- 1 名前:天江衣 ◆mpcWaY0QicdY [2023/01/23(月) 14:22:29.02 ID:UKOl6dl3.net]
- -------------------------------------------
天にまします我らの父よ。 願わくは御名(みな)をあがめさせたまえ。 御国(みくに)を来たらせたまえ。 みこころの天になるごとく、 地にもなさせたまえ。 我らの日用(にちよう)の糧(かて)を 今日も与えたまえ。 我らに罪を犯すものを我らが赦(ゆる)すごとく、 我らの罪をも赦したまえ。 我らを試(こころ)みにあわせず、 悪より救いいだしたまえ。 国と力と栄えとは、 限りなく汝(なんじ)のものなればなり。 アーメン。 -------------------------------------------
- 431 名前:琴 mailto:sage [2023/01/29(日) 08:31:49.61 ID:3DC0/iY/.net]
- 『新約聖書』は初めから現在のような正典として登場したわけではなかった。
すでに教父たちの文書によって、 教会内で正典的に読まれる文書群には一定の振幅があったことは知られていたが、 20世紀のナグ・ハマディ写本の発見などにより、 初代教会の時代では、使徒の手紙や様々な福音書や黙示録など、 現在聖書に含まれるよりはるかに多くの文書が作成されていたことがわかってきた。 これらの文書は礼拝や信仰教育に用いられた。最初の数百年間には、 ある文書が正統か非正統かは大規模な教会会議ではなく 少人数グループの集会で決定されたと推定される。 信仰グループにより思想が異なり、聖典はグループごとに異なっていたことだろう。 このように初期の三つの世紀ではまだ「新約聖書」は確定しておらず、 様々な観点から書かれた多数の文書が乱立していたと推測される。
- 432 名前:琴 mailto:sage [2023/01/29(日) 08:39:41.02 ID:3DC0/iY/.net]
- その中で2世紀までには、
マタイ以下の四福音書とパウロの書簡集が有力視されていったが、 他の書物の優劣は未確定であった。 【【【2世紀のエイレナイオスとテルトゥリアヌスは、】】】 四福音書と13のパウロ書簡を含むいくつかの使徒書簡を、 【【【霊感によって書かれたものでヘブライ語の書物(『旧約聖書』)と 同じ価値を持つとした。】】】 それ以外の書物は尊重されてはいたが、 一般には『新約聖書』と同じ権威をもつとは考えられておらず、 ゆっくりと正典群からは排除されていった。 (WiKi)
- 433 名前:琴 mailto:sage [2023/01/29(日) 08:49:39.77 ID:3DC0/iY/.net]
- 現代の『新約聖書』の文書と一致する文書表がはじめて現れるのは
アレクサンドリアのアタナシオスの 367年の書簡である(『アタナシオスの第39復活祭書簡』)。 この手紙の中に書かれた文書群が新約聖書正典として一応の確定を見たのは397年の 第3回カルタゴ教会会議においてであった。 しかしこの会議においても『ヤコブの手紙』と『ヨハネの黙示録』の扱いについては 決着しなかった。 参 ( アレクサンドリアのHypatia, 350年から370年頃 - 415年3月))
- 434 名前:アストリッド(グノーシス派) mailto:sage [2023/01/29(日) 10:28:32.79 ID:tCKZ3R6e.net]
- エイレナイオスはグノーシス派を憎悪して徹底的に攻撃していたね。 ( 異端反駁が有名
ヒュパティアは当時の知の殿堂アレクサンドリア図書館長の娘として若くして多くの書物と接して、 やがて父親を補佐するようになっていたから、図書館がキリスト教徒によって破壊される前に グノーシス思想文献を読んで居た可能性もある。 グノーシス派の世界認識及び救済者(イエス)の教えは、旧約聖書との連続性ではなく、 プラトニズム及びネオプラトニズムとの連続性が認められるのが興味深い。 ヒュパティアはネオプラトニズムに立つ哲学者でもあったから、もしグノーシス派の文献に目を通していたならば、 果たしてどう思っただろうと考えてしまう。 当時最大の異端と目されたグノーシス派弾圧と、知性の象徴ヒュパティア教授の殺害及びアレクサンドリア図書館の破壊。 その後の、地中海世界・ヨーロッパ世界の暗黒の歴史を俯瞰すると本当に胸が痛む。
|
|