- 1 名前:考える名無しさん mailto:sage [2009/10/26(月) 16:17:39 0]
- この問いは、哲学の出発点であると考えます。
人殺しをしてはいけないと(今の世の中において一般的には)されていますが、本当に人殺しはいけないのでしょうか? もし、人殺しはいけないとしたら、その論理的、普遍的な根拠があれば、それを教えて下さい。 但し、根拠としては、道徳や倫理やルールは除いて下さい。これらは時間的・空間的な普遍性がありませんから。 また、人殺しの定義から法律に基づくもの(死刑、正当防衛等)と戦争による人殺しは除いて下さい。論点がずれますから。 前スレ academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1254306049/ 前々スレ academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1249670614/ 最初ノスレ academy6.2ch.net/test/read.cgi/philo/1127238686/l50 (殺人を悪とするのは自明のことではない)
- 319 名前:考える名無しさん mailto:sage [2009/12/05(土) 07:48:51 0]
- >>316
「ケーキ=おいしい」は、ある対象に対する価値判断を定義と書くのがおかしいことを簡単に示しただけ。 美味しいの定義は、「全体主義国家の殺人=悪」でいえば、悪の定義を問題にすることに対応する。 「「全体主義国家の殺人=悪」は定義じゃないかもしれないが、」ではなく、定義ではない。 関係のない論点に話をずらして、「じゃないかもしれないが」などと書くほうがごまかし。 悪の定義は、全体主義国家や行為の定義を含まないんだから、「「悪」という事は定義できる、 その悪の定義から「全体主義国家の行為=悪(悪は定義)」は導ける」とは言えない。 君は、そもそも自分の文章の意味をとることすらできていない。
- 320 名前:考える名無しさん mailto:sage [2009/12/05(土) 11:34:26 0]
- >>313
「全体主義国家を悪とみる」のが日本の風潮に「過ぎず」、見方が変われば全体主義も「正しい」と考える 「お前以外」ってあんたみたいなキチガイだけでしょw 「全体主義国家を悪とみるのも今の日本の風潮だ」を文字通りに理解するならそれはただの事実でしょw >>319の言うとおり、自分の文章の意味をとることすらできていないトコが大杉w >>316 「〜を信仰するの〜には尊重の対象が入る」件には触れないの?w >>317 殺人=悪(「何故、人を殺してはいけないのか?」の答え)は、殺人(人の死)に伴う事情だと何回も答えられてるじゃん キチガイのアンタが、それは「お願い」に過ぎないと強弁して無視しているだけでしょうが お願いだろうと禁止だろうと悪だろうと、人の死に伴う事情が、人をしてそれを避けさせるのがフツーなのであれば、 それは「悪い」「いけない」と考えられるのは当然じゃん 「どんな結論でも出せる」という事は善悪に対しては思っているけど、絶対視はしてないって言うけど、 殺人を問題にしてるのに、人の死を判断に含めないで「社会が決めれば」正義になりうる、みたいな論法がOKだったら、 殺人・人の死のとこに何が入ろうが、社会は常に絶対に正しいってことになるじゃん 社会と社会の間には相対性を認めるけど、社会内部の相対性はできるだけ見えにくくしようってのは全体主義でしょ 相対主義を認めるなら個人の願望を言葉にすることを相対的に認めて議論しなきゃおかしいでしょ それこそが自分の意見を持つことだしね >>318 このスレは殺人の是非がテーマなんでしょ?だったら殺人について結論を出しただけで、 正義について多種多様な見解を認めてないということにはならないでしょ それに、殺人だけを見ても、人それぞれ、死を嫌がる結論は変わらないにしても、どういう理由や言い方で 嫌がるかとか、どの範囲の人について嫌がるかは違うことは認めた上での議論だよね? 個人個人の願望を集約した結果として、「人」について「殺してはいけない」という判断が成り立っている、 理由は願望が対応しているという理屈なんだから 君マジでアホすぎるよ
- 321 名前:考える名無しさん mailto:sage [2009/12/05(土) 11:51:45 0]
- >>320の「個人個人の願望を集約した結果として、「人」について「殺してはいけない」という判断が成り立っている、
理由は願望が対応しているという理屈なんだから」だけだと、またどうせ死にたくない願望があっても殺したい願望は あるだとか、実際に殺していいと考える人はいるとか言うんだろうから念を押しておくけど、 理由を問題にするんだったら、問いにあった答えじゃなきゃ理由にならないことは当然認めるから、 「何故、人を殺してはいけないのか?」を議論してることになるわけだよね? 殺したい願望をもつことは、死にたくない願望が殺したい相手にあることや、それから導かれる理解と何ら矛盾しないし (むしろ、殺したい相手が死にたくないと考えているに決まってるから殺したい願望が出てくる、すなわち「殺してはいけない」 ことをわかってるから、あえて嫌な相手についてそれを犯したくなるんでしょ?)、 実際に殺していいとされる例をいくつか考えても、 ・私欲・侵略戦争の類なら、私欲を正当化しているだけで人殺しについては判断がないだけだし ・正当な法的判断・戦闘行為の類は、「殺してはいけない」理由を認めた上で他の利益と比較するという判断で、 「殺していい」という判断ではない(特に正当防衛・緊急避難・自国民保護目的の戦闘行為の場合は、 「殺してはいけない」理由が比較される利益になる)。 法的判断の類で、「人を殺してはいけない」が大前提になっていることは、いわゆる謙抑主義や、 戦闘員と非戦闘員と区別があることを考えれば容易に理解出来るでしょ
- 322 名前:考える名無しさん mailto:sage [2009/12/05(土) 12:08:51 0]
- あとは歴史の件だけど、それは「殺される側が嫌がる事情があったかなかったか」にかかってる
前から「殺される側が嫌がらないことがあらゆる面から見て証明されている例」を示せば、 殺していい例を示したことになると手続き的なはなしをしているのに、無理に決まっているからか、 なぜか議論の余地なく「殺してはいけない」としか言ってないかのように、キチガイは扱いたがるね んで、例えば生贄にされた人が、そのようにされることを嫌がらなかったかどうか これは、例えば殴って昏睡状態にさせたので、意識がないから嫌がることはなく 殺されてしまっただろう、みたいな例を考え、その人の意識においては、具体的には殴られたことが 悪かっただけで、死んだことについてはよくわからないまま終わっているのでいけないわけではない、 のようにキチガイ風に論じてみることはできる しかし、その人が生きていることでなしうる可能性の問題が残るし、見ていて、そのような目にあうのは 意識がなくても嫌だと判断することはできる そのような考えを人々が持たなかったとは考えにくい どちらでもよいのが当然なら、王族などが奴隷になりさがって死んでみた例がたくさんあっても よさそうなもんだろう また、、古い社会は、生贄やら奴隷やらの制度を持っていることで、その社会に生きる人々の 可能性が奪われており、それにより、生かされても殺されても悲惨なような状態になっている、 という側面があるわけ つまり、生きていて得られる利得を減らしておいて、どちらでも構わない状態に追い込まれれば、 死んでも構わないような心理に追い込まれるという話なわけだ これは、そのような構造に追い込まれることが、そもそも好まれるかという形で、総合的に とわれなければ、問題の是非を扱えない例なわけだ(そもそも殺していいか悪いかを判断する シチュエーションを作り出す前提事実に、一般的な偏りが見られる例だから) 社会構造により、価値観が変わってくるというのは、むしろ上のようにつっこんで考えていくときに、 人々の考えが傾向づけられる科学として理解されるべきことで、規範的な議論とそれを混同 するのは、何かを学習するときにもっとも厳しく避けられるたぐいの誤解だろう
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