのである。
- 235 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/08(月) 21:16:14 ID:iAyORQAG]
- 大乗経典に言う般若の知恵が、原始経典に言う般若の知恵と異なるところが少しでもあるものなら、
大乗経典は、釈尊の教えではない、と断言しなければならない。しかし、同じなら、 大乗経典を釈尊という正覚者の教えそのものであり、その異なる展開に過ぎないと判断しなければならないのである。 そして実に、この般若の知恵こそ、キリスト教のイエスや預言者の知恵であり、 古代ギリシャの哲学者の説く真理真実であることを知らなければならない、と思う。
- 236 名前:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ [2008/12/08(月) 22:19:57 ID:LEBvrHBW]
- 被造物である人間が造られざる存在(唯一の神)を希求するのは、自分の粗雑な思考をおさめるため
〔神いわく〕ひとは、どれだけの日時にわたって修行者の行いを行うべきであろうか?もしも自分の心を 制することができないならば。 〔尊師いわく〕亀が諸々の肢体を自分の甲羅のなかにひっこめるように、修行僧は、自分の粗雑な思考を おさめとり(神々との対話) 結局、被造物である人間である以上「世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない」を知るだけである 「もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この桑の木に、『抜け出して海に植われ』と言ったとして も、その言葉どおりになるであろう」造られざる存在を知っても、人間の状態ではそれほどの信仰はない。 「すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、彼らは、価なしに、神の恵みによ り、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである〜どこにわたしたちの誇りがあるのか。 全くない」(聖書) 勿論、神は「肉の欲、目の欲、持ち物の誇り」の無い「地上のものに心を引かれない」『神の右』の世界を 知っておられるし、被造物の人間のことも知っておられる。 「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった〜御子によって、この世が救われるためで ある〜真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らか にされるためである」(ヨハネによる福音書)
- 237 名前:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ [2008/12/08(月) 22:21:59 ID:LEBvrHBW]
- たとえ言うことを聞いて守れなくても、神によって被造物が善をわかるようにされたのだから、人間の思考
によって枉げてはいけない。 「情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである」(マタイ) 「欲情が邪道と呼ばれる」(神々との対話) 「何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな」(マタイ) 「善を喜び〜すなわち『わたしは何を食べようか』〜『今夜はわたしはどこで寝ようか』家を捨て道を学 ぶ人は、これらの憂いに導く思慮を抑制せよ」(ブッダのことば) 「わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であっ たときに着せ、病気のときに見舞い〜『主よ、いつ、わたしたちは〜」(マタイ) 「学び修めた賢明な人は、食物を用意して、食乞う人々を飲食物をもって満足せしめよ・貧窮なる人々、 旅行く人々、宿無き人々、乞う人々に施しとして与えよ」(神々との対話) 肉欲を満たすことを誰もが善いこと、正しいこと、清いことと考えてはいけない。 人をあわれんでも、本当に正しい人は、自分を意識せずに行い、自分は正しい人、善人と誇らない。 肉欲を満たすことを正しい・清いとできないように神によって決められているのである。目の前の人が、 飢え苦しんでいるのを自分を善人と誇らず助けることは、本当に正しい人と決められているのである。 被造物である人間が信仰を増そうとするなら、肉の思いの行為を離れることで、肉の思いでいる時は、 言葉を受け入れ、誇らないでいることで、少しずつ真理に近づこうとする。
- 238 名前:文明を怒る神 ◆OKXFxAJlCQ [2008/12/08(月) 22:23:39 ID:LEBvrHBW]
- 【下界はこの世】
「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。不作法をしない、 自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ」 「自分たちをあがなって下さった主を否定して、すみやかな滅亡を自分の身に招いている。また、大ぜいの人 が彼らの放縦を見習い、そのために、真理の道がそしりを受けるに至るのである。彼らは、貪欲のために、甘 言をもってあなたがたをあざむき、利をむさぼるであろう〜神は、罪を犯した御使たちを許しておかないで、 彼らを下界におとしいれ、さばきの時まで暗やみの穴に閉じ込めておかれた」(聖書) 「究極の理想に通じた人が、この平安の境地に達して〜能力(神通力)あり、直く、正しく、ことばやさしく、 柔和で、思い上がることのない者であらねばならぬ。足ることを知り、わずかの食物で暮らし、雑務少なく、 生活も簡素であり、諸々の感官が静まり、聡明で、高ぶることなく、諸々のひとの家で貪ることがない。他の 識者の非難を受けるような下劣な行いを、決してしてはならない〜諸々の邪まな見解にとらわれず、戒めを保 ち、見るはたらきを具えて、諸々の欲望に関する貪りを除いた人は、決して再び母胎に宿ることがないであろ う」(ブッダのことば) 平安の境地を知れば全てわかる。冷酷・無慈悲を避け、怒り・憎しみ・敵意・怨み・妬み・思い上がりな どを避け、それらの思いが発生したなら、速やかに取り除こうとする。 他人から貪り取ろうとせず、諸々の欲望に関する貪りを除こうとすること。 執着するもとのある人は、愚人と認めて、それを誇らないこと。
- 239 名前:NAS6 ◆o1AYEkZmQU [2008/12/09(火) 09:29:37 ID:zTK5DlYs]
- ホントはお釈迦様が悪いんだけど
俺が悪いことにしとくよ と キリストは十字架にかかりました オリジナルラブです
- 240 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 18:22:12 ID:uk8yMNMe]
- >>238
ぐだぐたと訳の分からんこと言ってないで、正しい禅定でも修してはどうか。
- 241 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 18:51:34 ID:jNkhPeK3]
- >>232
経典ってびっくりすること書いてあるんだね! 仏教やっている人って、そんな思いを込めて、信仰している。
- 242 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 21:16:55 ID:9b7Fd/1E]
- >>241
びっくりしてはいけないのだ。 これのことはすでに原初から言われていることだ。 具体的に性行為を表現したのはこれが始めてであるが。 どんな恐ろしいことが現前しても、それは縁起現象であるので、実体はなく、 清浄があるのみである、ということをしっかりと信仰しているのが仏教徒であり、 真正のキリスト教徒、回教徒、その他の聖者である。
- 243 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 22:13:02 ID:jNkhPeK3]
- >>242
でも、彼女のいない人はどうするのだ? 正しい禅定とかで、彼女が見つかり、その幸せがつかめると? 男女関係は人生の中で大きなウエイトを占めているからね。。。 仏教の正しい禅定って何?それでその幸せが得られる仏教の教えは 人生の根本的な問題解決だからね。 どうすれば彼女が見つかるのだろう..............
- 244 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 23:03:11 ID:9b7Fd/1E]
- >>243
>彼女のいない人はどうするのだ? 仏教でもその他の宗教でも、彼女を作ることを良いこととしてはいない。 仏教では、釈尊が阿南という弟子が、結婚の式を挙げたその夜、説得して 出家させたという話がある。結婚して家庭を持つということは、 ニルバーナを目指す方向と反対の方向に進むものなのだ。
- 245 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 23:22:58 ID:jNkhPeK3]
- 男女が抱き合って満足するだろ?
どんな男女が抱き合っても、現前しても、それは縁起現象であるので、 実態はなくでゴマカスのかい?それじゃ、仏教っていんちきじゃん。 それともソープランド? 仏教がいんちきだから、普段から坊さんに布施して仏壇拝んでおしまい ってわけ? いんちきすぎて、まともな人間はそれに気づきしないだけになるな。 信者は世の中の笑いもの(WWW
- 246 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 23:29:18 ID:9b7Fd/1E]
- 仏教でも、回教徒同じに、負傷不滅という真理真実を説く。
いまだかって何かが生じたことはなく、未来においても何かが滅するということはない、というのが心理真実 である、という道理が導かれるのだ。あなたが結婚し、子供を何人儲け様とも、それは真理真実ではなく、 真理真実には、結婚とか、子供の誕生などというものは無い、ということになるのである。 これが印理真実であるので、結婚を求めて執り行うということは、真理真実を求めるもののすることではない、ということになるんである。
- 247 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 23:32:55 ID:9b7Fd/1E]
- 訂正
回教徒同じに→回教徒も同じに 負傷不滅→不生不滅 心理真実 印理真実→真理真実
- 248 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/09(火) 23:38:29 ID:jNkhPeK3]
- 異性を愛し、かたく抱き合うのも、清浄なる菩薩の境地である。
男女が抱き合って満足し、すべてに自由、すべての主、天にも登るような心持ちになるのも、清浄なる菩薩の境地である。 欲心を持って異性を見ることも、清浄なる菩薩の境地である。 男女交合して、悦なる快感を味わうことも、清浄なる菩薩の境地である。 結局仏教って、仏壇拝んで坊さんに布施させられておしまい。 できない人には、ゴマカスだけ。普段、詐欺まがいの教えだから、お経って読まないんだ ろうな。やっぱりな、エッチは菩薩の境地だけど、エッチは真理真実でないとかいって、 仏壇拝んで、布施しろだけだよ。
- 249 名前:明解 [2008/12/10(水) 08:19:00 ID:Cm73g50p]
- この世の真理真実は、唯一神が知っている。
唯一神の心を知れば、この世の真相がわかる。
- 250 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/10(水) 18:17:15 ID:Ybm3c/Sc]
- 色も音も香りも味も満たされる世になり仏壇は満たされぬ目的を果たす
ように作られる また満たして飽きた場合、人類は捨て去る場合も有り 得る 大陰唇・小陰唇の扉を開き、その中にある大事な物を拝むよう作られ、 毎日同じような行為ができるようにしてあるではないか カラオケでストレスを発散するように、声を出して教本を読み(お経) 文字を声を出して読むことにより、健脳となるようしてある 男女関係もただの感覚によるもので、毎日女性性器の扉を開けば欲心が 薄れていくように、仏壇の扉を開き、その中の大切な物を拝むことは、 きちんと、人間が生き続けるために大切な行為をさせているのである 人間の感官は実態はなく、行為そのものを同一化することによって、 生命が後々まで続くように、忘れないようにさせるために仏壇はある のだよ
- 251 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/10(水) 18:34:04 ID:Ybm3c/Sc]
- 色も味わいも音も香りも満たされぬ時代は簡素であり、その時代が来るまでの
準備期間であった 簡素な仏壇から現代の仏壇に至った理由はある 人々が色や味わい音や香りといったものに満たされ続けた場合、人類の存続に かかわる重要な行為を忘れてしまう場合も有り得る そこで大陰唇・小陰唇の扉を開き、その中にあるものは大切なものとして行為 だけは忘れさせないように、仏壇の扉を開き拝むことは大切とする理由はある のだよ そしてストレスによる性欲の減退、健脳により子供を養えるようにしてあるの だよ 今はまだそのような時代ではないが、遠い未来、そのようなことが起き得ると 予測して、仏壇を拝む行為はあるのだよ きちんと科学的な要素はあるのだよ
- 252 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/10(水) 21:24:31 ID:+tBGyGNS]
- >>248
いかにあるような、条件付であることを忘れないでください。 欲望が満たされた状態ばかりではなく、悲惨な状態もまた、菩薩にとっては清浄な状態なのです。 一切は縁起しているものゆえ、一切は空相無我であることを理解しているので、菩薩は、一切に心が動かされることが無いのです。 「ゆえに、もし真実を見る智慧の眼である般若を開いて、これら一切をあるがままに眺めるならば、 あなたたちは真実の智慧の境地に到達し、すべてみな清浄でないものがないという境地になるであろう。」
- 253 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/11(木) 18:50:34 ID:Zw0SXLQu]
- この清浄なる境地を生み出す真実なる知慧の理趣(これを般若の知恵といっている)を聞かされたならば
そして、それを理解し信仰するにいたるなら、その人は仏の子となって誕生したものであり、 仏の家系に連なるものとなったのである。信仰を完成すること、これが修行を完成することなのであるが、 これを完成すると親である仏と同等の仏となるのである。 イエスが、信仰が足りないといわれたのは、この修行が足りないという意味であると思う。 また、ニコデモに、あなたは生まれ変わらなければ天国に入れない、といわれたのは、 この神を信仰することに目覚めなければならない、という意味であると思う。そうでなければならないはずなのだ。 この点、キリスト教はなんら説明しないので、大事な教えを、致命的に欠いているのであると言わなければならないと思う。
- 254 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/11(木) 23:55:45 ID:5Rn89JtB]
- >>230
その「御書」のタイトルだけでも教えて頂ければ結構です。
- 255 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/12(金) 03:23:20 ID:lUXdP0O/]
- >>254
その遺文のタイトルを知っているなら、出し惜しみをしません。 熱心な創価学会印に聴けば教えてくれるかもしれません。私はそうして 知ったのです。 そして、わかったときはここに掲載してほしいです。
- 256 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/12(金) 09:58:56 ID:lUXdP0O/]
- www.sra.co.jp/people/aoki/Buddhism/RisyuKyou/RisyuKyou.html
理趣経
- 257 名前:宗教 [2008/12/12(金) 17:00:39 ID:wdHYK9on]
- >>1 仏教もキリスト教も教えは同じと思う。
自分の欲望を抑えて、分け与えましょう。ということ。 お釈迦様は例えば、朝ご飯を食べたとして、昼ご飯の備えをしなかった。 何ももたないのだから。家も、お金も、服も。 托鉢とはそういうこと。 働かないということではない。 キリスト教も金持ちが天国へいけるなら、象が針の穴を通る方が簡単と いったという。 金持ちはお金を持っている。全く正反対のことをしているのだから、 その一事で、教えとは正反対ということになる。 仏教にしても、キリスト教にしても、後の世には、正しく伝わっては いない。以前、仏教の本を探したが、お釈迦様はそのようなものを 残していないことがわかった。キリスト教も同様。 後の人が書いた書物が一杯ある。名残はあると思うが。 日本の仏教だが、鎌倉ぐらいにできたものだが、 大名がいばっている時代に、正しく伝えられなかっただろう。 (念仏を唱えて救ってもらおうとは、名残もない。) カトリック教会なんてのは、所業を見ると悪魔と思う。
- 258 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/13(土) 09:38:29 ID:TuWe+Nfb]
- >>255
この件について裏をとってはいないということですね。
- 259 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/13(土) 10:23:47 ID:fYUwOm/d]
- >>258
熱心な創価の人から聞いたのは、創価関係のスレにおいてでした。 二度その文面を取得しました。そのスレのそのレスを探したのですが、もう無いのですよ。
- 260 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/13(土) 18:11:15 ID:fYUwOm/d]
- 立川流というのがあったそうだね。そしてそれはかなりの影響力があり、
真言教徒の対部分を信者にしたというではないか? この理趣経の説いてるところが正しく理解されなかったのだ。 大楽というのはニルバーナのことである。
- 261 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/13(土) 18:21:09 ID:cpL5A0PO]
- 自分で検索してみたところ
四条金吾殿御返事が出典のようです。確認がまだでしたら 層化サイトの御書検索で「男女交会」でぐぐってみてください。
- 262 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/13(土) 19:37:18 ID:fYUwOm/d]
- ここにどのような理法があるといえる?押し付けでしかない。論理の無い押し付けなのである。
「まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを、煩悩即菩提・生死即涅槃と云ふなり。 生死の当体不生不滅とさとるより外に生死即涅槃はなきなり」。まさしく男女の交わりの時に南無妙法蓮華経と唱えることを、 煩悩即菩提、生死即涅槃というのであります。 そもそも人間の男女の交わりというものは、人間ばかりではなく、あらゆる生きとし生けるものの大事な働きであります。 虫の世界でも鳥の世界でも獣の世界でも、男女、雌雄の営みがあって、新しい生命を産むわけであります。そのことによって生命が繋がり、 社会が維持されていくという大事な働きであります。 男女の交合は、六道の働きのうえに現れた一つの姿でありますけれども、 そのなかに煩悩即菩提、生死即涅槃の原理が具わっているわけであります。その妙法のもとにおける煩悩は、 煩悩を超えて菩提へと導くことができる。生死を超えて涅槃へと導くことができるのであります。
- 263 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/13(土) 19:43:46 ID:fYUwOm/d]
- とにかく日蓮の言うことは押し付けにほかならず、妄想に過ぎないのだ。
- 264 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/13(土) 22:06:33 ID:fYUwOm/d]
- しかし、インドで誕生した大乗経典は、そこには修行を完成した人が見受けられる。
インドではこれほど修行を完成した人が居たのだろうか?居たものといわざるを得ないな。 その理法が理法であるがゆえに、理解され、修行しやすいものだったからだと思う。
- 265 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/15(月) 19:58:49 ID:hvg2fZvA]
- 縁起してる現象には実体が無いので、男女の交合も、幻である。
ゆえに、遊女の罪も許されるのである。遊女は戒律の大きいものを破らせる 行為をするものだから、この世ではもっとも、値打ちの無い捨てられるべきものであるが、 そしてこの世では捨てられているものであるので、この世に未練は無く、反転して 天国に入りやすいのであると思う。反転とは、姦淫という罪の真実を知って、 真実の世界、天国に入ることである。一方この世で、よきことをしているという意識のあるものは、 その意識そのものがあるがゆえに、それが障害となって、天国に入りにくいのであると思う。 この世の名誉につながっているから。
- 266 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/17(水) 06:29:06 ID:DEIyse3S]
- ・・・・・・・・・・
- 267 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2008/12/17(水) 09:37:20 ID:PmRVlM2E]
- 10点
- 268 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/19(金) 05:23:28 ID:BXsGpCDX]
- ・・・・・・・?
- 269 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/19(金) 18:50:57 ID:BXsGpCDX]
- 福音書に、イエスの名の故に、差別を受けるときは、躍り上がって喜べ、とかの教えがあったね。
これはどうしてか判る?
- 270 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/20(土) 13:28:12 ID:6wYLa5he]
- >>269
真実につくものと、虚偽につくものと分かれることになるから。 虚偽につくものは、一切がうそ偽りのものを得ることになる。 真実につくものは、一切が真実なものを得ることになる。 差別行為が、いっそう真実に追いやり、またいっそう虚偽に追いやることになる。 であるから、差別というものは、単純に悪いものと考えられない、ということではないか? 差別するものが害を受けるが、されるものは害を受けない、というのが真実真理であるから。 ところで、真理の言葉の投稿が無くて寂しいね。
- 271 名前:喜捨愛 [2008/12/21(日) 12:41:56 ID:aAW4iF1t]
- ◆◆◆ 神を信じれば死も何も怖くなくなります ◆◆◆
神の愛を信じる人は、もう死も何も怖くなくなります。 神がどんな怖れもすべて人から取り除いてくださいます。 神は愛であり、愛はすべての恐れを取り除くからです。 もう、死の怖れも何の怖れもありません。あなたの愛がすべてです。 アーメン。主よ、あなたの愛に限りない感謝をささげます。
- 272 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/21(日) 16:03:51 ID:h6OdsnOQ]
- 般若経典群のひとつに、名前はやたらと難しいもので、梵語を漢字で音写したものかもしれない、その経典の中に、
菩薩が自分に情欲を抱いた何十人もの女たちに、幻を与えて満足させた、というところがある。
- 273 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/22(月) 06:13:03 ID:6qJGN9GM]
- >>271
愛というものはなんとなく判る。その愛が神なのか? その愛は不安定なものだ。神は信頼できないではないか? 不安定なのだから。
- 274 名前:自愛(ミズカメ) [2008/12/22(月) 07:38:21 ID:tD3UeEaW]
- 愛というものは、曖昧でよく解らないが、「愛でる」の愛なら解る。
愛でるとは、かわいがる・いつくしむという意味だ。 親が子を可愛がる・慈しむ心なら、誰だって持っている。 神の愛とは、神が人間を、我が子のように可愛がり、慈しむというものではなかろうか?
- 275 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/22(月) 19:25:26 ID:6qJGN9GM]
- パウロの愛の定義こそやかましい銅鑼のようだw。
- 276 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/22(月) 19:36:10 ID:UnAsIWfs]
- ひとつ言えるのは、聖書にしても仏典にしても
直接本人たちが書いた訳じゃないいうこっちゃ
- 277 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/22(月) 21:33:46 ID:6qJGN9GM]
- >>274
>神の愛とは、神が人間を、我が子のように可愛がり、慈しむというものではなかろうか? そのように慈しんでくれるのなら良いのだが。 どうだろう、津波で何十万人もの家族を形成する人の命を奪うのは神ではないのか? その他の災害ででも同じだ。どこに愛があるのだろうか?
- 278 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/22(月) 22:45:22 ID:6qJGN9GM]
- >>277訂正
>人の命を奪うのは神ではないのか→人が地震やその他の災害で命を奪われ る時、泣き叫んでも助けが無いのは、どうしてか?
- 279 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/22(月) 22:49:56 ID:6qJGN9GM]
- 何の助けも無いので、愛である神は居ない、というのが正しいのでは?
それとも、助けが無いのは、その人が神の子ではないので、なのか? 愛とは神のほうから人間に向かうものなのか?それとも、人間のほうから神のほうに向かうものか?
- 280 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/23(火) 05:28:26 ID:PrgCGKAg]
- モーゼは、心を尽くし神を愛せよ、自分を愛するように隣人を愛せよ、といった。
これによれば、神とは愛されるべき存在であり、隣人も神と同様に愛されるべき存在である。 ここで、神と隣人とは同一なもの、さらに、神と隣人と、自分とは同一なもの、では無いか? まったく同一なものである、というと反論もあると思う。神と隣人(人間)とは区別してるんだから。 それなら、神に対する愛と、人間に対する愛とは、どのような部分で同一であり、どのような部分で異なるのか? そして、神が愛なら、神を愛するとは、愛を愛するということになる。 それから、モーゼの教えの中には、神が人間を愛するという意味はまったく無い。 キリシタンよ、この点を説明せよ。
- 281 名前:自愛増す(シメマス) [2008/12/23(火) 10:22:30 ID:R6ewqJB9]
- 「神と隣人とは同一なもの、さらに、神と隣人と、自分とは同一なものであり、まったく同一なものである」
だから、神の愛は、自分自身を愛すること。 究極の愛だ。 「神・隣人(他人)・私」の三位一体は、即ち神ご自身のことである。 絶対唯一神は、唯一人の存在である故に、自らを愛するより他の愛は知らぬ。 それが、真理の真相だ。
- 282 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/23(火) 14:02:38 ID:PrgCGKAg]
- >神の愛は、自分自身を愛すること。
生老病死の自分が神か?こんな自分を愛する値打ちがあるのか?
- 283 名前:自真伝(シマツタ) [2008/12/24(水) 12:17:58 ID:2bf8Jo3d]
- 自分を愛せない人は、他人も愛せない、神も愛せない。
神の愛は、恋人を愛するようなものではないのでは? 神の自愛は、慈愛なんだろうね。 普く広く。 死ぬ人は不幸だと思いがちだが、必要あって生まれてきたのならば、必要あって、死なねばならない。 もともと、生があるから死があるものだし・・・。 神が勝手に生まれさせたというなら、勝手に死なせることもあろう。 恨んでも始まらない。 人間にはどうしようもないのだからね。
- 284 名前:理性 [2008/12/24(水) 13:03:19 ID:2bf8Jo3d]
- 「◆◆◆ 神を信じれば死も何も怖くなくなります ◆◆◆
神の愛を信じる人は、もう死も何も怖くなくなります。 神がどんな怖れもすべて人から取り除いてくださいます。 神は愛であり、愛はすべての恐れを取り除くからです。 もう、死の怖れも何の怖れもありません。あなたの愛がすべてです。 アーメン。主よ、あなたの愛に限りない感謝をささげます。」 本当に信じていますか? 明日、死んでも後悔しませんか? 迷いはありませんか? 心の底から、そう言えますか? あなたは、神の奴隷、神の道具になれますか?
- 285 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/24(水) 19:17:54 ID:0r5BJHcl]
- >>284
だから、その愛の説明を求めているんじゃない。 こちらは神の愛というものが判らないといっているのだから。
- 286 名前:理性 [2008/12/25(木) 08:16:44 ID:6Vs+Nc8T]
- あなたの心に愛はありますか?
あるのなら、それが「神の愛」です。 人間も神も心は同じですから。
- 287 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/25(木) 08:55:47 ID:dty/Uf8V]
- 愛とは何か対象を持つのではないのか?
それでは説得力は無い。 愛とは何を愛といっているのか?
- 288 名前:理性 [2008/12/25(木) 09:51:34 ID:XDZt9O6a]
- 対象は、我・私・自分。
そこから生まれる「自らの愛」。 出発点は自分自身。 神も同じ。 自愛が慈愛に至る愛から、博愛へ。 あなたは、愛を求めて与えることを知らないか? 自分を愛するように、神を愛するのだ。
- 289 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/27(土) 07:07:12 ID:LD7l6Kr/]
- ま、パウロという人は、キリシタンの模範のような人というべきなんだろう?
その模範が、わかりやすい道理を説かないで、押し付けの教えを宣伝するというのは、 イエスキリストにとっては、良い感じしないと思う。だいたいパウロは、 イエスの山上の垂訓などのような言行録にまったく言及すらしないのだ。 イエスのもっとも大事な教え、真実である神について説明しなかったのだ。 少なくともこのスレでは、パウロの愛の説明は、それから犠牲などというものは、 その嘘が暴露されるであろう。
- 290 名前:素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. [2008/12/27(土) 10:28:32 ID:Da28zcIq]
- (1)明らかに智慧のない行為の批判
呪文・くどくどと祈る行為、葬儀での成仏、供え物、偶像礼拝、宗教行為での功徳、誓い、 呪詛のような作法をしそれらに何らかの効力があると思う無知、意味の無い言葉を唱える 無知、他人に従属すること。 (2)つくられざる存在(正しい教えに導く仮の教え=方便) 自己も世の中も存在しない、自分の思い煩いも世のこころづかいも存在しない、一切の悩 み苦しみから解き放たれる。 一切が安穏で安楽で幸福。母が命を賭けても護るように、一切の生きとし生けるものに慈 しみの心づかいをしっかり保て。友のために自分の命を捨てること、これより大きな愛は ない。神を知っても、肉欲の悩みは無く、全てが苦しむことも困ることも無いことを何よ りも素晴らしいとしている。(あわれみ・慈悲) (3)つくられなかったほうが幸せであったということはない 自己こそかわいいものは存在しない。 この世で自己より愛しい者は存在しなかった、そのように他人も自己が愛しいのである。 自分を愛するように、あなたの隣人を愛せ。 道を修して学び修めた賢明な人は、食乞う者、かわいている者、貧窮な人、宿の無い人な どに施し与えよ。 (4)常に罪汚れない状態でなくてよい この世でつくられざる存在と共に在するように、欲望を捨て去る修行に励み、悩み苦しみ の無い状態を目指さなくてよい。誰もそなたのために働いてくれる人はいないと心得て、 働いて衣食、自分の幸せを適度に得ること。
- 291 名前:素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. [2008/12/27(土) 10:29:40 ID:Da28zcIq]
- (5)主
修行僧は自分をよくととのえて自分の主となる。修行僧は自分をよくととのえて諸々の幸 せを得る。闇から光、光から光。愛し合えばかなえられる。イエスは自分を主として、御 言に従えと教える。 (6)天にあるもの地にあるものをひとつに(中道) 地上で苦しいことがあっても、過ぎ去った天ではほんの僅かな出来事だと思うようになる。 つくられた世界は、つくられざる世界とは正反対に、肉欲もなく全くの幸せである。肉欲 を満たすごとに苦しみを味わっているようにして下さった。 たとえ、何も持たなくても、みじめな者であっても、肉を誇る者を愚かにし、誇らない者を 高いと神はして下さった。しかし、つくられないほうが良かったとつくられた存在を冒涜す ることはない。神は自然を創造し、快楽よりも自然は楽しいし、敵意・憎まない・怒らない ことは楽しい。ゆるすことは楽しい。愛することは楽しい。金に執着するよりも、働いて得 ることは楽しい。悩まないことは楽しい。つくられた者は、地上でつくられざる存在ととも に在することで、苦悩を回避できる。また、肉もある地上で、幸せを得ることも可能として 下さった。 苦しみの彼岸として、つくられざる世界が幸せとは限らないのである。 (7)魚を釣る 法を行えなかった人を、偶像礼拝で釣る。
- 292 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/29(月) 23:25:10 ID:rV1u7TVj]
- 愛の説明はキリシタンでもわかるように説明できないだろう。
愛というのは「ヨサゲ」な言葉なのだ。
- 293 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/30(火) 09:22:42 ID:5WrK03P3]
- 自分の命を賭けても護るような隣人の愛、妻子への愛が持てなかった
ので、仏教修行僧には結婚させなかった。 愛は説明して得られるものではないので、孤独な修行の道を選ばせた。 釈迦は世を尊ぶ世尊であった。
- 294 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/30(火) 11:21:02 ID:5WrK03P3]
- 修行を積んで死に打ち勝った修行僧は死を望み、死を思い自殺した。
師は答えた「思慮ある人々は、実にこのようにするのである。ゴーディカは 安らぎに帰したのである。」と。仏教的に思慮あり立派な人は、そのように すればよいとなる。 生存の貪欲を捨てきれず、世の苦悩を厭い離れ、安らぎを楽しむ人は、世捨 て人となり、世間にいないはずである。思慮ある人は、そのようにすべきで ある。 修行完成して一切の生きとし生けるものをあわれむ仏陀を目指す人は、生き ものをあわれむよう目指せばよいのである。
- 295 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2008/12/31(水) 09:29:54 ID:iX3/tYSp]
- ブッダは現代で言ったらヒンズーの聖者に近いよね。
- 296 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/31(水) 18:03:01 ID:TE/AEdhe]
- シャンカラの不二一元論。隠れた仏教徒といわれていたそうだ。
いやこれは仏教そのものだ。 ああ、真理は常に一つのものとして究められるのだな。
- 297 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/31(水) 18:25:49 ID:TE/AEdhe]
- シャンカラの不二一元論。隠れた仏教徒といわれていたそうだ。
いやこれは仏教そのものだ。 ああ、真理は常に一つのものとして究められるのだな。
- 298 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/31(水) 21:49:55 ID:TE/AEdhe]
- イギリスの哲学者バートランド・ラッセルは、神秘主義の特質を下記の3点にまとめている。「あらゆる分離は真実でない。宇宙は不可分な統一である」、
「悪は部分を実体と考えることから生じる幻影である」、「時間は実在しない。実在はまったく時間の外にあるという意味で永遠である」(RELIGION AND SCIENCE, 1935)。 このような神秘の特質は、キリスト教の普遍性を日常生活に不必要なまでに拡張した歴史を垣間見ることが可能で、 宗教を相対化することに成功した先進国の日本ではそういう現象は僅少である。 しかし逆輸入された神秘主義的新興宗教に悩まされオウムなどに至ったがその勢力は小さい。 wiki神秘主義
- 299 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/31(水) 23:32:11 ID:0Y7K45l0]
- ようはキリストは真理を悟ったけどそれが
とても神秘的だったので神のお告げか何かと言った 自分の頭でいろいろな常識や物事を疑って考えれば おのずと真理が理解できる キリストや釈迦の言葉を引用したりして云々する必要はない
- 300 名前:神も仏も名無しさん [2008/12/31(水) 23:38:06 ID:0Y7K45l0]
- まずさまざまな知識を取っ払って考えよう
キリストや釈迦もそのような無駄な知識を駆使して 真理を得たのでは無いのだし 今の世にある理解するのが難しいさまざまな知識はほとんど 無駄だといっていい
- 301 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/01/01(木) 05:02:10 ID:KCq5i6kW]
- シャンカラは釈迦並みの聖者。何故か日本ではそこまで有名ではないけど。
- 302 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/01(木) 12:18:21 ID:A2gTVZVh]
- >>301
シャンカラは、ヒンディー教徒で、ヒンディー教徒して伝道したからではない? ヒンディー教徒なら、芝紳とかの神々を祭る。仏教徒なら、それらは排斥しないまでも、 仏陀以上のものとはみなさない。仏教のほうが合理的だな。 しかし、シャンカラが尊敬されている以上、彼の教えが力があるということだろう。 ヒンディー教と言うのはワケワカメだなw。
- 303 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/01/02(金) 05:55:34 ID:zIeCaDRB]
- シャンカラはヒンズー教と言うよりもギーターや不二一元論。
ブッダの教えと同じく合理的だよ。
- 304 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/02(金) 12:00:18 ID:+Iur3xVc]
- www.ne.jp/asahi/hindu/vedanta/gita/gita_top.html?=gita_body.html
- 305 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/01/02(金) 18:53:32 ID:zIeCaDRB]
- シャンカラ不二一元論の有名な聖者は多い。
特に有名なのはラーマ・クリシュナ、シルディサイババとか他にも何人か居る。
- 306 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/02(金) 22:47:22 ID:+Iur3xVc]
- しかし、いずれにしても、真理真実として不二一元論が支持されているという、
ヒンディー教が繁盛してるということは、すばらしいことだ。 こうしてみると、真理真実が、道理として人々に受け入れられている と言えるんじゃないか? さて、縁起してるものは実体が無いが、縁起してるものは、これを厳密には、 縁起してるとみなし得るもの、これは一切をさすが、それぞれの異なる相は、平等に、 空相であり、空相は真実である故に、浄らかであり、浄らかなものは 光り輝くもので、美なるものである。この故に、浄土は、浄らかで美しい 世界なのである。
- 307 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/03(土) 09:15:32 ID:9/IWaaiQ]
- 人はそれぞれにあるものに執着しているから、その間違いを正そうとして、
一切のものは縁起している、一切のものは相対的に存在している、固定的に存在 してるものは無い、という真理が明かされる必要が生じたのである。 善も悪も実体としてあるものではない。善と悪は同時に生じた。
- 308 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/03(土) 10:39:57 ID:9/IWaaiQ]
- 善とは有身見を満足させるものであり、悪とは有身見を滅ぼすものである。
- 309 名前:S谷ナ夫 [2009/01/04(日) 00:25:39 ID:L7oC2bsD]
- バラサイババによると
イエスと仏陀はご同体らしいですね。
- 310 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/04(日) 06:51:32 ID:HvXy2KZI]
- >>309
バラサイババなんて聞いたことが無い。 詳しく説明してくれ。
- 311 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/04(日) 09:39:37 ID:HvXy2KZI]
- しかし、諸法の実装が一相であるという真理真実を説くものがインドには多いね。
ギリシャローマ世界でも、ここまで言い切っているものは、パルメニデスとプロチノス だけだ。彼らが教団を形成したという事実は無いんだな。いやないというと間違い。 あったが、それがインドに於けるように大きくなっていないんだな。 インドでは、この真理真実は、ウパニシャッドで完結しているようだが、それがBC 5世紀 。それ以前からベーダにおいて尊重されていたのである。 このように真理真実が尊重されてきた国はインド以外にあるだろうか?
- 312 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/01/04(日) 09:59:52 ID:excFnbDX]
- ヒンズー教のほうが仏教より人口が倍多いからね。それだけ聖者も多い。
- 313 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/01/05(月) 08:33:07 ID:/Y5xHFSD]
- 聖者って何を根拠に言ってるの?
似非真理語ってるやつ多すぎて笑える
- 314 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/05(月) 08:37:55 ID:uQyijKtY]
- しかし、ユダヤとパレスチナの問題。
あすこはすごく生活しやすい気候の土地だ。 しかし、人間関係の問題で、戦争状態なんだね。
- 315 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/05(月) 21:28:24 ID:phsX67db]
- 聖者とは不死の世界に至った人。この世から離れ、絶対的な境地に至ったため、肉欲を制す
ることにより平安を説く。その圧倒的な世界は、知らないとわからないため、救い主として 教えを語り、信仰対象となる。 敵を愛し、憎む者に親切にせよ。敵意なき怨みなき慈しみのこころづかいをしっかりと保て。 上では神の右に座し地上のものに心引かれてはならない。何も持たない者は楽しんでいる。 この世の有様は過ぎ去るからである。あなたがたは思い煩わないでいてほしい。 過ぎ去るものは虚妄である。ああだろう、こうだろうと考えても、それらは過ぎ去る。 肉の欲・目の欲・持ち物の誇りは神の愛はない。それらから厭い離れる修行。 世の中も自己も、絶対的な境地では自分ではないのである。 殺人・盗み・妬み・思い煩い・略奪・冷酷・無慈悲・非道・怒り・他をならかしめて自らの 利を欲する・他人の過失を探し求めることなどもないのである。
- 316 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/05(月) 22:10:42 ID:phsX67db]
- 人にはなかなかできない妄執(悪しき者の配下)を乗り越え、世俗的な欲望はないが神通力
(神のわざ)により、奇跡を起こす。それが聖者となった証。 普通の人には、その激流を渡ることは困難なのである。 また、わたしは聖者と名乗り認められることも、他人から聖者と言われることも本当はない のである。なぜなら、聖者は何でもでき、死人を生きかえらせることも、病人を治すことも、 容易いこととしてできるからである。 そして、この世の救い主として慈しみを説く。
- 317 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/01/05(月) 22:50:32 ID:QnchOxyK]
- そうですよね。
おそらく進化の最終地点なんでしょう梵我一如が。 地球の始まり〜プランクトンから人類までの進化 そこからイエスや釈迦までの長い道のりが創造主の意思で完成形なのだと思います。 ただ多くの人は迷妄に囚われてイエスと釈迦は違うのだと言い張りますけど。
- 318 名前:おてんば私立学院総長 ◆gqBBZUnUPk mailto:diligent@otemba p.e.w.u [2009/01/06(火) 01:02:15 ID:t9KNBlPu]
- >>314
18世紀の終わり頃までは、ガザ地区といえば綿織物の産地として栄えた平和で豊かな土地だったんですよ。
- 319 名前:S谷ナ夫 [2009/01/06(火) 02:21:56 ID:1Yo6nqqW]
- >>310
サティアサイババとそっくりなインドの聖者。 確かまだ四十代です。
- 320 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/06(火) 07:54:44 ID:zMMe3jem]
- >>319
シャンカラがどうしてインド最大の哲学者と言われるんでしょうか? 彼の功績は、やはり一元論をといているから、と言わなければならないでしょう。 しかし、それなら、仏陀を筆頭に竜樹世親、大乗の経典作者たちは、シャンカラに及ばないのでしょうか?
- 321 名前:神も仏も名無しさん mailto:sage [2009/01/07(水) 12:12:20 ID:2OoaEKMt]
- シャンカラは理屈だけでなく実践も伴っていたから。
- 322 名前:神も仏も名無しさん [2009/01/07(水) 23:19:55 ID:2B7JsB+c]
- うむぅ。
真理真実は一つであるが、その表現方法が異なっているのではないか? その表現方法がいくつでもあるということである。その表現方法により、 各宗派が生じているように思われる。 たとえば、ジャイナ教では、真理真実は無いという。真理真実というものが無いというのが 真理真実なのである。仏教は一切は無我であると説く、一切が無我であることが真理真実なのである。 真実真理は一つで無ければならず、されば、それは無相であることになるのである。 梵我一如というが、梵が真理であり、真理であるならそれは一つで無ければならず、 それに対抗するものがあってはならないのである。我がそれに対抗するものであってはならない。 これは畢竟、一切は無相であるといっているに他ならないのだ。
|
|