- 344 名前:名無しさん@3周年 [2006/11/20(月) 01:53:12 ID:tSALB5DS]
- >343
>今日が何日でここは何処か。自分はなんと言う名前か。 それを把握するのが自我。 そういった、対象を把握する認識主体と、自我は本来別なのではないでしょうか。 心理学なんかでも、主体と自我は別に論じてる場合が多いのでは。 もちろん、自我があるうちは、認識に自我による投影、思い込みが混じりますが、 自我がなくとも、知覚、認知、思考、判断は出来るのではないでしょうか? ところで、結局自我というものは、環境時代、その他全体の中で「つくられたもの」もと言ってしまっていいと思う。 それを自分でつくったように思って同一化するから、誤る、迷ってしまう。 そうじゃなくて、われわれはいつでも全体と一つなのではないだろうか? EOが言うみたいに悟りによって、全体と一つになるのではなく、悟る前から、われわれは全体と一つであったし、全体から離れたことなど一度もなかった・・ 個体は全体の一部であるという意味で、はじめから全体と一致している。 だったら、やはり、個が全体に「なる」のが悟りというのは、ちょっとミスリーディングな説明ではなかろうか? 実際には、どんなに修行しても個が全体に「なる」ことはあるまい。個は個のままでしょう。 三昧というのは、確かに全体意識になるという面はあるのだろうが、三昧が悟りではないはず。 ここらへん、EOの勘違いと違うかな?
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