- 322 名前:考える名無しさん mailto:sage [2009/12/05(土) 12:08:51 0]
- あとは歴史の件だけど、それは「殺される側が嫌がる事情があったかなかったか」にかかってる
前から「殺される側が嫌がらないことがあらゆる面から見て証明されている例」を示せば、 殺していい例を示したことになると手続き的なはなしをしているのに、無理に決まっているからか、 なぜか議論の余地なく「殺してはいけない」としか言ってないかのように、キチガイは扱いたがるね んで、例えば生贄にされた人が、そのようにされることを嫌がらなかったかどうか これは、例えば殴って昏睡状態にさせたので、意識がないから嫌がることはなく 殺されてしまっただろう、みたいな例を考え、その人の意識においては、具体的には殴られたことが 悪かっただけで、死んだことについてはよくわからないまま終わっているのでいけないわけではない、 のようにキチガイ風に論じてみることはできる しかし、その人が生きていることでなしうる可能性の問題が残るし、見ていて、そのような目にあうのは 意識がなくても嫌だと判断することはできる そのような考えを人々が持たなかったとは考えにくい どちらでもよいのが当然なら、王族などが奴隷になりさがって死んでみた例がたくさんあっても よさそうなもんだろう また、、古い社会は、生贄やら奴隷やらの制度を持っていることで、その社会に生きる人々の 可能性が奪われており、それにより、生かされても殺されても悲惨なような状態になっている、 という側面があるわけ つまり、生きていて得られる利得を減らしておいて、どちらでも構わない状態に追い込まれれば、 死んでも構わないような心理に追い込まれるという話なわけだ これは、そのような構造に追い込まれることが、そもそも好まれるかという形で、総合的に とわれなければ、問題の是非を扱えない例なわけだ(そもそも殺していいか悪いかを判断する シチュエーションを作り出す前提事実に、一般的な偏りが見られる例だから) 社会構造により、価値観が変わってくるというのは、むしろ上のようにつっこんで考えていくときに、 人々の考えが傾向づけられる科学として理解されるべきことで、規範的な議論とそれを混同 するのは、何かを学習するときにもっとも厳しく避けられるたぐいの誤解だろう
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