- 1 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2016/05/07(土) 22:27:26.22 ID:sQFuDtcu0.net]
- 大半、自由意思で居住
──────────── 外務省、在日朝鮮人で発表 ──────────── 戦時徴用は245人 ■1959年7月13日 朝日新聞 brain.exblog.jp/3865449/ megalodon.jp/2010-0311-1237-43/maokapostamt.img.jugem.jp/20090131_380712.jpg mblog.excite.co.jp/user/hogetest/entry/detail/?id=2057269 livedoor.2.blogimg.jp/supermickey/imgs/b/2/b2210e31.jpg ・終戦直前、日本には200万人の朝鮮人がいた。 ・その内、140万人は終戦直後に朝鮮に帰った。 ・更に北朝鮮帰還事業などで10万人が朝鮮に帰った。 ・つまり200万人のうち、150万人…つまり75%が帰国した。 ・国民徴用令は1939年7月から施行された。(日本人と台湾人) ・しかし朝鮮人には1944年9月まで適用されなかった。(つまり優遇されていた) ・1945年3月には日韓フェリーが停止されたので、徴用が可能だった時期はたったの7ヶ月。 ・1959年の調査では在日における「徴用者」の人数は…たった245人だった。 ・現在、日本に残留している朝鮮人は「自由意志」による残留である。(犯罪者を除く)
- 13 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2016/05/07(土) 23:27:03.16 ID:JLCQxV6F0.net]
- 私たちは類例のない悲劇の国に、うかつにも手をつっこんでしまったのである。
朝鮮半島に巣くっていたさまざまな悩み、とぐろを巻く恨み、怒りと絶望。 あえていえば、手を触れないですめばいちばんよかった。へたに手を触れたために、 内部のドロドロとした情念までもが、われわれに火傷になって降りかかってきたのだ。 西尾幹二/著「国民の歴史」 yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plus/1451730614/744
- 14 名前:名無しさん@お腹いっぱい。 mailto:sage [2016/05/07(土) 23:52:36.90 ID:SqE/IQuC0.net]
- 月刊WiLL:2016年2月号
ある編集者のオデッセイ「魔都・上海の街で考えたこと㊳」 堤堯 ttp://www.fujisan.co.jp/product/1281681159/b/1313631/ 日米間に戦雲が兆してきた1941年4月頃、日米諒解案なるものが双方で交わされた。実はこれ、二人の米人牧師が駐米大使・ 野村吉三郎にもたらしたもので、間を繋いだのは駐米の陸軍諜報部大佐・岩畔豪雄だ。 諒解案の内容は至極穏やかなもので、これを受け取った外相・東郷茂徳は、これなら何とか日米間で話し合いがつくと思案し、 この線で交渉を続けるように野村に指示する。 実は二人の牧師は米国政府の情報部員で、諒解案はまったくのフェイク(偽造)だった。 のちに岩畔が書いた手記によれば、野村も岩畔もフェイクと気づいていたが、穏やかな内容の諒解案を示せば日本側に高まる 戦意を和らげ、頭を冷やして交渉を進めることができると考えたとある。にわかには信じがたい話だ。 (中略) 仮に野村が「良かれと思って」、ニセモノと知りつつ諒解案に固執したとしても、それをニセモノと見抜けず、それをベースに延々と 実りのない交渉を継続した外相・東郷もまた同罪ではないのか。要するにアメリカは戦争準備の時間稼ぎのために、日本を ニセモノの交渉案でベビーして(あやして)いた。 東郷は開戦時と終戦時――日本現代史で最も重要な時局に、二度にわたって外相を務めた。当時の日米関係史を読むほどに、 はたして東郷がこの時期、二度の外相に適任だったのか、とつくづく考えてしまう。 東郷は韓国からの渡来人の末裔で、本名は朴茂徳。東大法学部に進学する折、東郷茂徳と改名した。誠心誠意の人物として 知られるが、あえていうなら朝鮮民族のDNAのせいか、いささか短気なところ、短絡的なところがある。 たとえば東郷はハル・ノートを突きつけられたとき、「頭の中が真っ白になった」と記し、こんなものを受け入れれば先人らが 積み重ねた努力がすべて無に帰す、こうなれば戦争もやむを得ない……といった意味のことを縷々と記している(『時代の一面』)。 (中略) 事実、野にあった幣原はハル・ノートの次第を知り、「これは最後通告ではない。交渉の余地はある」と廟堂に進言している。 吉田茂に至っては、東郷に辞任を勧告した。辞任の次第によっては、開戦に走る東條政権を倒閣できる。対して東郷は「いや、 事ここに至ったのは自分が交渉した結果だ。他の者に開戦の詔書に副書させるのは忍びない」といった意味のことを言って、 吉田の勧告に応じない。 東條も東條で、ハル・ノートを公にしない。これを公表すれば、事態は変わったかもしれない。 (中略) 「なぜハル・ノートを公表しないのか」 と問われた東條は、 「公表すれば、国民はこれを受け入れる。そうすれば、中国戦線で散った十万の英霊に申し訳ない」 それが東條の答えだ。時の首相も外相も短絡に過ぎる。東郷は終戦時においても、短気を起こした。ポツダム宣言の扱いに憤激 して、外相を辞任すると言い出す。辞任すれば鈴木貫太郎内閣は瓦解し、新たな内閣を組閣しなければならない。その間、ソ連、 支那、イギリスらが攻め寄せる。下手をすれば日本はドイツ、朝鮮のような分断国家になっていた。 東郷の辞任を押し留めたのは陸相・阿南惟幾だ。
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