- 438 名前:名無しさん@恐縮です mailto:sage [2021/02/28(日) 18:52:01.51 ID:2nNEovWz0.net]
- >>436の続き
もっと分かりやすく >善だとか聖だとかは正が内包しているので、しばしば勘違いして用いられる。 例えば「重い荷物を持って横断歩道渡ろうとしているおばあちゃん」の荷を持って あげるのは「善」と感じるだろう? それは「道徳」などによって(その行為が)善ということが常識(正しい)になっているからだ。 では強盗が非常に多い国の事で考えてみよう。 南アフリカはワールドカップを終えたばかりだが、大会前からいろいろと犯罪事情が報道されていた。 たとえば「車は赤信号でも止まるな」止まったら強盗にやられる。 ヨハネスブルグ駅から100メートル歩いたときに強盗に遭う確率150% これは一度は必ず被害(100%)にあって金を取られるが、二度目は50%の確率で さらに身ぐるみはがされる、というもの。 なんともはや凄まじい世界だが、あなたがそこで 上記した善行、つまり横断歩道を渡ろうとしてる老人の荷物を持ってあげようとしたら どうなるだろうか? この場合は「あまりにも多い犯罪(強盗)」という事実によってその行為が「強盗」と思われるのが 常識(正しい)。 つまり周りにいる人は「正しい行動」を取ろうとしてあなたを取り押さえるだろう。 最悪の場合、警官がいたら撃たれるかもしれない。 どうだろうか?内包という言葉を使ったが 善というものが正に担保されていなければ意味はない、というのが分かってもらえただろうか? ・・・続く
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