- 568 名前:名無しさん@3周年 mailto:sage [2007/02/14(水) 22:05:01 ID:wmGqUakN]
- >565
>確かな資料も何も、釈尊の時代(この場合は対外道)からの話なんだが・・・ 拝火教の摩訶迦葉や目連が改宗した話は有名だね しかし、それをもって法論に負けたら改宗する慣習があったことの証明になるかというと疑問だ さらに中国や日本にも慣習があったのかというと、? 奈良時代の国家に統制された仏教が宗派間で宗論を起こしえたのだろうか? まあ、明確な史料がなければ、宗論についての話はただの想像にすぎないよ >確かに、(ネット上では)御書以外は見つからない。 三一権実論争は817‐821年(弘仁8‐12)にかけて展開された論争 最澄が天皇から唐へ行くように言われたのは802年(延暦2) 最澄が天皇の覚えがめでたくなったのは、802年、和気広世の主催する高雄山寺(神護寺)法華会の講師に招かれ、 その斬新な講義の評判が天皇の耳にも達したことが機縁。 講義内容は『摩訶止観』『法華玄義』『法華文句』の法華三大部で、列席した南都の諸大徳も講を称賛したとされる。 つまり最澄入唐の機縁となったのは宗論ではなく法華会の講義。 南都の諸僧は褒め称えたが改宗なんぞしていない。 その後、最澄は天皇の覚えがめでたくなり、奈良仏教を批判するようになる。 危機感を抱いた奈良仏教側の徳一が仕掛けたのが三一権実論争だったんじゃないかという話だ。 澄は死ぬまでこの論争に手を取られ独自の教学を立てられなかった。 >この件に関しては、否定見解も見つからなかった。 そりゃ、そもそもそんな御前法論がなかったんだから否定見解もないだろう
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