- 1 名前: ◆y9.bHL9DGo mailto:sage [2015/10/10(土) 03:57:18.16 .net]
- 日々の食事の話題を楽しく語りませう
画像があれば嬉しい 雑談もおkですがスレ違いはホドホドに 前スレ 生活保護の食生活を報告せよ599 [転載禁止]©2ch.net wc2014.2ch.net/test/read.cgi/okiraku/1443953523/ 生活保護の食生活を報告せよ600 wc2014.2ch.net/test/read.cgi/okiraku/1444132971/
- 859 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 20:58:35.72 .net]
- >>844
要は拾いばっかりなんだ
- 860 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 20:58:53.90 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 861 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 20:59:58.88 .net]
- >>850
全部転載だね
- 862 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:00:24.14 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 863 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:00:40.72 .net]
- >>852
何がしたいんだか
- 864 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:00:54.71 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 865 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:06:50.66 .net]
- >>854
フッシーはキチガイだからね
- 866 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:07:11.23 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 867 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:09:22.62 .net]
- 同じコピペの連投は低能すぎるよ
- 868 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:09:50.13 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配
- 869 名前:と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし
ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。 [] - [ここ壊れてます]
- 870 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:15:12.77 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 871 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 21:15:20.35 .net]
- >>859
日本語読めるか? ダメだと言われるとムキになって連投するなんて小学生か? ど阿呆!
- 872 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:15:35.35 .net]
- >>823
ツルツルしてておいしそうだ
- 873 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 21:17:33.24 .net]
- もう向こうのスレは手がつけられないな
- 874 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:17:43.16 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 875 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:20:09.01 .net]
- あっち行ったりこっち来たり忙しいな
- 876 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:20:35.33 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 877 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:23:50.52 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 878 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:25:20.34 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 879 名前:ハナモゲラ ◆hIOFK2ozYA [2015/10/12(月) 21:27:23.01 .net]
- ここまで元気に荒らす暇があるなら短時間バイトでもしてこい
- 880 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:28:38.68 .net]
- >>869
死ねカス
- 881 名前:こいろう ◆UCCvAhpw.M [2015/10/12(月) 21:30:25.97 .net]
- この機能知らなかったわ
www.ipodwave.com/iphone/howto/reachability.html
- 882 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:30:31.33 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 883 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:30:55.15 .net]
- >>869
グロ
- 884 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:31:16.97 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 885 名前:ハナモゲラ ◆hIOFK2ozYA [2015/10/12(月) 21:31:32.20 .net]
- iPhone6sのSoCに不具合報告あったな
今手出したらいかんな
- 886 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:32:04.91 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 887 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:32:19.59 .net]
- >>869
>>517からの流れみた? あと>>641の話とか だから突然過去ログとか漁って転載とか荒らしてるのかも
- 888 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:32:45.94 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 889 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:33:18.09 .net]
- >>875
死ねカス
- 890 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 21:33:21.75 .net]
- >>871
やっぱりあるだろ なきゃおかしいから
- 891 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:33:51.02 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 892 名前:ハナモゲラ ◆hIOFK2ozYA [2015/10/12(月) 21:35:57.62 .net]
- >>877
荒らしが父子家庭コテなのか他の誰かなのか知らんが 俺と同じくらいのキチガイであることは確かだな
- 893 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 21:36:28.55 .net]
- たい焼きまで出て来てワロタw
- 894 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:36:32.16 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 895 名前:こいろう ◆UCCvAhpw.M [2015/10/12(月) 21:36:57.33 .net]
- >>875
iPhoneには不具合無いけどIOSが多分不具合
- 896 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:37:26.84 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 897 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:37:59.08 .net]
- なにその必死な苦しい言い方
- 898 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:38:21.66 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 899 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:39:04.05 .net]
- 物理的に問題あったらリコールだろ
豚も頭が悪いな
- 900 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:39:35.33 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 901 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:40:31.35 .net]
- >>882
死ねカス
- 902 名前:こいろう ◆UCCvAhpw.M [2015/10/12(月) 21:40:41.75 .net]
- 物理的にはなんもない完璧
初めの復元さえ上手くやれば問題ない 2回目復元するの失敗した
- 903 名前:ハナモゲラ ◆hIOFK2ozYA [2015/10/12(月) 21:41:15.06 .net]
- >>885
SoC勉強してこい
- 904 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:41:22.35 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 905 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:41:23.11 .net]
- >>892
そんな話はしてない
- 906 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:41:59.93 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 907 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 21:44:04.40 .net]
- ずれまくってるこいろうにワロタw
- 908 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:44:13.30 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 909 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 21:48:31.56 .net]
- あっちでこいろうの牛スジ煮込みか何かの時の画像が、蒟蒻の雑煮とか言われてるわw
- 910 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:49:22.09 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 911 名前:ハナモゲラ ◆hIOFK2ozYA [2015/10/12(月) 21:50:39.55 .net]
- 蒟蒻の雑煮クソワロタ
- 912 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:50:51.84 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 913 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:51:31.15 .net]
- 以前フッシーがAA覚えたときもこんな感じの連投だったな
オナニー覚えた猿かよw
- 914 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:51:53.61 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 915 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:53:05.93 .net]
- 馬鹿だよね
- 916 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:53:39.93 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 917 名前:ハナモゲラ ◆hIOFK2ozYA [2015/10/12(月) 21:53:44.19 .net]
- もしこれが父子家庭コテだとしてなんの意味があるのか
普通にコテ出して話し合えば良い
- 918 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:54:59.16 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 919 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:55:15.16 .net]
- >>907
以前に突然コテつけて話に混じってきたときみんな避けて逃げていったじゃないの
- 920 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:55:43.30 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 921 名前:ハナモゲラ ◆hIOFK2ozYA [2015/10/12(月) 21:56:43.43 .net]
- >>909
あれは変なテンションだったような覚えがあるわ どんなキャラで通すにしろ普通にレスしてれば良いのに
- 922 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:57:14.08 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 923 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 21:57:53.87 .net]
- コピペ野郎うぜーな。
- 924 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:58:44.72 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 925 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:59:30.60 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 926 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:59:38.16 .net]
- >>911
無理だよ そんな謙虚さがあれば喪女のところであてつけに茶碗蒸し画像なんて出さないって 自己顕示欲が強いし豚と一緒で自分が一番すごいと思ってるし
- 927 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 21:59:51.70 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 928 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:00:26.30 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 929 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:00:57.89 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 930 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 22:01:28.45 .net]
- こいろうがあっち誤爆?ってる
まぁここでもスレチだからいいがw
- 931 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:01:49.74 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 932 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:01:57.44 .net]
- ほんとだw
- 933 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:02:13.38 .net]
- >>916
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 934 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:02:24.69 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 935 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:02:49.12 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 936 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 22:02:49.25 .net]
- こいろう今浪人持ってるんだっけ?
持ってるならここの次スレ建ててくれないかな
- 937 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:03:01.67 .net]
- 統失うどん
- 938 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:03:20.16 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人
- 939 名前:は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 http://www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 http://www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。 [] - [ここ壊れてます]
- 940 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:03:28.39 .net]
- >>909
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 941 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:04:01.62 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 942 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 22:04:19.35 .net]
- 次スレたつまで、コピペストップしてくれないかな
- 943 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:04:47.37 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 944 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:05:04.10 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 945 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:05:31.34 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 946 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:05:43.77 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 947 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:05:58.20 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 948 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:06:21.82 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 949 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:06:26.48 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 950 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:06:34.15 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 951 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 22:06:37.12 .net]
- 次スレ
生活保護の食生活を報告せよ602 [転載禁止]©2ch.net wc2014.2ch.net/test/read.cgi/okiraku/1444655157/
- 952 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:06:52.61 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 953 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:07:03.56 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 954 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 22:07:36.51 .net]
- >>940
おお、サンクス!
- 955 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:07:42.31 .net]
- 国民性で悪口とはほど遠い日本。日本人は悪口のない自国文化を誇らしいと考えているようだ。
悪口と言えばせいぜい馬鹿野郎くらいで、これは漢字でばらし書きすると「馬と鹿を見分けられな いバカな野郎’で、我が国に比べれば悪口とも言えないしろものだ。 何年か前、日本の長野の金剛寺というお寺の招待で日本に行ったことがあった。前にも何度か行 ったことがあるが、その時の訪問は少し特別だった。朝日新聞と日本国営放送NHK放送局、文芸 春秋など有名マスコミからインタビューの要請があり、記者会見形式でインタビューを受けることも した。このため、日本で図らずも有名人になってしまい、あちこち忙しい日程を送らなければならな かった。 ところが事件が起きてしまった。日本の某企業体会長と会う席で思わず15分程度遅れてしまった のだ。日本の地理が苦手で起きたことだったが、約束だけは正確に守らねばならない日本では、 それは小さくない事故であった。「アイゴー、本当に申し訳ありません。これは私が大きな失敗をし ました。申し訳ありません。」私は会長に会うやいなや「スミマセン」を連発したし、会長は私を喜ん で迎えて「かまいません」と微笑を浮かべていた。 ところが瞬間、霊能力者の私の目にはそれが微笑ではなく、怒りに感じられたではないか。その 時‘日本人たちにも悪口さえあれば’という考えがかすめた。もし韓国でなら「なんで遅れました か?人をこのようにお待たせしてもかまわないのですか。」という言葉が飛び出しただろう。だが、 いがみ合い言い争いをしながら、怒りは自然にやわらいでかえって怒った人はまもなく申し訳なく なって雰囲気はすぐ和気あいあいになっただろう。 しかし、日本人会長は違った。別れる時まで怒りをなんとか耐えて無理に笑い、もし私が彼の胸の 内を覗いて見ることができなければ、うっかりだまされるほど完ぺきな演技をした。 しかし、私はそのような彼が本当にかわいそうに見えた。胸のうちにある言葉を口の外へ排出でき ないことがどれほど大きな苦痛だったろう。 ただその会長だけではないだろう。それだけ日本人たちは‘悪口のない文化’のために多くの苦痛 とストレスを受け入れていることは明らかだ。悪口は言語の排泄物であり疎通だ。悪口を言う瞬間、 胸中にギュウギュウ積み上げたストレスがさっと解けて気が晴れる。また、私の感情があらわれる のは相手方との疎通といえる。ただし悪口に感情さえ混ぜなければ良い。これが悪口の純粋機能だ。 それでも悪口を推奨するのではない。表現せず心に閉じ込めておくことが必ずしも良いことではな いという意味だ。悪口は良いものではないが、時には悪口でも言えばと思う時がある。結局、相手 方を気楽にして上げることが世渡りが上手だということだろう。人が生きる世の中は正がいつも正 ではなく、邪がいつも邪ではないからそれだけ世渡りが難しいのかもしれない。 チャ・キルジン、厚岩(フアム)未来研究所代表 www.joseilbo.com/gisa_img/pro1420421857.jpg ソース:租税日報(韓国語) 韓国の悪口、日本の微笑 www.joseilbo.com/news/htmls/2015/08/20150817268586.html 「20世紀という時代を、私たちは、心静かに振り返り…」で始まる安倍首相の談話は苦悩の跡が 歴然だ。受容と排斥は各自がすることだが、複雑な心思だけは十分に伝わったと考える。率直で丁 重な、しかし十分に挑戦的な…! 安倍首相らしい文章だった。戦前の日本の誤謬を認める部分 は非常に率直であり、日本国内でも受け入れがたい人が多かっただろう。 「日本は次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした新しい国際秩序への挑戦者となっ ていった」「力の行使によって解決しようと試み、国内の政治システムはその歯止めたり得なかった」 などの評価は、村山談話では見られなかった。植民地支配(韓国)と侵略(中国)に対してもう少し 明確な反省と謝罪があればという物足りなさは残るが、日本自らに対する評価は一歩前進した。村 山談話が原因・結果に対する説明なく植民地支配と侵略を謝罪したことに比べ、反省文の形式とし ても非の打ちどころがない展開だ。戦争に向かった経過が安倍談話にそのように新しく込められた。 もちろん弁解や合理化の試みという点も否認できない。それは今後の行動が証明するだろう。
- 956 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 22:08:25.68 .net]
- こいろうは浪人持ってない
- 957 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:08:53.76 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 958 名前:今日のところは名無しで [2015/10/12(月) 22:09:16.32 .net]
- >>905
勘 違 い ば ば ぁ と そ の 擁 護 死 ね
- 959 名前:今日のところは名無しで mailto:sage [2015/10/12(月) 22:09:22.91 .net]
- >>945
買うか迷ってただけだったか
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