- 656 名前:地震雷火事名無し(茸) mailto:sage [2014/06/22(日) 20:38:26.21 ID:k5ylXMoG0]
- ★大阪を代表する司馬遼太郎先生がこういった文章を残していますよ。
司馬遼太郎『街道をゆく 第21巻 神戸・横浜散歩、芸備の道』P159〜 …神戸にとって、大阪は忌むべき旧時代の象徴であった。 江戸期、兵庫と兵庫港は大坂の奉行所の支配下にあり、大坂から与力一騎がやってきて兵庫における行政事務を担当していた。 江戸期の商業の一特徴は、「株仲間」というものだった。同業仲間としてはたがいに過当競争をしがちだし、政府(幕府)の保護が必要な場合もある。 政府としては商業というえたいの知れぬ膨張や動きをする─ともすれば封建制のわくからはみ出がちな─ものを掌握しておくのに、 同業ごとに「株仲間」をつくらせておくほうがいい、というのが幕府の思想にあったのだろう。 たとえば大坂における煮売屋の株は744株、湯屋の株は140株、髪結床の株は278株、旅籠株は976株というもので、 新規に商いをする場合、株仲間のうち廃業したりして空株になっている株を買うことからはじめなければならなかった。 お株をとられるという慣用句が、いまなお使われている。 その人のお得意の芸や癖を、一座の誰かに取られるといった他愛もない場合につかわれるのだが、言葉のおこりは江戸期の株にあり、 深刻な例でいえば、当主が急死して息子がまだ幼い場合など、叔父などが番頭をまるめこんで株を自分のものにしてしまうことで、 たとえ先代以来の家屋が店舗であり、息子がりっぱに成人しても、とられた株がもどってこなければ営業はできないのである。 江戸中期以後、兵庫は北前船の出発港の一つとして栄えたが、廻船問屋の株はすくなく、十数軒しか許可されなかった。 このことは、大坂の同業者が、大坂奉行に働きかけて兵庫港の成長をおさえこみつづけたということがあるらしい。 江戸期、開港場である横浜も江戸に支配されていたが、そのくせ横浜には江戸を憎む感情がないにひとしいのは、 江戸が日本国の首都であり、政治・文化の権威の中心であるということがあって、江戸への尊敬心がつよすぎたことによるのだろう。 この点、大坂には、都市を装飾するところの政治や文化の権威をいうものがなく、兵庫港からみれば、そういう大坂に、 大坂奉行所を通じて支配されていることが笑止千万だったにちがいない。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━ 大 坂 の 同 業 者 が 、 大 坂 奉 行 に 働 き か け て 兵 庫 港 の 成 長 を お さ え こ み つ づ け た と い うこ と が あ る ら し い 。 中 央( 幕 府 、政 府 )の 力 を 借 り て 神 戸 の 成 長 を 抑 え 込 む の は 卑 怯 者 大 阪 商 人 の 伝 統 。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
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