- 7 名前:吉井和哉の中原繁氏への追悼文その1 [2009/06/07(日) 21:11:07 ID:3Hxbn4180]
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「中原 繁 コロンビアレコード時代のプロモーション担当で、自分と同じ年。 イエローモンキーがデビューした時から会社にいたが、大学を卒業したてでまだアルバイトだった。 2ndアルバムのエクスペリエンスムービーぐらいから、正式に社員になりイエローモンキー専属になった。 本来、THE CLASHやブルーハーツとかパンクが好きで、酔うとスッポンポンになり、よくリンダリンダを 熱唱していた。 当時のイエローモンキーは、あのとおりナヨナヨしていたので、彼の中では(?)だっただろう。 最初はお互い探り合いながらの関係だったが、日に日に意気投合していった。取材現場に彼が来ると みんなとてもうれしそうだった。 92年から2年5ヶ月続いたFMの深夜放送も欠かさず来てくれて(酔っぱらってる時も多々あったが) 場を盛り上げてくれたので、本来苦手だったはずのラジオで喋ることもどんどん楽しくなった。 3時で生放送が終わり、そのあと朝の7時ごろまで飲んで、『今度はこんなことやろうぜ』と どんなことか忘れるほどいつもベロベロだったが、少しづつ夢が近づいてきていることを、 店を出て朝を迎えている銀座の裏通りで、感じていた。 ある日自分が抱えている不条理を、全部紙に書いてそれに曲を乗せた7分近いバラードを作った。 社会的なこと、プライベートなこと等、思うことを遠慮なく全部書いた。 今ならそのまま世に出せるが、当時はそういうわけにはいかなかった。少しづつ詩を削っていき、 5分ちょっとの曲になった。録音したその曲を聴いて彼が言った。 『これは代表曲になるよ。会社の上の人間がなんて言おうが、オレが絶対売ってやるよ!』と。 『JAM』という自分の子供が正式に認知されたようで、とてもうれしかった。 『JAM』でミュージックステーション出演の話が来た。しかし歌番組に出ると、 曲を3分台にされてしまうので、『絶対に出ない』と、プロモーターである彼に 食ってかかった。困らせたくなかったが、それだけは譲れなかった。 しかし後日、彼の執念と人柄だと思うのだが、異例の"5分"という枠を取ってきて くれたのだ。『歌詞がある部分は全部歌えるよ!』と。 その瞬間からイエローモンキーは色々なものを次々とつかみ始めた、、。
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