- 355 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん [2009/01/29(木) 12:49:48 ID:a46WkP+T]
- 応永の外寇(朝鮮名:対馬島征伐)
1419年。朝鮮は第4代世宗大王の時代。ただし軍の実権は親の太宗が握っていた。 倭寇の侵入に悩まされていた朝鮮は、倭寇の本拠地であった日本の対馬に 約1万7000の兵力を持って6月19日に巨済島から出航、翌20日に対馬に侵攻。 *対馬の人口は3万前後で推移しているので、戦闘要員は最大でも7000以下。 これは全島民動員しての数だから実際はもっと少ない。 朝鮮軍は破竹の勢いで、漁船129隻を拿捕、民家約2000戸に放火、首級114などの戦功を上げる。 (韓国側の朝鮮王朝実録の抄訳解説本から適当に抜き書きした数だから正確な数は知らん。) しかし、対馬軍の伏兵により兵2500の大損害を出し膠着状態に陥り、 宗貞盛と和平交渉を結び7月3日に撤退。 なお、室町幕府では元寇の再来か?と動揺したらしいが特に何もしないうちに終わっている。 *当初兵糧は65日分用意するつもりだったが、 指揮官の李從茂(イ・ジョンモ)が懐に50日分の金額を着服。 兵糧を2週間分しか用意しなかったことの他、 李從茂は己が傷つくのを恐れて和平交渉を締結、 さっさと引き揚げて褒美にありつき、朝鮮側の大勝利という歴史捏造のもととなる。 結局、この事件は、 対馬宗氏が倭寇を取り締まる代わりに朝鮮との独占貿易権を手にする事で決着する。 これ以降対馬・壱岐・五島列島の日本人主体の前期倭寇は減り、 中国人らが主体の後期倭寇の時代に入る。
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