- 463 名前:名無しさん@3周年 [2006/11/27(月) 12:41:25 ID:6c5+Yzzh]
- >>462
>>間違った師を論理的に批判するのと同じ方法で 正師を仰ぐプロセスを論理的に説明しないと 僕は論理的に判断するとは言ってないはずですが・・ そうじゃなくて、禅宗だったら、やはり、正師からの証明があるかどうかでしょう。 印可があるかどうかがまずはの基準。 そのほかは、やっぱり自分でできる限り勉強して修行して、 判断できるところまで自分が行かないといけない。 ラム・ダスも、修行が進まないと、正師が目の前に現れても、わからないと言っている。 『ビー・ヒア・ナウ』では、師は、自分の判断・選択によって選ぶんじゃなくて、 あるところまで修行が進めば、自然と必要な師に出会うと言っている。 だから、問題は、結局自分が修行をどこまで進められるかと言うこと。 あるいは、正師がそれと映るほどまでに、自分の心が成熟しているかどうかと言うことでしょう。 >言葉や素振りで正師のフリなんかどうとでもなるってんなら尚更難しいよ。 それもあるところまで行けば、判断できると思う。 >弟子の悟りの証明のくだりも意味がわからない。 悟らずして悟りの判定が可能であることの論理が見えて来ないんだ。 だから、弟子が悟ってから、師を証明すると言ってるでしょう。 悟らずしてとは言ってないよ。 >だから疑いから出発して師を離れることが論理的に見えるんだけどな。 これもよくわかりません。 僕は誰も信仰してないし、誰の弟子でもないけれど、この人は本物だろうという人は何人かいる。 そういう人のところにたまに行くことはあるけれど、基本的には、一人で修行してる。 離れようとか、くっつこうとか思うことはない。
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