- 329 名前:132人目の素数さん mailto:sage [2008/06/09(月) 18:55:32 ]
- 定義を額面どおりに”読む”と、「ε>0でありさえすればどうでもいい」という
ことになる。この読み方は間違いでは無いものの、「∀ε>0」という表現だけに 注目していて、ε−δが言わんとしていることを全く汲み取っていない。ε−δの 本質はやはり「εが小さいから意味がある」のであって、この意味で、>>328の 読み方は”悪い”。間違ってはいないが、悪い。非常に悪い。 考えてもみよ。極限という概念は、素朴には「どんどん近づいていく」という概念 なのだから、”近く”がとても重要なのであり、”遠く”の方についてはチェック しようがしまいが何ら支障が出ないように定義が出来なければならない。 「ε>0であればどうでもいい」なんていう、近くでも遠くでも成り立っている ことを要求する定義でうまく極限が定義できるはずが無い。 それでもうまく行っているのは、ε−δの定義は次と同値だからだ。 ∃δ1>0, 0<∀ε<δ1, ∃δ>0 s.t |x−a|<δ→|f(x)−f(a)|<ε これは、εの動く範囲として0の近傍だけ見ればよいと言っているのだ。あるいは、 εが”大きめ”のところはどうでもよいと言ってもよい。結局、ε−δは、遠くに ついては何もチェックが要らないと(遠まわしに)言っているのだ。我々が心配 しなくとも、最初から「遠くの方はチェックしなくてよい」定義になっていたのだ。―(*) だからこそ、「ε>0であればどうでもいい」と読める定義なのに、うまく 極限という概念をコントロールできるのだ。この意味で、 「どんなに小さなε>0に対しても」 という言い回しは脚色でも何でもなく、むしろ本質に沿った自然な言い回しではないか。 逆に言うと、「ε>0であればどうでもいい」なんていう、近くも遠くも均一に扱う 滅茶苦茶な読み方でも通用するのは、ε−δが持つ(*)の性質の恩恵を受けているからに 過ぎない。
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