- 191 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん [2013/10/26(土) 01:52:03.46 ID:eaFgs5un]
- コピペだが基本資料が要領よくまとまっているので
これに日本側資料(記紀)や考古資料(広開土王碑文。朝鮮半島に複数の前方後円墳が存在。埴輪まで出土している)を含めて考えると、朝鮮半島に倭人の政治勢力が一定期間存続したことは間違いなさそうだが 346年 倭の軍隊が突然に風島を襲い、さらに進軍して金城(新羅首都)を包囲して激しく攻めた。【三国史記・新羅本紀】 364年 倭兵大いに至る。 王はこれを聞き、とても敵わないと恐れる。【三国史記・新羅本紀】 391年 倭が海を渡り、百残(百済)、□□新羅を破り、これを臣民とする【広開土王碑】 393年 倭人が侵入し、金城を包囲して5日間も解かなかった。【三国史記・新羅本紀】 397年 百済、倭国と国交を結び王子の腆支(テンシ)を人質に送る。【三国史記・百済本紀】 399年 倭が新羅の国境に満ち城池を潰破し民を奴客とし、百済は誓いを違えて倭に通じた。【広開土王碑】 400年 倭が、新羅城のうちに満ちる。新羅救援の高句麗軍が接近すると倭賊は任那・加羅に退いた。【広開土王碑】 402年 新羅、倭国と国交を結び奈忽王の子の未斯欣(ミシキン)を人質に送る。【三国史記・新羅本紀】 404年 倭、不軌にも帯方界に侵入し、高句麗軍と戦う。【広開土王碑】 405年 倭国に人質となっていた百済王子の腆支、倭国の護衛により海中の島にて待機してのち百済王として即位。【三国史記・百済本紀】 405年 倭兵が侵入し、明活城(慶州市普門里)を攻撃。【三国史記・新羅本紀】 407年 倭人が東部と南部へ侵入。【三国史記・新羅本紀】 407年 万を超える倭が進出。【広開土王碑】 425〜443年の間 倭国王珍が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】 451年 宋が倭国王済を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東将軍・倭国王に任ず。【『宋書』倭国伝】 462〜478年の間 倭国王武が、自ら使持節都督・倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・七国諸軍事・安東大将軍・倭国王と称す。【『宋書』倭国伝】 478年 宋が倭国王武を、使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓・六国諸軍事・安東大将軍・倭王に任ず。【『宋書』倭国伝】
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