- 746 名前:可愛い奥様 [2013/04/29(月) 10:51:15.34 ID:MYUJyQ+70]
- >>739
キリスト教禁止令は、日本人の女性が人身売買で海外に売られていて怒った秀吉がはじめたものですよ 豊臣秀吉が「伴天連(ばてれん)追放令」を発す 1587.7.24日(天正15.6.19日)、豊臣秀吉が、島津を破り、右近の役割が終わったのを見計らったように 箱崎の陣にあった秀吉は突然宣教師達を呼びつけ、「バテレン(伴天連)追放令」を出し、右近に棄教を迫った。 軍事力を誇示するコエリョに対してキリシタンの野望が事実であると確信し、キリスト教を禁ずること、 宣教師を国外退去に命ずることを伝えた。これが「天正(てんしょう)の禁令」として知られる第1回のキリシタン禁止令であった。 以後徳川時代にかけて、次々に発せられていくことになる。続く措置として、秀吉は、長崎の公館、教会堂を接収した。 近年解読されたイエズス会文書館所蔵の資料から、日本で布教を続ける宣教師達が本国と連絡を取り合いながら、 キリシタン大名を競合して「日本占領計画」を持っていたことが判明した。 ヨーロッパ最強と謳われたスペインの海軍力がその背景だった。 となると、追放令は、その計画を察知した秀吉の自衛対抗的措置だったことになる。弾圧を強める秀吉に対して、 宣教師側は四国・九州攻撃と日本国内への軍事基地の建設まで企てていた。頂点に達した両者の緊張は、 秀吉の死よって終止符を打つ。しかし、キリスト教禁制はその後も徳川幕府2世紀半の鎖国政策に引き継がれていった。 秀吉は、準管区長コエリヨに対して、次のように命じている。 「ポルトガル人が多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国に連行しているが、これは許しがたい行為である。 従って伴天連はインドその他の遠隔地に売られて行ったすぺての日本人を日本に連れ戻せ」。
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