- 234 名前:昔の名無しで出ています [2014/03/13(木) 13:59:15.88 ID:H0yzwUq1.net]
- 親しいといえば、コロムビアの同期でもある古関祐而。古関は古賀政男とよく比較対比される。
古賀と古関はコロムビア専属となったのは昭和6年(1931)。(古関は10月、古賀は3月。) でも古賀と古関は、コロムビアでまったく対極の位置にあった。このことについては、 次を参照。 「日本の大衆歌曲・歌謡曲の歴史」の328 検索その2 >>106-101、古関祐而と古賀政男は色々な点でよく対比される ここ(古賀政男総合スレ)の >>217 参考 戦前の流行歌 kazuhisa.eco.coocan.jp/senzen1.txt を見てもわかるように、このあたり、どこにもスルーされているのだが、古関祐而は古賀政男と対照的に、一番大切なメジャーな曲(ヒット曲)がずっとでないで、専属契約破棄(解雇)の危機にあった。 それを救ったのが古賀政男だった。 古賀は古関の最大の理解者であり擁護者でもあった。 そして、苦境に立たされた古関祐而を救ったのは古賀政男だった。 古関とは対照的に、すでにコロンビアのドル箱になっていた古賀政男は、文芸部長和田登を通じて会社の重役に古関解雇の件を直訴した。 古関のようなクラシック音楽を基調にした芸術家肌の作曲家をヒットの損得で判断してはならいと訴えたのである。 それは、クラシック音楽を基調にした古賀政男自身のことでもあったのだ。 コロムビアは同社のヒットメーカーである古賀政男の主張を聞き入れた。 もし、古賀が古関を擁護しなかったならば、古関はコロムビアに留まることはできなかったばかりか、作曲家としても危うかったであろう。 それと対照的に古賀政男は、レコード会社を渡り歩くかのように、華麗な転進を果たし、いつもそこで黄金時代を築く。
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